8月 母の誕生日(けっして忘れないこと)

「鍛えておかないとね。足はすぐ弱るから」

 いつもこうやって体操をしているのと母は病院のベッドの上、伸ばした足を交互に持ち上げて笑った。

手すりや歩行器、点滴の器具まで支えにして病棟の廊下をくるりと一周、母はひとりでよく歩いた。ポータブルのトイレを嫌い、無理やり許可してもらっての「お手洗いのついで」の散歩だ。無理をしてでもしゃんと伸ばした背中は、私は生きてここに居るのだ、そう宣言しているようだった。

廊下の突き当たりの大きな窓には、吸い込まれそうなくらい奇麗な夕焼けが広がっていた。

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 数か月前から輸血と投薬という対処療法で何とか過ごしてきたが、その日の検査結果は悪い数値を示した。その年の五月の終りだった。

入院を薦められたこの病院に着くとすでに、医師と看護師が母を待ってスタンバイしていた。いつもの昼食後の薬が飲みたいという母と、少しおなかが減ったね、なんて言いながらバスで駅まで出て、一口だけ昼食を食べてからの暢気なタクシーでの到着だった。

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母は 朝の検温の前に起きて、身体を拭き髪を整え、枕に落ちる髪を丁寧に拾って奇麗にした。人に迷惑を掛けたくない気持ちが強い母だった。私に向かっても、悪いね、ごめんね、有難うと そればかり言い続けた。

病院が職場から近かったおかげで、夕刻、ほんの僅かな時間でも毎日会いに行き、食事をとる母の傍で話をすることができた。幾分記憶があやふやになってはいるものの、私の知らなかった母の思い出話を沢山聞いた。時間は母の生きてきた八十年をさかのぼり、母の親や兄弟、そのまた親の話にとなり、行ったりきたりしながらやがて父と出会い、私や姉が生まれて育っていく。笑ったり驚いたり、 このささやかな幸せがずっと続くかのように感じていた。

野球の好きな母は病室でも野球中継を楽しみにしていた。昨日はいい試合だったねと話を振ると決まって 引き継いで詳しく解説と感想を楽しげに語ってくれた。またある日は夕方遅く病室に行くと、暗い病室で泣いた後の目をしていて、野球が終わってテレビを消したら何だか悲しくなるのと 情けない顔で笑った。意識が無いと言われた時も 父の歌う調子っぱずれの応援歌、「六甲おろし」に心拍数を上げたのは偶然なんかじゃ、きっとない。

 台風の情報を気にしては、 物干し竿は下に、植木鉢は家の中に、父には雨風の日は出歩かないように、と電話もしてきてくれた。無理して来んでいいよ、子供たちのところに早く帰り、が口癖だった。大丈夫だよ みんな大きいんだし 、そう返しても早く帰るようにと そればかり言った。

 本人の希望と、私たち家族の気持ちを汲んでの一泊だけの帰宅。食べたいものを迷いなく挙げる素晴らしい食欲がただ嬉しくて、一番の食材を揃えての二日間のメニュー。ステーキ、天ぷらそば、鰻。希望通りに揃えた食事を美味しい美味しいと完食する母。許可が出た半身浴を済ませた母の満足そうだったこと。

病院に戻るタクシーの中で、街を歩く人たち眺め

「また ここでお買い物したい」

と呟いた。私は何と答えたら良かったのか。

少しでも状態が良くなったら帰りたい、通院治療にしたいと言ったと思えば、こんな状態のまま家に帰っても父に迷惑を掛けるから帰れないと言ったり、母の気持ちも揺れていた。

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佃煮や昆布、梅干しにふりかけ、母の喜びそうなものをあれこれと選んで運ぶ内、子燕にエサを運ぶ母鳥のような気になっていた。けれど本当はその日々、大事なものをもらっていたのは私の方だった。アイスやプリンを選んでは「おやつの時間」に通った姉も、多くの母との思い出を増やした。それぞれが病院で母と過ごした時間を教え合うことで、更に濃く深く、私たちが得たものは数えきれない。


虹を見たのは いつだったろう。

私が気づくと、母もベッドから降り窓際に行った。こんな大きくてくっきりしたのを見るのは初めてだと母も嬉しそうだった。

部屋を間違えて扉を開けた慌て者の看護師さんにも教えてあげると、他の部屋の人たちにも教えてあげるんだと またバタバタと出て行った。

私たちに 特別に与えられた神様からのプレゼントだとは思わない。けれど、一緒に虹を見上げて歓声を上げた、光が射すような幸福な時間に立ち会えたことに心から感謝する。

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大事なひとを失うことは「胸にぽっかり穴があく」んだとずっと思っていた。今それを訂正したい。
「穴」は空くかもしれない、でも溢れる程の思いが「穴」を豊かに満たしてなお余るのだ。

母のお気に入りの茶の間だけでなく、家のどの部屋にも母は居て 父の傍にも 私たちの隣にも 母は居なくなってはいない。大事な人の死を受け容れるということは「もうどこにもいないのだ」と悲しみの後に理解することだと思っていた。でも今は「どこかにいる」「どこにでもいる」、そんな風に思うのだ。

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私たちが失ったのは 触れたら温かい母の身体と、この先の新しく重ねていくはずの「思い出」かもしれない。悲しさや寂しい思いが無くなることはないけれど、やっぱり、「良かったね」と「ありがとう」が言いたい。

いい家族のもとに生まれて良かったね。一生懸命に生きてきて良かったね。父と出会って良かったね、お気に入りの家に住んで、趣味の刺繍で好きなだけ家を飾れて良かったね。子供や孫、皆に愛されて良かったね。

看護師さんたちに祝ってもらって感激したね。いいお誕生日だったね。


今年も言うね。

8月6日、「生まれてくれて有難う、産んでくれてありがとう」

大好きだよ。お誕生日おめでとう。

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