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【短編】地雷を踏み抜く!

「もちろん、まるごと理解しろだなんて言わないけれど、この気持ちが分かんないってあなたの感性相当変だと思うよ」

 男は困惑した。というより、……目の前で何が起こっているのか、理解できていなかった。

 男の視線の先には、黒い絹糸がふわりと舞っている。

「本当に、信じられない!」

 その絹糸の束は、ひとりの女のものだった。
 肩まで丁寧に伸ばされたその絹糸たち……もとい黒髪たちが、女の声音に合わせて大きく揺れる。
 女の薄い手のひらが、細い髪をまとめてぐしゃりとかき回す。
 頭を両手でがっしりと掴み、女は口を縦に広く開いた。

 形の良い真っ赤な唇が勢いよくめくれ、真っ白な歯が大きく覗いた。

 女の口の奥は、鮮やかな柘榴色だった。

「本当、信じられない!!」


***



 男と女は恋人同士だった。

 彼らは同じ会社に勤める社員同士だった。
 出会いは会社の飲み会。
 共通の友人がいたことから、なんとなく知り合いになり、趣味が似ていたことや好きな映画が同じだったことからなんとなく付き合いが多くなり、会う回数が増えていったことでなんとなく「そういう関係」に落ち着いた。

 そういう関係が半年ほど続いたタイミングで、二人は同棲をはじめた。
 男は女と一緒にいるのが楽しかったし、女は男と結ばれたいと考えていた。

「この人と一緒に住んだなら、毎日が潤うだろう」

 大きな段ボールをいくつも運び入れながら、男と女は視線を交わしながら何度も心の中でそう呟いた。

 男は思った。「まるで、映画のラストシーンみたいだ」
 女は思った。「まるで、童話の最後の一ページね」

 相手が隣にいるだけで、心が穏やかになる。
 こういう静かで満たされた日々がきっとこれから続いていくのだろう。

 ――二人は、そう信じて疑わなかった。


 なんて微笑ましいのだろう。
 笑ってあげたい。鼻で。


***


 デートやたまの小旅行だけでは、相手の日常的な習慣を察することはできないらしい。

 それに最初に気づいたのは、女の方だった。

 男は、家と外でオンオフの激しい性格だった。
 洗濯物はカゴに放り込みっぱなし。週末になってようやく洗濯機をまわす。正直、靴下ぐらいだったら二週間同じものを使っても気にならないという。
 料理は当然できない。女と出会うまでは、ずっとコンビニ弁当の世話になっていた。
 「さすがにお米ぐらい炊けるよ」と男の方は笑って言っていたが、女からしたらとんでもない回答だった。
 あんな固い米粒を自分に差し出しておいて、何を言うのだろうか。

 女は几帳面な性格だった。
 「日頃の行動が、いざという時、外でも出ちゃうのよ」というのが女の口癖で、最低でも三日に一度は部屋の掃除をしなくては気が済まない。無理やり男の部屋に入ってきて、机周りの整頓をしだすこともあった。
 見られて困るものは置いていないが、なんとなく気分が悪い。それに、男としては、「このポジションがいいのに」という言い分もあった。
 その度に女は目を三角にして怒った。「みっともないよ!」
 そう言われる度に、男の方も不機嫌になった。「そんな言い方はないだろ!」

 デートやたまの小旅行の時は、お互いにいいカッコをしていただけだったのだな。

 それに最初に気づいたのは、男の方だった。

 今の自分たちは、ギクシャクしすぎている。……なんだか、あの頃の思いが干からびてきたように感じる。

 つまらないな。

 男は、そう思った。


***



「もう、別れよう」


 その言葉を聞いた瞬間、女は頭が痛くなった。
 切り出された話題が意外だったからではない。
 うすうす勘づいていたものだったからこそ、頭が痛くなったのだ。

 たしかに、最近の自分たちの間には、気まずい空気が流れていた。
 女は小言を言ってしまうし、男はぶうぶう文句を言う。
 負の連鎖が、くっきり生まれていた。

「……でも、だからこそ、じゃないかと思うの」

 女は根気強く粘って言った。
 女の方が、男よりもいくらか情の深い性格だったのである。

「最近、会社の方も忙しいから、部屋を引き払うのにも時間がかかるでしょう? もうちょっとお互いに歩み寄る努力をしましょうよ」

 そう言って女は、「こうしてくれたら自分の小言は減るのにリスト」をテーブルの上に出してきた。


・靴下は毎日かえる。
・服は脱ぎっぱなしにしない。せめて、洗濯物のカゴに入れて!
・食器洗いをもっと頻繁にやってほしい。
・お米ぐらいまともに炊けるようになってほしい。
・忘れ物をする回数を減らす。

……


 リストはまだまだ下へと続いていたが、男は読むのをやめた。
 なんだか、自分ばかりが悪いみたいではないか。

 男は、ぶるぶる肩を震わせて、女にリストを突き返した。

「はっきり言って、お互い様だろ、と思うんだけど」


 男は元々低い声をさらに低くさせて、長々と語った。

「僕たちは、〇月×日に付き合いだして、△月□日にここで同棲をはじめた。お互いの為に割いた時間は、同じはずだ。同じタイミングで知り合って、恋人同士になって、一緒に生活をして……なんだかんだ、かけた時間はお互い様のはずだ」

 そこで、言葉を一旦切って……ゴホンと咳ばらいをし、男は人差し指を突き出した。
 相手ばかり責めるのは何か違うな、と少し思ったのだ。自分の非は多少認めつつ、「それでも自分なりに努力しているのだ」というニュアンスに改める方向性へと言葉の舵をきった。

「たしかに僕は、ボンヤリしてるさ。それは認めるとも。洗濯物をポイポイ置いていっちゃうし、料理もできないし……家の中ではモノグサ野郎に見えるかもしれない。でもさ、これでも外ではちゃんとしてるんだぜ? 君の仕事のミスをフォローしてあげたことだってあっただろ?」

 男の言葉には、一理あった。
 たしかに男は家の中では使い物にならなかったが、その分、会社ではよく働いていた。上司からも後輩からもよく好かれていたのだ。

 その点、女は礼儀正しい振る舞いではあったが、仕事ではよくミスをした。何事も完璧を求めすぎてしまうあまり、期限通りに仕事をおさめられなかったり、他の社員とうまく折り合いがつかない時があった。

 そういう時、男は女のためにこっそりフォローを入れてやっていたのだった。

「君は、家でも会社でもセカセカ動いているけど、それはしっかり者というよりは『そそっかしい』って感じじゃないか。そのくせ、自分と同じスピードで動けない人間に手厳しすぎるよ。あれもやってくれ、これもやってくれ……って、一度に何個も言われたって何からやればいいんだか分からないよ」

 話しているうちに、男は段々イライラしてきた。
 女の方だって、改めるべき所は多いじゃないか。

「なんでもかんでも理解してくれ、ってちょっとおかしいんじゃないのか?」


***



「もちろん、まるごと理解しろだなんて言わないけれど、この気持ちが分かんないってあなたの感性相当変だと思うよ」


 男の声よりも、さらにもう一段低い声がどんより響いた。

 男は困惑した。というより、……目の前で何が起こっているのか、理解できていなかった。

 男の視線の先には、黒い絹糸がふわりと舞っている。

「本当に、信じられない!」

 その絹糸の束は、ひとりの女のものだった。
 肩まで丁寧に伸ばされたその絹糸たち……もとい黒髪たちが、女の声音に合わせて大きく揺れる。
 女の薄い手のひらが、細い髪をまとめてぐしゃりとかき回す。
 頭を両手でがっしりと掴み、女は口を縦に広く開いた。

 形の良い真っ赤な唇が勢いよくめくれ、真っ白な歯が大きく覗いた。

 女の口の奥は、鮮やかな柘榴色だった。

「本当、信じられない!!」

 ここから先は、女の言葉がだらだらだらと続いた。
 蛇口をひねり過ぎた後みたいに……次から次へと、途切れることなく言葉が溢れた。




 ――割いた時間が同じ、なんて大前提の常識だよ。
 これがクリアできなきゃ付き合ってる意味もない。どっちかが消耗していく関係で終わっちゃうじゃない、そんなの。

 わたしが言いたいのはそういうことじゃない。

 どれだけ愛情を砕いてあげられたかって話よ。

 ……わたしはちゃんと心を砕いてあなたに尽くしましたけど?

 デートする時はとびっきりキレイな格好してあげたじゃない。お洒落って本当に時間がかかるんだからね、分かってる?
 化粧に手間がかかるのもそうだけど、前日から準備は始まってるのよ。
 全身でつじつまが合ってなきゃいけないから気が抜けないし。

 家でも何してあげたか覚えてる?
 料理も洗濯も、全部やってあげたじゃない。食器洗いも、部屋の掃除も、毎日毎日引き受けてあげてさ。

 それって愛情を砕いてたってことだよ。分かる?

 それなのに、何?
 あなたは「外ではしっかりしてる」ってさ……。
 じゃあ、なんで家の中に入ったらしっかりできないの?
 仕事のミスをフォロー「してやった」って言い方もなんなの?
 恩をわざわざ着せないと先の話ができないの?

 大体、このリストに載ってることって……わたしが普段からずっと言ってることだよ。
 急に不機嫌になる意味が分からない。
 怒るぐらいなら、最初からやりなさいよ。

 わたしはずっとずっと……ずっと、言ってきたじゃない!

 何回も、何十回も、何百回も、何万回も、何億回も……!!!

 それから、初めて会った時からずっと思ってたんだけど……。




……



 言葉はまだまだ溢れて、とどまることを知らなかった。

 女の剣幕に圧倒され、男はただただ黙っていた。

(一か月にニ三回くらいは、皿洗いを引き受けていたし……明らかに「何億回も言った」っていうのは誇張だな。)

と、正直男は思ったが……口をきっちり一の字に結んでただただ黙って女の話を聞いていた。
 先ほどまで湧いていた自分自身の怒りはすっかり冷え切っており、今はただただ目の前の嵐のすさまじさに目を見開くばかりだった。

(……最悪だ。)

 男は唇を噛みしめながら、苦々しく思った。


(完全に何か踏み抜いたぞ!)


***






 その後、満を持してというか時至れりと見てというか頃合いを見計らってというかタイミングがようやく合ったというか……とりあえず、男と女は別れた。

 もうこの際、どっちがどっちをフッたかどうかは関係のない話である。

 ただ、社内では「ぐうたらだった男がこっぴどくフラれた」という話が広く出回っているようだった。
 女が、別れた翌日から会社内でとにかく愚痴やら噂やらをバラまいてまわったからだ。

 尾ひれに背びれ、両足に両腕、果てには両翼も手に入れたその噂話たちは、会社のフロアを縦横無尽に駆けて抜けていった。

 もうここまでくると、怒る体力すら湧いてこないものである。

 男は同期や後輩に散々からかわれ、上司にはそれとなく説教もされた。
 それらを全て、げっそり疲れた顔で男は甘受した。
 「はいはい。こうなったのは自分のせいでございます」といった表情を浮かべ、何を言われても、男は同じように返事をした。



「僕が彼女の地雷を踏み抜いちゃったんですよねえ」



……と。

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