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脳味噌をぐるぐるとかき混ぜられているような感覚。『笑わない数学者 MATHEMATICAL GOODBYE S&Mシリーズ(森博嗣)』感想

犀川先生と萌絵ちゃんのシリーズ(S&Mシリーズ)は、十七年前くらいに漫画版の『すべてはFになる(浅田寅ヲ)』を借りて読んだ以来です。

それは非常に特徴的な漫画であり、絵柄も独特で、また物語自体も特殊なので、ちゃんと理解はできなかったものの面白かった、と思ったのを覚えています。その時は個人的に犀川先生が好きで、萌絵ちゃんには特に興味はありませんでした。

今回は、クリスマスにかかわる本を読みたいなあ、と思って買いました。
その関連性はともかくとして。
読了後は、いま読んで良かったなあ、と感じています。

さあ、ページをめくります。
まず登場人物の紹介、そして「巨大なオリオンの銅像が消える」という謎が発生し、これがプロローグとなります。すべての始まりです。
更にこの出来事は、後になって分かりますが、今回の事件最大の謎でもありました。このエピソードがプロローグとして使われることに、ふかく納得します。
クリスマスの夜に見た奇跡に、驚き、慄く子どもたち。

まず感じたのは、文章がすらすら読めることです。地の文が、饒舌でも難解でもない。均したように平坦。過剰な描写を好まないようにさえ感じます。

はっきり言って、意外でした。
筆者が工学博士で多彩な趣味をお持ちである、ということは知っていました。私の大好きな作家のひとりである吉本ばななさんが、エッセイなどでよく語られていたためです。
そうした先入観から、私は、もうすこし難しい言葉が多いのかと思っていました。いえ、正確に言うと、各章の横に付けられたサブタイトルは非常に難解です。けれど、地の文は違う。それが今後の展開によってどう変わるのか、変わらないのか。そこにとても興味が向きました。

犀川と萌絵の他愛ない会話にも、落ち着いたテンポがあります。それはやっぱり互いの年の差、と言うより、性格の差なのかな。恋愛未満のこういう雰囲気、私は好きです。

そうして、「三ツ星館」へ招待された犀川と萌絵が、オリオン像と邂逅します。ナナちゃんくらいだね、と言う犀川の「ちゃん」づけが面白い。
そこで犀川のオリオン像に対する軽い洞察と、萌絵の突出した計算速度についてのエピソードが出てきます。シリーズを通して読んでいる読者には周知の事実と思いますが、当然きちんと最初の方に入っていました。

打ちっ放しのコンクリート、三ツ星館という建物、オリオン像、四方の塔、それらを眺めた犀川の感性……。「自然を否定する」と言ってから、犀川との会話で即座に「生命以前の宇宙」と言い改める湯川氏。知性を感じます。

そして三ツ星館の廊下を歩きながら犀川が感じた、空間の描写には恐れ入りました。通常時の文体が平易な分、異質さが際立ちます。なるほど、こういう風に差をつけて書いているのか……と得心しました。

それと同じように、非喫煙時の犀川ののんびりさが分かります。N大学で助教授をしている彼の授業は変わっていると言う、生徒の一人である片山からの、萌絵との関係の指摘。そして萌絵の積極性。

やがてプラネタリウムでのディナーが始まり、私の(計算に関する)思考は停止してしまいました。算数及び数学は難しいですね。しょんぼり。

そして、姿は見せずに声だけ聞こえる天才数学者「天王寺博士」からの出題に正答した萌絵が、博士に認められます。そこで萌絵は、「オリオン像の二回目の消失」を希望しました。
博士は「十分だけ時間を与えよう」という言葉とともに南の出入口を開け、見に行くと確かにオリオン像は消えていました。列席の人々は激しく動揺します。
普通に考えれば、「南」の出入口が「北」とすりかえられていた、と推理できるでしょう。でもそれでは、あまりに単純すぎる。確実に、それだけではないはず。

その後、犀川と君枝の会話「オリオン像が消える時は人が死ぬ」、昇や湯川などとのビリヤード、萌絵とのあれこれなどがあり、午前三時を迎えて二人の死体が見つかります。
驚き、狼狽える人々の中で、冷静な犀川と萌絵。

凄い。

そう思いました。
私はいつの間にか物語に入り込んでいて、どの時点で物語に引き込まれたのかが、分かりませんでした。
読みやすく、なめらかな文体に、時折挟まれる数学的な見解。ふたつの殺人自体は、猟奇的でもショッキングでもない。ただ深い謎があるだけです。
それなのに、もう引き込まれている。

あとは、会話と登場人物が多いのに、誰が喋っているのかが明確です。それは都度、誰が言ったのか述べられているからだけれど、目立たない。奇妙に感じられるほどスムーズです。この文章の流れ方、素晴らしい。

なだらかな風の吹く丘にいて、突然巻き起こるつむじ風に髪を乱されるような、そんな感覚があります。

犀川と萌絵の、別々の方向から探り合っているような考察の応酬は、読んでいるだけで楽しくなりますね。数学の絡んだ推理については頭が働かないので、二人を中心に眺めることにします。

ここまで読んできて、漫画版『すべてはFになる(浅田寅ヲ)』の印象とだいぶ違うので、すこし面食いましたが、原作である小説とその解釈である漫画の印象が異なっていても、なんら不思議はありません。

ゆっくりと時間が流れていきます。犀川の思考回路は、まだよく分かりません。漫画で見た、複数人格の思考による衝動的な描写は、今のところ小説内では見当たりません。しかし、現時点で犀川の内部が詳しく描かれていないので、これからということなのでしょう。楽しみ楽しみ。

天王寺博士と犀川&萌絵の問答は、とても興味深いものでした。若者らしく素直に質問をする萌絵と、犀川は萌絵が驚くほど真剣に、「殺人の自由について」を問います。ここは、かなり重要な部分だと思われます。

事件は解決していないけれど、明日には帰ると決めた犀川。
ここで物語の約半分です。
これから、どう物語を持っていくのだろう?

直後、萌絵のこっそり喫煙からは怒涛の展開でしたが、さほど長くは続きませんでした。刑事さんからの再度の事情聴取も終わって犀川と萌絵がたわいもない話をしている時、ふと思いました。

このお話は、たとえば描写がひどく心に響くとか、そういうことではない。

物語が、頭蓋に直接響くような構成で出来ている。傍から眺めているはずなのに、脳味噌をぐるぐるとかき混ぜられているような感覚です。
それはなぜなのか?
考えながら読んでみようと思います。

そして東京にて、複雑過ぎる人間関係が判明しだしました。
ひえぇ……これは図にしてみないと、全く分かりません。物語の中でどこを簡素にし、どこを複雑にするか、というのは、かなり大切な要素なんだなと思いました。

後半のはじまりは、犯人がおらず、現場でもないところでの推理劇です。犀川と萌絵、そして聡明な萩原刑事、三人の思考が交錯します。そしてそれが、真実に迫りつつある――けれどもまだ決定打に欠ける――ところで、先が気になって読む速度が上がりました。
おおお、こういう盛り上げ方もあるのか。面白い!

ああ! 犀川先生の別人格が出てきた! ここぞというところで!
それまで一瞬繰り広げられていた、萌絵の友人たちのがんばりアピールが消えてしまうほどの衝撃!

この「解決へのきっかけ」って、今まで読んだミステリー小説だと、そこまで探偵役の心理描写は重視されていなかったように思います。けれども、このシリーズでは犀川先生の全人格が推理をするので、こうなる。なるほど。
そして漫画版の描写はああなったのだと思いました。とても興味深いです。

真相をつかんだ犀川は萩原刑事へ連絡をし、「今夜にでも関係者全員を三ツ星館へ集めて欲しい」と頼みます。続く以下の会話に、私は感動しました。

「七時ですね。手配しましょう。で、誰が犯人なんです? どうして全員を集めないといけないんですか?」
「ええ、そこなんですけどね……、実は、わからないところもあるんです」
「共犯者がいるわけですね?」

萩原刑事の「共犯者がいるわけですね?」という一言に、「うわあ!」と声が出てしまった。うわあ! こんな思考、私には出来ない!!
でも凄い!! その通りだ!!

そのあとの犀川と萌絵、ビリヤードに関するやり取りが優しくて、ちょっと泣いてしまいました。

エピソードの重さがすごい。文章は軽いのに、重量感がすごい。だから気付かないままに、没入してしまうのかもしれない。

あっ、解決編に入ってしまう。ついついエピソードに見蕩れ、読み進めてしまうところだった……。
一旦戻って、考えてみます。

サンドイッチと地獄のような熱さのコーヒーが解決糸口であること。
あの時に交わされた会話の内容が、核心に迫っているということ?
ダメでした……。何度考えても、推理すら立てられませんでした……オリオン像の消失は、「南」の出入口が「北」とすり変わっていたんだろう、ということくらいしか。

肩を落としつつ、解決編に進みます。
そして……。
私は諏訪野さんに、心底同情しました。

改めて、なぜ南が北と誤認されたのか。その方法だけでなく、理由までをも、犀川は明らかにしました。なぜ床が動くよう設計したのか。それはこの三ツ星館が、設計者に<太古の家>と呼ばれているからだと。

では、なぜ殺人はあのように行われたのでしょうか?
鈴木昇は、博士の息子。それが事実なら、遺産相続の権利がある。けれど、律子や俊一はそれを承知しないだろう。だから殺したということ?
それだけでも考えてみよう。なぜ律子は一号室からわざわざ移動させられたのか。「あなたにはオリオン像の謎は分からない」と知らしめるためか。そんな理由で……? おかしい。やっぱり、私の推理は進みませんでした。

犀川の解説は先へと続き、問題が出されます。
「鏡に映った像はなぜ、左右だけ反対となるのか」。

おっ、これは私にも取り掛れる問題かもしれない。
私は昔から、「なぜ鏡に映った自分と写真に映った自分は違うのか」ということが、不思議でした。
そこで、ネットで少し調べてみました。

解答: どうして鏡は左右を逆に映すのに上下はそのままなの?

大事なことは「実は鏡は左右を逆に映していない。」という点だ。そして「上下も逆に映していない。」のだ。鏡がしていることは「鏡を正面から見たときに手前と奥を逆転させている。」だけなのだ。

私にとっては、この説明が一番腑に落ちました。
鏡に映ったものは、手前と奥のみが逆転している。そして、鏡に映った自分の右手は『右手』である。つまり、左手ではない。
手前と奥が逆転しているということは……。人間の身体を、頭頂から両耳を通るように垂直に割って、前半身(手前)、後半身(奥)に分けるとします。鏡では、それが、逆になっている!

心理学からのアプローチは以下のようになっています。

鏡に映ると左右が反対に見えるのはなぜ?

鏡像の視点をとるかどうかは,自由にコントロールができます。もし鏡像の視点をとらなければ,左右が反対になっているとは思わないはずです。以前には知られていなかったことですが,私の研究では,だいたい3割から4割ぐらいの人が自分自身の鏡映反転を認識しないことがわかりました。

つまり、鏡を左右逆だと考えている人は、鏡の中の立像を自分と置き換えている。そうでない人は、左右逆だとは感じない。

これは、光の反射現象に対して、人がどのように認識しているか、ということなんだ……!!

わかった! 分かった!! 犀川先生の「バルタン星人」のたとえが分かった……気がする!! 嬉しい!!
震えてしまった。すごい。すごすぎる。

70%を過ぎてからは、読み終えるまで一瞬に思えました。
それまで謎を出すだけ出して、伏線もありながら、すべては謎だらけ。途中で、分かった! いや違った……という出来事も少ない。そして、ゆっくりと話しているはずなのに超特急で解決まで持っていく、明晰すぎる推理。
これが作家の持ち味、そして魅力なのだと、確信し脱帽しました。

私には天才の発想が全く想像できないので、何度も言いますが、推理はすっかり諦めていました。
そのため事件の真相に至っても、そこから終章へ向かっても、心は静かなままでした。(鏡の時だけ、脳内ですっごく盛り上がりましたが)

でも、それだけではありませんでした。
このお話には全体的に、もうそれとは気づかれないように自然に、あるいは分かりやすすぎるほど分かりやすく、「あきらめとかなしさ」のようなものが漂っています。解決編は、特に。
犀川と萌絵の弓道場でのやり取りで、うふふと笑ってしまったものの。
物語の根底には、天才数学者の、抗えない老いを超えた、感情の境地がある。

けれどそんな「あきらめとかなしさ」は、終幕の少女と老人のやり取りで、ふうっと消えたように思います。それはきっと過去のお話だったろうけれど、最後に、すこしだけあたためられた。そう感じました。

クリスマス、全く関係なかったな。ふふ。

最後に。
このミステリー(ミステリィ)小説は、先に「脳味噌をかき混ぜられているような」と形容しました。

ですが、それは「考えること」を、無意識に強いてくるからではないか。そんな印象を持ちました。
けれど勿論、「考えない」自由もある。そう言ってくれている気がします。

私は、天才数学者には一瞥すらされないだろうけれど。

ただ一言、素晴らしい。
森博嗣先生、この本にかかわった全ての方へ、深い感謝を捧げます。
ありがとうございました。

Photo by Ernest Karchmit on Unsplash

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