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『生き延びる叫びよ』(上) ⑤

おい地獄さ行ぐんだで!

(『蟹工船』 小林多喜二 著)

【失われて】


 「そのドジった人の落としたお金を拾っただけよ。教育だと思うのそれって。1500万円以上の強奪をすると、百数万--正しくは115万円なのね--の代償はつきものだって」と、みえ子は偉ぶった様子。

怒りを覚えた。
 教育?なぜ言えるのか、言える立場にあるのか、みえ子は。

 ただ、僕は口をつぐんだ。緊迫しているさなかに憤りの塊のような言葉を投げかけると、ことがいっそうこじれてしまう。

 「その拾った115万円、警察に届けないと。今なら間に合うし、使ってないことにすればいいだろう?」となぜか、僕はみえ子が盗んだ金をすでに使ったとの前提で話していた。
 「健一郎、なんで使った体なの?まだよ。これから散財するの」と言い、息継ぎをすることなく、「私は、ね。罪深いなにか--それがなにか分からなかったけれど、お金だったの、今回はたまたま--を使い果たしてから、死にたいの。拾った私は本当に愚かというか、これから追われる身になるのはバカな私でもわかるのね。ただ、不幸と罪の上に死ねるって、あまりにもロマンティックじゃないかしら?」
 「分からないよ。みえ子のことはもちろん好きだし、愛してる。ただ、みえ子は突飛なことを言うだろう?そんな時には、さ。まるで僕から離れてゆく、変な感覚に陥るんだ。それにみえ子は懐に余裕があるだろう?なんでそっちじゃないんだ?」
 「2回も言わせないで。私のお金は体で稼いだのよ。罪のあるお金を浪費したいの。分からないでしょうね、この気持ちは。変な感覚でもなんでもいいけれど、それすらも受け入れるのが本当の愛じゃないかしら?私は本心では激昂している健一郎が大好きよ
 「それにね。私が拾った、強奪されたお金の一部を持ったり使ったりするのが、いかにも道理に反しているようなこと言うじゃない。それなら訊くわ。あなたの手元にあるお金は、クリーンなのかしら?犯罪者が荒稼ぎした、汚いお札なのかもしれないでしょう?汚いお金って気づかなければ赦されると思うって、あざといわよ。出所なんて探れば探るほど『汚い』かもしれない。そもそも、よ。お金は罪深い記号じゃないかしら?そのなかでも、不幸と罪にまみれているのが、はっきりわかる『記号』を使い果たしたいだけなの。それなのに、私の拾ったお金が、拾ったお金だけが、汚い。使うことは犯罪に加担するのと同じと、一方的なレッテルを貼るのね。クリーンな自分を貫こうとしているのかしら?」

【鼻腔】


返す言葉が見つからない。

 憤りは鼻腔から抜けていった。みえ子の旅路に付き合うほかないと、諦めを悟った--たとえ行き先が、地獄のようなものだとしても。僕はかのじょに偉そうなことを言える立場にない--かのじょは夜、客の性欲を煽り、満たす仕事をかれこれ14年もしている。

 そのうちの3年はかのじょの稼ぎに頼っている、ただの寄生する人間に過ぎないのだ、僕は。そんな立場の者が、かのじょの上に立つなんて、ムシが良すぎる。相手の言うことに従うしかないか、と断念しながら、自分のふがいなさに同情を求める情けなさに嫌悪感を抱いた。みえ子は見抜いているのだろう。その「弱み」とのトレードオフは疾走というわけか。

 「強盗集団と警察に追われてもおかしくない。シリアルナンバーが割れたら、ただの紙切れと同じだ。早く高級品でも買って、それを売れば足はつかない。早くしよう」と、思いがけず、自分から逃げるのにうってつけな提案をした。

 名案とでも言わんばかりの、清々しい表情でみえ子はほほ笑んだ。「支度して。表参道あたりに行こうよ。新宿だとリスクがあるじゃない」と付け足し、外に出る支度を整えるよう促した。

 春風を受けながら歩く、午後の表参道。僕らは昔の初々しいデートを思い出した。気がついたら手をつないでいた。手と手を合わせて歩く道はどこか幻想的で、過去の記憶をプレイバックさせる。その思い出に漂う、甘い香りが鼻腔に入っては、霧のように消えてゆく。

 確か、だ。

 付き合いたての時に、"03' Bonnie and Clyde"をよく聴いていた。お互いが、お互いを求めていた時期を象徴しているとも思えた。  "All I need in this life of sin is me and my girlfriend."--「罪を背負った人生には俺と女がいりゃ十分」と、キザなパートを二人で口ずさんでいた。

 そのころのみえ子と僕は愛のカタチを探し求めていたように思える。時に過激に。

 「ねえ、レベッカ・ブラウンの『私たちがやったこと』を私たちは読んだじゃない。お互いが補完しあう関係でありたいの、欠かせない存在。耳を自らなくした”私”と、目を自ら見えなくさせた”あなた”。その二人のどちらかがいないと、生活はできないし、本当の愛がわからない気がして。欠陥がないと、愛の姿ってなんなのかわからないんじゃないかなって思うことがあるのよ」と、遠くに目を向ける、みえ子のあどけなさ--。

 昔の思い出の断片が、頭に浮かんできた。それは、鉛のように脳内に重い。思い出の重力に負け、僕自身が、路上に沈んでゆく錯覚が襲ってきた。

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