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知を得たいという欲求は、果てしない。『寝ながら学べる構造主義(内田樹)』感想

まず思ったのは「寝ながら学べない! 寝てしまう!!」ということ。ごめんなさい。

本書は、初心者向けに分かりやすく、ていねいにていねいに、噛み砕きながら語って頂いています。
私の頭では咀嚼するのが精一杯で、理解に至ったとは言いきれませんが……

構造主義が構造主義たるゆえん、そして、現代に生きる私たちの考え方そのものが、構造主義につよく感化されているということ。
私たちがいま常識だと思っていることは必ずしも普遍的ではなく、「自らの属する社会集団に固有の『民族誌的偏見』にすぎない」こと。
加えて、はるか昔の人々も様々なことを考え、悩みながら、人類の歴史を脈々と受け継いできた……その自覚を持つこと。

本書は、その手助けをしてくれるものです。
筆者である内田樹氏は、構造主義について、はじめにこう述べています。

私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。

本書の初版は2002年なので、そこから更に(ジェンダーなどの問題を含め)学術的論議が展開されているであろうことは、想像に難くありません。
ですが、構造主義の仕組みと歴史を知る入門書としては、とても読みやすい本だと思います。

構造主義とは何なのか。
どこから始まり、どのように発展し、現代へ至るのか。

筆者は、まず構造主義の源流としてマルクス、フロイト、ニーチェの思想を紹介します。そして後に、構造主義の直接の起源とされている言語学者ソシュールについて述べ、さらにその思想を発展させたフーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカンという「構造主義の四銃士」と呼ばれた人々の主義主張を中心として解説していきます。

行きつ戻りつ、寝ては起き、すこしずつ読み進めながら、私が疑問に思ったのは……レヴィ=ストロースの主張についてです。

「男は、別の男から、その娘またはその姉妹を譲り受けるという形式でしか、女を手に入れることができない。」これがレヴィ=ストロースの大発見です。
(中略)
キーワードは「反対給付」です。これは要するに、何か「贈り物」を受け取った者は、心理的な負債感を持ち、「お返し」をしないと気が済まない、という人間に固有の「気分」に動機づけられた好意を指しています。

これは、「贈与」と「返礼」によって社会はたえず変化していく、というレヴィ=ストロースの主張に基づくものですが……「女性は男性から男性へ贈与される存在」という認識は、ジェンダー的な観点から見てオッケーなのか? と単純に不思議に思ったので、調べてみることにしました。

そして、ネット上でいくつかの論文を読んだ後。
レヴィ=ストロースの言う「贈与される女性」については、それに当てはまらない習俗の存在が少なくないことや、近代の西欧中心主義的な思想であるという批判も一考に入れつつ……。
レヴィ=ストロースが、当時の社会において男女がどのような立場なのか、と(男性的目線であることは自明でありながらも)定義づけようと試みたことは、一概に批判できることではないな、という感想を持ちました。

そして、多種多様な文化や、廃れてしまった文化において、それらをひとつの枠組みに嵌めようとすること。それは既に強制的な意味合いを持つんだな、とも思いました。

たとえば民族学者が、世界中に散らばる膨大な数の習俗を調べていく中で、「とある一貫性」を発見したとします。
すると、どうなるか。
今度は、その「一貫性」という枠に「当てはまる習俗」を探す作業へと変化してしまうのではないでしょうか。

そも、世界各地の文化などを収集し、分析し、性質や類似性を調べることは非常に価値のあることだと思います。人類がどのように移動したのか、神話や文化がどのように伝えられ、変遷して行ったのか。それらを明らかにすることは、現代社会に生きる人間の「知を得たい」という、切なる希求をみたすものだと思うからです。

あらゆる主義主張に反論があるにもかかわらず、人間は知識を求めずにはいられない。
これは不思議なことであり、とても輝かしいものだとも、思います。

そして本書が終わりへと近づいてラカンの精神分析に移っていくとき、「鏡像段階」という単語が出てきます。

鏡像段階とは人間の幼児が、生後六ヶ月くらいになると、鏡に映った自分の像に興味を抱くようになり、やがて強烈な喜悦を経験する現象を指します。(中略)この強い喜悦の感情は幼児がこのときに何かを発見したことを示しています。何を発見したのでしょう。
子どもは「私」を手に入れたのです。
鏡像段階は「ある種の自己同一化として、つまり、主体がある像を引き受けるとき主体の内部に生じる変容として、理解」されます。

最近、鏡像について考えたばかりなので、興味深く読みました。
私も現在、学童期の子どもを一人育てていますが、確かに赤ちゃんの頃、目の前の鏡にうつる姿を自分として認識した瞬間がありました。

生後三~四ヶ月くらいの乳児は、まず「自分の手」を認識することから「世界と自分の境界」を知り始めます。これが「ハンドリガード」と呼ばれる行為であり、自我の目覚めへの第一歩です。
それに対し、乳児が鏡像の自分を認識するのは(個人差がありますが)二歳頃だと言われています。

ですがラカンは、この鏡に映った<私>を、虚構の系列のうちに<自我>の審級を定めたものであり、<主体>の未来において限りなく接近するものの、決して個人によっては引き受けることのできぬものである、と言い切ります。
むむむむむむ難しいですね……。

ラカンは精神科医でしたので、上記に出てきた各用語は以下のように解説されています。

主体:分析主体(患者)
自我:主体の意識システムの中心に位置するもの
私:主体の外部にあるもの

つまり、「自我」と「私」は主体の二つの「極」をなしているわけです。主体はその二極間を行きつ戻りつしながら、「自我」と「私」の距離をできるだけ縮小することにその全力を賭けます。そして、分析家(※)の仕事は、それを支援することに存するのです。
(私注※ 分析家=精神科医)

なんとなーく、分かるような。分からないような。

鏡像によって「私」を発見した子どもは、やがて「エディプス・コンプレックス」を克服して成長していく、と本書では説いています。これが「大人としての通過儀礼」であり、第二次反抗期を含む「思春期」であることは理解に難くありません。
(エディプス・コンプレックスは幼児期と思春期に二度克服される、とは『日本大百科全書(ニッポニカ)』にて参照しました)

エディプスは、単に父親の存在というだけではありません。筆者はこう言っています。

私たちは民話や都市伝説や小説や映画やマンガやTVドラマや、無数の物語を持ち、それを絶えず生産し消費していますが、ラカンが私たちに気づかせてくれることの一つは、それらの物語のうちの実に多くのものが「エディプス」的機能を果たしているということです。

自分を世界の中心として考えていた乳幼児~学童期を終えて、自分は既に社会というシステム――時に不条理すら感じられる営み――に組み込まれている、と自覚すること。
これが、人間の「社会化」プロセスであり、「エディプス」的機能による大人への成長だ、と。

ラカンが言うに、この「エディプス・コンプレックス」を克服出来なかった人を治療するためには、以下の方法が必要となります。

他者とことばを共有し、物語を共作すること。それが人間の人間性の根本的条件です。精神疾患の治療とは、まさにこの人間の基本に問題をかかえる人々をコミュニケーションの回路の中にふたたび迎え入れることをめざしているのです。

つまり、他者とのコミュニケーションを用いて、分析主体(患者の主体)を、ふたたび社会の……人間同士の営みに参与させること。
博識の筆者すら難解だというラカンの主張を用いて、この本は終わりを告げます。

あとがきまで読んで、ふうと一息ついてまた寝そうになって、慌てて姿勢を正しました。

「自我」と「私」をバランスよく保ちながら「主体」を維持するために必要なのは、他者とのコミュニケーション。社会はそのように形づくられ、人間同士の営みによって、たえず変化することを余儀なくされている。

構造主義とはあらゆる事象の構造をとらえること、と一言で片付けるのは簡単だけれど、ここまでこみいったものだとは、まったく想像していませんでした。

今の世間は「ポスト構造主義」と呼ばれていますが、それもまた時代の中のひとつの潮流に過ぎません。これから新たな主義主張が生まれていく可能性は無限大です。

知識が欲しいという人間の欲求は、なんて果てしないんだろう。
先にも書いた通り、本書を読みながら、何度もそう思いました。

内田樹氏へ、この本にかかわったすべての方へ、多大なる感謝を述べさせて頂きます。

Photo by Sandra Seitamaa on Unsplash

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