大人酔い

 少し前に地元の友達数人で集まり、居酒屋に行った。軽くお酒を飲みながら、近況報告は少しで、生産性の無い、だけれど1番楽しい時間を過ごした。このご時世で営業時間が短縮されてるから、話し足りなかったので、公園に移動してもうちょい話そうということになった。

 地元の友達、夜の公園というシチュエーションにみんな舌が饒舌になっていき、恋愛の話や、将来どうしていくか、自分は成長できてるか、といった昔はしなかった話をしてた。各々が「俺はそれはこう思うな」とか「あー、わかる」とか自分の考えを深く話す。

 その言動が、自分が大人になれてるかを確認してるようで、成長を実感するのに必死なようで、少し苦手だ。"大人"という言葉に、世界に、酔っているような気がする。

 友達が「最近こういうことがあって成長した」という言い方をした時は聞いてられなかった。成長しないとダメなんだろうか。それを誰かに伝えないとダメなんだろうか。生産性のない会話をしているのが何よりも楽しい時間だったのに、友達同士でも競争しないとダメなんだろうか。凄く面倒くさいし、寂しかった。

 多分人に自分の考えを話すという事は、承認欲求からなのだろう。こんなことまで考えれるようになったというのを誰かに聞いてもらい、否定されないことで承認欲求を得るのだろう。

 その友達達は凄く仲良い関係だと思ってるけど、自分の底の部分はあまり見せたくない。自分も承認欲求はあるから、底に近い部分まで話す友達はいるけれど、本当に2、3人もいれば十分だ。自分の底を10人、20人話せる人は社会的に正しいと思ってる人だし、自分に自信がある、もしくは自信に渇望してる人だと思う。何故かそういう人が信用できない。

 皆んなが深い話を曝け出すと、自分もしないと、コイツは成長してない、もしくは腹を割ってないとされる。面倒くさい。皆んなの成長話は社会的正解の話しかしない。社会より個人を大切に思っていたい。そんな考えを話すと子供とされる。昔は、同い年の人より冷めてて、俯瞰的に見てたのか、大人っぽいと言われることがあった。でも今は自分で子供っぽいって見られるんだろうなと思う。自分の底は何も変わってないだけなのに。変わることだけを成長と捉えてるのが凄く嫌だ。それが何かによっては、変わらないことも変わることと同じぐらい、それ以上に大切に思える人でいたいし、そういう人が好きだな。

 大人になりたいし、成長もしたい。だけれど、社会的に大人になることや成長だけを望み、それ以外に目を向けれない人にはなりたくない。"大人"に酔いたくない。自分は大したことない、忘れたくない。

 

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