長野県の郷土料理「おやき」。丸ナスと甘味噌と懐かしい思い出。
母方の祖母がつくった「おやき」を、もう一度食べたいなと思うことがある。
おやきは、長野県の郷土料理。
ぶあつく輪切りにした、丸ナスの真ん中に切れ目を入れて。
そこに、甘くした味噌をたっぷり挟み込む。
白くてモチモチしている生地へ丸ナスを乗せて、ぴーんと引っ張りながら伸ばし、ていねいに包みこんでいく。
あとは、それを蒸し器にいれて、しゅんしゅんと蒸す。
できあがったおやきは、ナスがほろほろと崩れながらお味噌と混ざって、まわりの生地にしみたのもまた良くて、泣けてくるほど美味しい。
野沢菜やきんぴらごぼうを入れたおやきも好きだけれど、祖母がつくるおやきは、丸なす+味噌が断トツだった。
その熟練の技は祖母だけが持っていたので、東京へ嫁いだ母も、長野にいる母のきょうだいも、誰も祖母の味を再現することができない。
なにより、生地の具合が絶妙なのだ。
水分量や捏ねかた、包みかたのちょっとした違いで、出来上がりが硬くなったり、柔らかすぎたりしてしまう。
「やっぱり、ばあちゃんじゃないとね」
おやきを試しに作ってみた母が、ちょっと寂しそうに言ったのを覚えている。
祖母が亡くなって、10年以上がたつ。
私が子どもの頃。
丸ナスがたくさん採れる秋に、祖母からたくさんのおやきが送られてくるのを楽しみにしていた。
ダンボールの中、ラップでひとつずつ包まれているおやきを取り出して、その日の夜には母が蒸してくれた。
私は特に、マヨネーズをつけて食べるのが好きだった。
郷土料理には、各家庭の味がある。
長野のおやきは、お土産として売られているものを買ったり、取り寄せたりもしてみたけれど、やっぱり祖母の味にはかなわない。
でも、当然のように。
お土産やお取り寄せのおやきだって、大切につくられた料理だ。
食べものを売る以上、「美味しくなるように」と考えられ、作られていることが前提なのだし。
じゃあ、私や母はなぜこんなにも
「やっぱり、ばあちゃんのおやきじゃないと……」
と思ってしまうのか。
それは、おやきの味と、大切な「思い出」が一緒だからなんだろう。
小学校の夏休み。
長野の母の実家へ、遊びに行って。
瓜の種を十円玉でこそげ取るお手伝いをしたり、大きなスイカをみんなで食べたり、神社の広場でラジオ体操をしたり。
田んぼの脇、側溝に流れる水の音が気持ちいいとか、枯れかかった背の高いひまわりが綺麗だったとか。
そうした記憶まで呼び起こされて、一緒に味わっている気分になるからだ。
都会っ子の私は、長野の風景の何もかもが好きだった。
川中島古戦場跡の公園によく連れて行ってもらったことなんかも覚えている。
しかし母の実家は、長野オリンピック(24年前……)の開催に伴って、引っ越しをしなければならなくなった。
だから今はもう、あの頃と同じ景色を見ることはできない。
私も成人し実家を出て、祖母も亡くなったので、長野へ行く機会も減った。
それでもたまに思い出すのは、祖母が作ってくれたおやきの味。
記憶とともに、懐かしさを連れてくる食べもの。
でも。
でもね。
無くなってしまったものを惜しむだけじゃなくて。
実はそういうのって、これからも作れるんだよな、とも思う。
私は調理全般が上手ではないので、「これじゃなきゃダメ!」と言われるほどの絶品料理は作れないけれど。
その機会を、作り出すことはできる。
大きな公園を散歩した後、近くのタコ焼き屋さんに寄って、出来立てのタコ焼きを食べて帰るとか。
映画館で、ゆっくりココアを飲むとか、チュロスを食べるとか。
本を一冊、喫茶店へ持って行って、読了後にメニューから一つ選んで食べるとか。
味と思い出の余韻は、けっこう簡単に結びついてくれると思う。
記憶は、薄れていくもの。
だけど、新たに美味しい記憶をたくさん増やすのも、なんだかとっても良いことだな、としみじみ感じた秋の夜でした。