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『生き延びる叫びよ』(下)②

「すると突然、雨が生ぬるく匂い始めた」

(『日日是好日』 森下典子 著)

【霧に】


 霧雨が降り始めていた。

 僕の中に走る緊張感をほどよく解きほぐした。

 この霧のなかに、隠れおおせられるかもしれないと、淡い期待を抱いた。何から?誰から?――警察なのか、現金強盗犯のうち、逮捕されなかった4人からなのか。それとも、下らなく思える日常生活からなのか。

分からない。

 それでも、逃げ出せる絶好のチャンスだと、先行きの恐れを感じながらも気持ちは昂りつつあった。この足で、中野のレンタカーサービスに寄って、車を借り旅路に出ようという気でいた。妙にロマンティックな感情だった。危険と隣り合わせで、出る旅――スリルがある分、興奮気味になっているのかもしれない。

 霧雨の中に逃げ、危機から解放されれば…と、願えば願うほど、危険な輪に飛び込みたくなる、複雑な思いだ。みえ子は顔色ひとつ変えず、

 「雨が気持ちいい。こういうジトジトした感じの雨、よく降ってたのね、青森で。懐かしいな。イヤなことが起こるお知らせみたいなもので、雨が降ると何か悪いことに見舞われちゃう。そんな風に思っていたの。ただ、『悪いこと』を経験しすぎた気がするな、私は。だから、かな。これまで経験したことのない、悪いことがなんなのか気になって、ワクワクしちゃう」

 ――これまで経験してきた悪いこと。それがなにか確かめようとしたものの、父に捨てられ、都心に来ては身体を売る生活を送っている。深く訊きたいようで、訊いたらかのじょを心底嫌悪しそうになる気がした。それなら、と訊かずに「これまで色いろあったんだ」といったくらいの返しで、流せば
いいように思えた。

 「まあ、どうなるかは霧雨にもわかるよしはないでしょう」と、無難に片づけようとする僕。みえ子は身体の距離を近づけ「こっから先、どうなると思う?」と笑わず僕に問いかけた。返せない。どうなる?どうなっていのか、わからないというのに、どうなるか訊かれても言葉が出てこない。

 気まずい沈黙の壁が二人の間に、立ちすくんでいた気がした。
 近づこうとしても、返される目に見えないバリアが僕とかのじょの間にはある。
 それがいつなくなるかはわからないし、なくなるかもわからない。

【まさかの】

 電車に乗り、中野に着いた。急ぐ理由は十二分にあるような気がする。切迫感に押しつぶされそうな気持ちだ。一方のよし子は焦る表情はもちろん、追われている身にあることすら、忘れているようにも映った。だがそれも今更。かのじょが恐れや焦りなどの感情に揺さぶられている様子は、まったくと言っていいほどなかった。

 まずはマンションに戻ることにした。――気がついたら夜。早いような遅いような中途半端な時間感覚だ。

 マンションのポストに大量の紙が入っていた。僕はがく然として、そして、恐怖に凍てついた――みえ子が現金を拾う写真の数かずが投函されていた。警察がこんなことをするはずはない。かのじょに電話をかけるに決まっている。5人中、逮捕されていない4人の誰かが居場所を突き止め、写真を入れたのだろう。わかっているだけで5人なだけで、実際には、多数いたのかもしれない。背筋が凍るような思いだ。

 「みえ子…」
 「バレたのかしら。急いで巻けば問題ないんじゃないかしら。行き先を知っているわけがないでしょう?」
 「悪いことが起こっちゃったな…」と乾いた口で、小声で話した。
 「それを期待してたの、悪いことを。バレて状況が悪くなっちゃった。でも、それを楽しみにもしてたの。盛り上がるじゃない?」と淡々と話したあとに「中に行っても取りに行くものなんてないんじゃない?なんなら今から車を借りに行こうよ」と、能天気すぎるくらいみえ子はことを軽くみているようだった。

 うなずくほかない。とにかくレンタカーに行って、軽自動車を1か月借りることにした。店員はいぶかしげな表情でこちらをみているようにも思えた。が、どうでもいい。

 とにかくここから――警察だけでなく、強奪集団からも逃げなくては。カーミラーを見た時に、冷や汗と霧雨が垂れる顔がやつれていることに、気がついた。

行こう。

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