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草の波 夕暮れの船

「文藝MAGAZINE文戯15 2021 Summer」掲載作品 
お題は「船」でした。

掲載前に読んで頂いた方々より 主人公のひとり、女の子の「有理」の在り方についてのいくつかの感想をもらいました。その辺りについて私が感じたことを少し補足としてあとがきに書いておきます。
でも、まず読んで頂ければ嬉しいです。


◆ 草の波 夕暮れの船 ◆


「船だ」
自転車を降りて、始めに呟いたのは有理だ。

「おお、船だ」
「船だ!船だ!」
続いて和真、俊平、柊人。僕らは口々に叫ぶと自転車をそこに乗り捨てて、真っすぐ「船」に向かって走った。

小さな窓が並んで付いた壁、突き出たウッドデッキは舳先のシルエット、天窓のついた二階建ての部分はちょうど船尾側だ。近くで見ると少し形の変わったおんぼろな小屋には違いなかったが、遠くまで広がる草原の、風にうねる草の波の中、僕らを乗せるために現れた、それは間違いなく「船」だった。

*

小学生最後の学年になった僕らは、「探検」とか「冒険」とか言っては自転車で遠出した。行先はその日の気分次第。毎回違う道を選び、校区の外にだって平気で出る。どんなに遠くに感じたって限られた時間で行ける距離は大したことはない。僕らの頭の中の地図はどんどん出来上がっていたから、帰り道が解らなくなる心配なんて全くなかった。

土手に沿って川を遡り、行きつくところまで──その日はそんな勢いだったけれど、道に従って進んで行くといつの間にか川を離れていた。どんどん狭くなる石ころだらけの登り坂の先、目の前に開けたのはだだっ広い草地。西の空、夕陽が空を赤く染め、丈高く伸びた草が風に揺れていた。

勢いで「船」に駆け寄ったものの、一歩踏み込む前に急に弱気になった僕たちは、お互いの顔を見る。

「誰も住んだりしてないよな」
隙間からのぞき見ようとする和真。
「フホーシンニュウで 捕まったりして」
笑いながらも結構心配そうな俊平。
走るのが遅くてまだたどり着けない柊人。そんな中で躊躇なく踏み込んでいったのも、有理だ。僕の双子の片割れの有理はこういう時、誰よりずっと「男らしい」。

すっかり雑草が覆っているけれど、ずっと以前はここも畑だったのだろう。「船」の中を見回すと錆びついた農具や肥料の袋が転がっている。農作業用の物置というだけじゃなく、趣味でつぎ足しつぎ足し造った感じのする小屋で、天井には裸電球がぶら下がり、流しと小さなコンロもある。古臭いラジカセが置かれた木製のテーブルと、倒れたままの椅子は随分と埃を被っている。幾つかの壁板は剥がれかけ風に揺れてパタパタと音を立てた。急な梯子段を怖々上ってみると二階の床板もぎしぎし軋み、ところどころ朽ちて抜け落ちていた。天窓の下に破れた布張りのソファーベッドがある。触れると埃が舞い上がって柊人が咳込み、その様子が可笑しくてみんなが笑った。
「星を見ながら眠れるね」
天文好きの和真が言った。

窓から遠くに広がる草地が見える。その先はきっと崖か急斜面だ。地平線が空と接していて、本当に海みたいだった。

*

ずっと誰にも見とがめられないことに調子づいて、それから僕らは何度も何度も「船」に通った。電気も水道も使えなかったけれど 飲み物とお菓子を持ちよれば充分だった。和真が漫画や本を、俊平がボードゲームを持ってきた。壁には手作りのダーツの的や柊人の好きなアニメのポスターが飾られた。
「船長」は茶トラの大きな雄猫だ。 僕らがここを見つけるよりずっと前から縄張りにしていたんだろう、入って来た僕らを梯子段の上からじろりと睨み、毛を逆立てて威嚇した。

船長と仲良くなりたくて、次からは僕らのおやつだけでなくお土産を持って行くことにした。少ない小遣いからの出費は痛かったけれど、店の棚に並ぶキャットフードのパッケージを見比べて、どれを買うか皆で悩むのもまた、 楽しかった。

船長は、僕らの「貢物」を見ても、すぐには飛び付かない。得意の狩りで、鮮やかに獲物を捕らえ、テリトリーを巡回してはどこかで腹を満たしてくる。僕らの持って来るものをあてにする様子なんて全くなかった。

──独りで逞しく生きてきたんだね、凄いね、格好いいね、船長は。
有理はいつも、そんな船長を本気で誉めた。

まず有理が、終には僕ら皆が、船長の信頼を勝ち得て仲間として認められた。船長は相変わらず偉そうな態度のまま、気まぐれに有理の膝にどっかと座り込む。首を延ばして有理に喉を撫でさせると、そのまま気持ち良さそうに眠った。

船長はあまり鳴かない。それでも僕らが学校や家でのもやもやを愚痴ってぐずぐずと長居している時は、いつも 先に立って外に出て一声高く鳴いた。
──船長が「自分の持ち場に戻れ」って
──「前に進め」って言ってる

僕らはそう言い合って それぞれの家に帰るのだった。

*

夏になると流石に暑さには勝てず僕らは「船」から離れ、クーラーの効いた居場所を探して過ごすようになった。図書館、児童館、親の干渉の無い誰かの家、スーパーのフードコートとか、そんなところだ。

夏休みのある日、有理にしつこく誘われ、久しぶりに「船」に行った。暑いから嫌だと文句を言い言い、しぶしぶ付いて行く僕の前を有理は黙ったまま自転車を走らせる。流れる汗を拭き拭き「船」に入ると、先に入っていた有理が何かをじっと見下ろしている。有理の視線の先に数本の煙草の吸殻が落ちていた。煙草だけじゃない、椅子の下にはビールやチューハイの缶が転がり、僕らの持ち込んだ漫画が散らかっていた。壁のポスターに趣味の悪い落書きが書き込まれ、花火をした形跡もある。この「船」の持ち主のやったこととも思えない。 有理は床に放り出されたグラビア雑誌を蹴って隅に押しやった。船長を探したが、その日はずっと姿を見せなかった。嫌な予感がした。

「ごめん。あの場所のこと、うっかり話しちゃって」
数日後、俊平が謝ってきた。相当落ち込んでいる。中学生の俊平の兄貴とその仲間が、僕らの「船」を荒らした犯人だった。兄ちゃんはただのお調子者だけど、仲間の中には相当ヤバい奴もいる。当分「船」には行かない方がいい、と俊平が言った。
──有理は絶対に一人で行かせないで。
俊平は口ごもりながら、真剣な目をして付け加えた。

*

母と有理はよくぶつかる。もともとお洒落や買い物が好きだった母は双子の僕らを産んだ時、片方だけでも「女の子」だったことをそれは喜んだそうだ。そんな話を聞くと、男に生まれた僕の存在も結構悲しくはあったのだけれど、「女の子」に対する母の想いも有理にはただただ重く、迷惑だったようだ。

母が買ってくるフリルや花柄の洋服を嫌って僕の服を好んで着、髪を自分で短く切って、いつも有理は男の子に混じって遊んだ。母が誘っても買い物に付き合うこともせず、バレエやピアノといった習い事を薦めても頑なに断る。無理に始めさせても勝手に辞めて、有理は母の夢を壊し続けた。母はそんな有理のことを嘆き、何一つ受け容れてもらえない自分を可哀想だといつも言った。

──男だ、女だという時代じゃない、好きな格好で構わないじゃないか、本人がしたいことを応援してやればいい。
有理を庇い、僕のことについても、もっとちゃんと見てやって欲しい、と父は言ってくれた。
──貴方は本気で子供のことを心配していない。この家のひとは誰も私の気持を解ってくれない。
母は泣き、父を、僕らを詰った。

船は、此処ではないどこかに連れて行ってくれる。だからこそ僕らにとって、本当に大事な場所だった。

*

夕食の時間が近づいても有理は部屋から出てこない。有理の外出に気付いたのは、不覚にもついさっきのことだった。探しに行こうと立ち上がると同時に、玄関でドサリという音がした。見ると有理がしゃがみ込んでいる。髪は乱れ靴は片方で、パーカーに泥がついている。顔と腕に擦り傷があった。自転車で転んだだけだ、と有理は言った。母は有理を部屋に連れて入ると、顔の傷を消毒しながら涙声で
「顔に傷なんかつくって……」
と言った。

「『女の子なのに』って言うんだ、どうせ」
有理は手当する母を上目遣いで見ると、その腕を振り切って部屋に駆けこんだ。中からドアを押さえたまま、いくら呼んでも出てこようとしない。ドア越しに、僕は有理に話しかける。船長のことを心配して「船」に何度か一人で様子を見に行っていたことは解った。怪我については本当に自転車で転んだのだと言い張ってそれ以上は言わない。 「何処で」も「何故」も絶対に大人になんか言わない。
僕らの居場所、「船」の秘密だけは何があっても守る──有理の想いは強かった。

「あいつら船長を追い詰めていじめてたんだ。笑って花火を振り回して」
沈黙は長かったが数日経ってやっと、有理は少しずつ、その時のことを話し始めた。
「自転車で転んだだけって本当?」
「船長があいつらに飛び掛かって戦ってくれた。その隙に逃げた」
「酷いこと、されなかったかって…心配してた。俊平が」
俊平が特に有理を名指しして「船」に行くことを止めた理由は鈍い僕にも解っていた。同じ格好をしていても、僕らの身体はそれぞれに成長している。有理がどんなに嫌がっても、今までと同じではいられない。外から見る限りまだ僅かながらの変化だったけれど、僕だって気づいていた。

「女の子だから?」
有理の声が尖る。
「女の子だから、女の子なのにって、いつもそう。いっそ格闘技でも習っとけば良かった」
──咄嗟に感じたのは「怖れ」。逃げずにちゃんと対等に戦いたかったんだ

疼くような有理の悔しさは伝わった。

「 誰だって怖いさ。相手は中学生の不良だもの、逃げて正解」
こんな上っ面の言葉で有理の気持ちが収まるとは思えない。有理の感じた「怖れ」は、僕の言うそれとは別のものだ。
「相手によっちゃ、本当は男の子だって同じくらい危ないって言うし」
付け加えた言葉もまた宙に浮き、有理にとって何の慰めにもならない。自分が情けなくてもどかしくて胸の辺りが痛い。黙って俯いていると、僕を慰めるように無理に明るい声を出して、有理が言った。
「船長が助けてくれた。さすが船長、勇敢だったよ」

*

花火か煙草の火が原因で「船」が燃え、犯人たちが捕まったと聞いたのは秋風が吹き始めた頃のことだった。俊平はめっきり無口になり、学期の半ばに遠くに引っ越して行った。別れの挨拶すら無かった。

和真は親に言われて塾に通い出し、柊人はオンラインゲームの中で冒険の旅ばかりしていた。毎日一緒に遊ばなくなったって、「船」で過ごした時間は僕らの大切な秘密だったし、船長の無事を僕らは皆、心から祈っている。それだけは変わらないと信じていた。そして僕らは、小学校を卒業した。

小学校の卒業を待っていたかのように両親は離婚し、母は家を出た。母には僕らよりずっと解ってくれる大事な人が居る、うすうす感じていたことだった。

*

「男に生まれたかったとか、男になりたいとか、そういうんじゃない」

有理はそう言ったが、進学した中学の制服のスカートを嫌い、女子だけの体育やグループ活動に馴染めずにいる。学校は休みがちで、登校した日は授業中も休み時間も独りでぼんやりと窓の外を眺めてばかりいると、同じクラスになった柊人から聞いた。

「校庭の隅に船長がいた」
「教室の窓の外に船長が来た」
学校から帰ると僕に時折、有理はそう言った。
船長が元気で生きていてくれると信じたかったけれど、僕もまた、船長が燃える「船」の中にいる恐ろしい夢を何度も見てはうなされていた。

──そんなことはあり得ない、船長は無事に決まってる。あんなに強くて逞しい猫だもの
いつも有理は僕にきっぱりと言ったが、僕以上に船長の安否を気にかけていたのは間違いなかった。

「船」のあった場所からここまでは結構遠いし、有理の教室は三階だ。有理が本当に船長を見たとも思えない。よく似た猫が中学の近所にでもいるのだろうか。仲良しの猫でもいれば有理の気持ちも解れる、僕は「学校の猫」の存在に期待した。

*

午後の最後のだるい授業を半分寝ながら受けていると、隣のクラスが騒がしい。廊下側の窓の隙間から覗くと、教室から有理が走り出したのが見えた。柊人が僕を呼ぶ。
「僕じゃ追いつかない、有理を追いかけて!」
何が何だかわからないまま、僕は有理を追った。

上履きのまま下足場を駆け抜け、有理は自転車置き場に走った。靴を履き替えるのももどかしく、そのまま追いかけて僕も自転車に飛び乗る。窓から他の生徒たちが見下ろして騒いでいる。気が付けば和真、遅れて柊人も自転車で有理を追っていた。
「走り出す前に、『船が来た』『船長が迎えに来た』って有理が言ったんだって、柊人が……」
追いついた和真が僕に教える。
行先はきっと「船」のあったあの場所だ。でも、もう「船」は無い。そう叫んでも有理には聞こえない。

川に沿って遡り、そのまま道は川を離れる。石ころだらけのでこぼこ道を登っていくとあの頃と同じ、草地が開ける。だけどもう「船」は無い。焼け跡は片付けられたと聞いている。船長の行方も解らない……はずだった。

丈高い草が風に揺れる。有理は「船」のあった場所に一旦立ち止まり、何かを探すように辺りを見回した。そして急に弾かれたように顔を上げるとまた走り出した。後を追う僕らの声も聞こえないみたいだ。草地を突っ切り先まで行くと、有理は空に飛び込むように手を広げ、視界から消えた。一瞬の出来事だった。

僕らは追いつけなかった。夕陽がやたらまぶしかった。 草地の先の崖の上に浮んだ雲は、船の形に似ていた。

*

足を骨折し顔や腕に傷を負った有理が崖の下から見つかったのは 猫が鳴いて場所を知らせたからだ、と救助に駆け付けた人から聞いた。けれどその猫の姿を、僕らは見つけることはできなかった。

有理は病院のベッドで天井を見つめたまま、あれは「崖から飛び降りた」んじゃない、「船に飛び乗ろうとした」のだ、と僕に言い、死ぬつもりなんかじゃ、もちろん無かったと、心配顔の父にきっぱり言った。

ギブスをした足と、頭と腕に巻いた包帯も痛々しかったけれど、数針縫った頬に当てたガーゼ、唇の端の青あざを見ると「顔に傷なんかつくって」と泣きながら言った母の声を思い出した。

「やっぱり、船長の乗った船が有理を迎えに来たのかな」
翌日、一緒に有理を見舞った後の帰り道、雲一つない空を見上げながら柊人が言う。
「でも、結局船長は有理を連れて行かなかったんだ」
夢見がちな柊人の言葉をいつも揶揄う和真も、今日は笑わない。
有理を助けたのはやっぱり船長だったと僕は思う。有理の大好きな、あの勇敢な猫だ。

休み休みの保健室登校でなんとか中学を卒業すると、有理は海の向こうの学校へと旅立った。父を説得するのには時間がかかったが、有理の意志は固く根気強かった。正規の留学先を自分で探し、渡航手段も自分で決めた。

*

僕は独り、草地を訪れて考える。今までのこと、これからのこと。性別の異なる僕の片割れのこと、僕自身のこと。緩い風に草が微かな音を立てて揺れる。ここで待っていたら、船が迎えに来るんだろうか。乗り込めば船は僕をどこに連れて行くんだろう。

姿は見えないけれど、遠くで一声高く猫の鳴く声が聞こえ、我に返る。そうだ、船長は誰も連れてなんか行かない。「自分の持ち場に戻れ」「前に進め」──船長はいつも僕らにそう言った。

大きく息を吸い込むと身体いっぱいに草の香りを含んだ空気が広がる。思い出の詰まった草地に背を向けて、自転車のペダルを力込めて踏み込み、坂道を降りて川に沿って下る。僕は僕自身で行くべき場所を探すのだ。


            了


-------蛇足かもしれない あとがき-----

私の中では彼女について「こういう特性のひと」と定義づける気はありませんでした。
この話での「有理」は、男女の双子のうちのひとりとして生まれ、いつも普通に男の子と遊んでいたのに、母親の期待する「女の子」であることを押し付けられている。それが窮屈で苦しくて仕方ない、そんなひとりの「人間」として書きました。
もちろん同じ悩みを抱える人と同じ名前で、自分の特性を説明できることでたくさん救われるということもあると思います。偏見や間違った扱いがあって苦しんでいる時、それを正していくために力になると思います。それは本当に大切なことだと思っています。

ただ、これに限って言えば その大きな深い問題に取り組んだということではなく、個人的な悩みを抱えたひとりの女の子が 傷ついて心が不安定になった後、前を向いて進むまでのことを書いてみたかった、そういう物語です。作者の力量不足ということもあるにはあるのでしょうけれどね。
(言い訳がましくて申し訳ないです(汗))



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