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『生き延びる叫びよ』(上)

「こじれた女と、またどうにかなりそうな兆しが見えて。それに消防車の赤灯が美しく染める夜明け前の空だろ」

(『飛鳥クリニックは今日も雨』 中 Z李 著)


【悪いのは】


 ロバータ・フラックの"Killing Me Softly"が頭のなかでこだまする。曲のトーンに陰うつさは感じられない。ただ、自分の行いを省みると、この曲が頭でループするたびに、叫び出したくなるほどの苦しみを覚える。

 「逃げて」--。かのじょの最後のひと言だった。どこに逃げるべきなのか分からないまま、僕は右に行き、左に行き、前に進む。後ろに戻れない。涙は流れない、不思議と。

自分が安全でありたい、解放されたいと、願っているだけなのだろうか?

 恋人を殺めたというのに、自分だけは捕まりたくない、誰にも追われたくない--。自分のあざとさに幻滅していると、自己嫌悪を感じるように演じれば、罪の意識が軽くなってゆく気がした。

そんな自分の心は、夜明けに光る太陽に見透かされているのだろう。

 最低すぎる。初めて大罪を犯した人たちは、このあさましい自己嫌悪感と「せざるを得なかった」との正当化する気持ちに、揺らされるのだろうか。

【破滅する月へ】

                              ***
 「ねえ、加害者になる気分ってわかる?」とみえ子は言った。夜中の2時、個人が経営しているバーの中は静かだった。フランク・シナトラの"Fly Me to the Moon"が閑散とした店内に、虚しく響いていた。

 「どういうことだろう?たまに、みえ子は突然なんだよ、話がさ。答に困っちゃう時があるんだよね。確かに自分がなったことはあるはず。だからといって、加害を加えている時にどんな気分でいるかは、言葉にしにくいんだと思う。加害すること以外頭にないんじゃないかな」と言うと、みえ子が一呼吸置いて
 「わたしはね、他人の不幸をひとり占めした気がするの。なんだか、それが自分の幸せに思えて」
 「よく分からないな」と言うとかのじょは微笑んだ。
 「まあそろそろ店を出ましょう」と言い、会計を済ませた僕らは、夜中の暗さに包まれながら、解放された気になっていた。何からかは分からない。分からないままでいいのかもしれない、と思っていた矢先に、かのじょが万札の束を見せつけた。

 目算して数十万の額ではなさそうだった。

 その札束の枚数で大体、百数万円と気がついた。

 僕は、浮かれず、同時に、何か悲劇の始まりかもしれない、と思いを抱いた。間の中途半端な気持ちで無機質な万札を眺めていた。

 まるでそこに存在しないかのように。確か「イージー・ライダー」では偶然手にした、大金と言えるような、言えないような、金を手にして悲劇に突っ走る。なのに、浮かれていたっけ。

 なんだかそんな顛(てん)末が見えていた気がした。ぼんやりと考えていた矢先に突然、だ。

死去した父の言葉が脳裏に浮かんだ。眼前の金額の驚いたものの、なぜか。

 「いいか、健一郎。金なんてさ、賞味期限付の生き物みたいなもんさ。その額が10万だろうと、1000万だろうと。億単位だろうと。賞味期限を延ばすか、明日にするかは使い道次第。単純に延ばしたきゃ、タンスにしまうなり、新しい口座に入れときゃいい」
 と、税理士だった父が饒舌(じょうぜつ)に話していた過去を思い出した。
 「がな、期限を縮める手っ取り早い方法はよ」
 「散財?」と、中学生の僕は覚えたての言葉を、あたかも自由自在に操れるかのように、言った。
 「散財…まあ、『溶かす』とも言えるな。泡みたいに消えちまうんだ。金は理性を狂わせる、諸悪の根源と覚えとけ」と言い、すぐさま新聞に目を通した姿--。突然、出てきた百数万を見、驚くこともなく、冷静に鮮やかな記憶が蘇った。

【光】

 夜中の光は煌々(こうこう)と僕たちを照らしている。そんな気がした。すべてが見られているのだろうか。突然、機能不全に陥ったような僕の姿を見、みえ子は「健一郎、何を狼狽えているの?このお金、使いたいと思わないの?」とすかさず返した。

 「使ったところでさ、なんの得があるのかな?」と応えると、
 「徳も損も、何も私たちは記号なのよ。地球に生きる記号。お金も記号。生きる記号が、お金って記号を動かしたところで、散財したところで、地球はビクともしないじゃない?」
 「でも記号の僕らは何が何だかってなるのが普通じゃないかな」と、「記号」という言葉--突然な、理解に苦しむ言葉を即座に消化した自分が、現代社会の奴隷になっていると、すぐさま気がついたように思えた。

【社会のアリ】


奴隷なんだ。

 記号として生き、記号を使い回す。そして記号として死ぬ。そんな簡単な話なのだろうか、すぐさま腑に落ちた。

 「いいよ。出所だけ知りたいんだ。ここで話すことじゃないだろう?」と言うや否や、ゴネると予想していた。だが、反してみえ子は従った。中野のマンションに帰ることにした。

 拾ったタクシー越しに眺める、町のネオンは「記号」である、人間の僕らと違って、生が宿っているように思えた。

 生きているネオンと記号にすぎない人間の非対称性に、僕はつい、笑みをこぼした。きっと、ワーグナーのオペラにみられる生きる苦しみを、町の生命力にみなぎった光は、嘲笑っているのだろう。

 マンションに着くなり、みえ子は「健一郎の気持ちがね、"Ready or Not"なのか確かめたいの。隠れられないわ。ここで話の先を、曲の進行に合わせて進めるのよ」と、キザなセリフを放ち、僕を中に導いた。


【まばゆい夜に】


 マンションのなかに入った。みえ子は自信に満ちた笑みを見せた。反して、僕は困惑した。
 ことがことだ。

 心穏やかではない--突然の百数万円の姿、外でけたたましく鳴るサイレンの音。もうすうぐ夜中の4時だというのに、心の落ち着きのなさとパトカーの赤灯が、僕らにあてられているような気がした。

 睡魔に襲われることなかった。眠気をライトが照らし、僕から睡眠する猶予を奪っているように思えた。

 落ち着かない。

 テレビだ。つけてなにが起こっているのか、確かめられない限り、僕に照らされる、赤色のライトは消えないように思えた。

 そう思い、リモコンに手を伸ばした矢先に、みえ子が「ねえ、つまらないことしないでよ。今日は『大収穫』の日。違うのかしら?」と言い、続けて「はい、健一郎の分」と僕の手元に無理やり10万円の束五つ、つまり50万円を渡した。
 「あ、これで"You can't run away"ね、ローリン・ヒルの言葉を借りれば。お金を持っているのはわたしだけじゃない。健太郎もなのよ。共同管理。そうよね?」

 あ然とするしかなかった。僕はこの現金の出所を訊こうという気で、マンションまで戻ったというのに。みえ子ときたら、天真爛漫(らんまん)で呑気な様子。

 拍子抜けしてため息すら出ない。今置かれている状況を理解できているのだろうか。僕は、春の夜明けの寒気を感じながらも、汗をかいていた。無関係な僕まで、出所が不明な札束を抱えている--共犯にしたてあげられているんだ。

 もし手元の50万円が法を犯して得た金だとする。だとしたら、僕はまさしく共犯者だ。みえ子は、そのことに気がついているのだろうか?気がつけていたとしたら、あまりに無神経、気がつけていないのなら、あまりに無頓着。

 失望しかなかった。

 虚無を感じながら、居間に広がる黒く光るテーブル一点を眺めていた。時が止まった感覚がした。--どうするんだ?と、唸るようにテーブルが僕に問いかけている。そんな奇妙な錯覚に陥った。

 急な展開だと思わないか?

 突然、百数万円取り出して、うち50万円を僕の手元に押し付ける。どこで、どう、得たのか、それすらも分からない--。そんな時に平然としていられるのが珍しいだろう、きっと。

 「いい時間だしもう寝るの?」と僕が訊くと、みえ子は「ううん、お札と一緒に寝たい。お札で夢を見たい。健一郎と私とで、"Fly Me to the Moon"の旋律みたいに、上に上にと、進む夢を見たいの」と、相変わらず地に足の着いていない返事。

 「わかったよ」と、返したとたんに屋内の電気が点いていないことに気がついた。電気をつけようとスイッチに手を置くと、みえ子が実は疲労でぐったりしている姿が見えた。このまま眠るのだろう。電気はつけないことにした。

【初】

 僕はみえ子の隣に腰掛け、眠りゆくかのじょの姿があどけな映った。
 初めてしたセックスを、なぜだか突然思い出した。GoGo Motowの"Don't Stop"を流しながらした、かのじょとの初めての性行為。身体を交えてから5年が経つというのになぜだか、初めてのその体験が鮮明に頭のなかに浮かぶ。

 その曲のサビ部、"Keep it goin' long, stay strong tonight"が何度も流れる。みえ子との思い出に耽(ふけ)っていたら、本人はもう寝ていたようだ。

 つけよう。

 テレビを音無しでつけた。アルゴリズムで、どの番組を僕たちが好むか、どの番組が相応しいかを選別して、チャンネルが事前に決まっている。要はつければ見たい、もしくは、見るべき番組が流れてくる。

 もうそんな時代なんだ。

 「○○組傘下の強盗集団、現金1500万円を強奪か 新宿区」と、テロップが流れ、アナウンサーが何かを言い放っている。深刻そうな演技が上手なのだろうか、緊張感が痛く伝わった。
 その切迫感のある声は、釘のように僕の胸を突き刺した。僕は凍る痛みを覚え、背筋の髄が震えあがった。

 ――まさか。

【白昼の吐息】


 「ねえ、名前の書いてないものって落とし物って言わないわよね?」と、白昼の静寂に音符をつけたような声音で、みえ子は、寝起きの僕に言う。僕はテレビをつけたまま寝ていたのだろう。

 「実は6人での実行だったのか?」と、問い詰めるようによし子に迫った。寝起きだというのに、迷いもなく、突きつけるかのように。

 --そう、「まさか」との予感は当たっていた。そう思えるほどの確信を突如抱いた。

 --そう、まさか、みえ子が「アノ」現金強盗事件に直接加担していた、もしくは、間接的に関与していた可能性があると踏むには、十分と思えるほど、妙に説得力のある口調だった。

 僕が眠る前の記憶に遡る。


【アノ予感】


 明け方--。

 その時には、おそらく高揚のあとの疲労感からなのか、みえ子は快眠。

 その間の「アノ」テレビ報道の続き--

 「新宿区での現金強奪事件。実行犯は5名とされており、うち1名(20代)が逮捕との速報が入りました」。続けて「逮捕された1名は認否を明らかにしていないとのことです。強奪した金額は1500万円以上とされ、実業家の被害男性とは金銭トラブルがあったとされています」

 --アナウンサーの声から伝わる切迫感が、僕の胸を容赦なく締め付ける。みえ子と初めて身体と身体を重ねた、過去の淡い記憶を、鋭利な言葉がナイフのように、切り刻む。締め付けられながらえぐられる自分に、「耐えろ、耐えろ」と言い聞かす。

 みえ子に対する絶望的な確信を抱いた。その絶望を象徴するのが、百数万円という記号だったのかもしれないと、僕は考え始めた。着地点などないというのに。そのつかみようのない、深みに沈む僕の考えは、感情に食い込んでくる。

 頭で錯綜する考えが感情に侵食--正体不明な黒い渦のようにうごめく感情は。その不明な感情に、僕は呑まれ、あがいているように思えた。

そこで、だった。

 僕の記憶は途絶えたのは。導かれるように眠りに就いたのだろう。

             ***

【信じよ】


 「ねえ、私が加わったってこと?ねえ、6人なわけないじゃない。実行していたら今ごろ、健一郎と過ごせるわけないじゃない」と、嘲笑しながらみえ子は僕の問いに応える。「ねえせっかくの大金なのよ?そんなに深刻にならないで、パーっといきましょうよ」と、みえ子。

 沈みゆく鉛のような僕の心を、海上に引き上げようとする。そう思えるほどの無頓着な神経が見え透ける。頭のなかで、チェット・ベイカーの"My Funny Valentine"が流れる。

季節外れなヴァレンタインが。

 "But don't change your hair for me
Not if you care for me
Stay, little valentine, stay
Each day is Valentine's Day"

 みえ子には、初めて身を交えた時の姿のままであってほしい--。僕の傲慢が芽が咲いた。

【失われて】


 「そのドジった人の落としたお金を拾っただけよ。教育だと思うのそれって。1500万円以上の強奪をすると、百数万--正しくは115万円なのね--の代償はつきものだって」と、みえ子は偉ぶった様子。

 怒りを覚えた。

 教育?なぜ言えるのか、言える立場にあるのか、みえ子は。ただ、僕は口をつぐんだ。緊迫しているさなかに憤りの塊のような言葉を投げかけると、ことがいっそうこじれてしまう。

 「その拾った115万円、警察に届けないと。今なら間に合うし、使ってないことにすればいいだろう?」となぜか、僕はみえ子が盗んだ金をすでに使ったとの前提で話していた。

 「健一郎、なんで使った体なの?まだよ。これから散財するの」と言い、息継ぎをすることなく、「私は、ね。罪深いなにか--それがなにか分からなかったけれど、お金だったの、今回はたまたま--を使い果たしてから、死にたいの。拾った私は本当に愚かというか、これから追われる身になるのはバカな私でもわかるのね。ただ、不幸と罪の上に死ねるって、あまりにもロマンティックじゃないかしら?」

 「分からないよ。みえ子のことはもちろん好きだし、愛してる。ただ、みえ子は突飛なことを言うだろう?そんな時には、さ。まるで僕から離れてゆく、変な感覚に陥るんだ。それにみえ子は懐に余裕があるだろう?なんでそっちじゃないんだ?」

 「2回も言わせないで。私のお金は体で稼いだのよ。罪のあるお金を浪費したいの。分からないでしょうね、この気持ちは。変な感覚でもなんでもいいけれど、それすらも受け入れるのが本当の愛じゃないかしら?私は本心では激昂している健一郎が大好きよ

 「それにね。私が拾った、強奪されたお金の一部を持ったり使ったりするのが、いかにも道理に反しているようなこと言うじゃない。それなら訊くわ。あなたの手元にあるお金は、クリーンなのかしら?犯罪者が荒稼ぎした、汚いお札なのかもしれないでしょう?汚いお金って気づかなければ赦されると思うって、あざといわよ。出所なんて探れば探るほど『汚い』かもしれない。そもそも、よ。お金は罪深い記号じゃないかしら?そのなかでも、不幸と罪にまみれているのが、はっきりわかる『記号』を使い果たしたいだけなの。それなのに、私の拾ったお金が、拾ったお金だけが、汚い。使うことは犯罪に加担するのと同じと、一方的なレッテルを貼るのね。クリーンな自分を貫こうとしているのかしら?」

 返す言葉が見つからない。

 「違う」と応えられない。かといって「そう」と、貫こうとしていると認めるのも違和感があった。かのじょの言うとおりなのかもしれない。

【鼻腔】



 憤りは鼻腔から抜けていった。みえ子の旅路に付き合うほかないと、諦めを悟った--たとえ行き先が、地獄のようなものだとしても。僕はかのじょに偉そうなことを言える立場にない--かのじょは夜、客の性欲を煽り、満たす仕事をかれこれ14年もしている。

 そのうちの3年はかのじょの稼ぎに頼っている、ただの寄生する人間に過ぎないのだ、僕は。そんな立場の者が、かのじょの上に立つなんて、ムシが良すぎる。相手の言うことに従うしかないか、と断念しながら、自分のふがいなさに同情を求める情けなさに嫌悪感を抱いた。みえ子は見抜いているのだろう。

 その「弱み」とのトレードオフは疾走というわけか。

 「強盗集団と警察に追われてもおかしくない。シリアルナンバーが割れたら、ただの紙切れと同じだ。早く高級品でも買って、それを売れば足はつかない。早くしよう」と、思いがけず、自分から逃げるのにうってつけな提案をした。

 名案とでも言わんばかりの、清々しい表情でみえ子はほほ笑んだ。「支度して。表参道あたりに行こうよ。新宿だとリスクがあるじゃない」と付け足し、外に出る支度を整えるよう促した。

 春風を受けながら歩く、午後の表参道。僕らは昔の初々しいデートを思い出した。気がついたら手をつないでいた。手と手を合わせて歩く道はどこか幻想的で、過去の記憶をプレイバックさせる。その思い出に漂う、甘い香りが鼻腔に入っては、霧のように消えてゆく。

 確か、だ。

 付き合いたての時に、"03' Bonnie and Clyde"をよく聴いていた。お互いが、お互いを求めていた時期を象徴しているとも思えた。  "All I need in this life of sin is me and my girlfriend."--「罪を背負った人生には俺と女がいりゃ十分」と、キザなパートを二人で口ずさんでいた。

 そのころのみえ子と僕は愛のカタチを探し求めていたように思える。

 「ねえ、レベッカ・ブラウンの『私たちがやったこと』を私たちは読んだじゃない。お互いが補完しあう関係でありたいの、欠かせない存在。耳を自らなくした”私”と、目を自ら見えなくさせた”あなた”。その二人のどちらかがいないと、生活はできないし、本当の愛がわからない気がして。欠陥がないと、愛の姿ってなんなのかわからないんじゃないかなって思うことがあるのよ」と、遠くに目を向ける、みえ子のあどけなさ--。

 昔の思い出の断片が、頭に浮かんできた。それは、鉛のように脳内に重い。重力のある思い出に、僕自身が、路上に沈んでゆく錯覚が襲ってきた。

【いいわけのかけら】

 午後から夕方に移りゆく、表参道の風景は、幻想的だ。光り輝く外装に、洗練されたすれ違う人たち。僕らにとっては「非日常的」な景色だった。

 そこに溶け込めず、不似合いなのだろう。質素な二人の場違い感--。なんだか恥ずかしく思えてくる。誰かに見られているわけでも、スキャンダルになるわけでもないというのに。

 目線だ、気になるのは。誰のそれなのかが、わからないにしても。

 質素。とはいえ、みえ子は「拾った」金額の100万円代に近いくらいの金額をひと月で稼ぐのに、僕らはブランド品に身を包むことはもちろん、高級な商品とは無縁な生活を送っていた。

 これという理由はない。

 僕自身は贅沢をしようという気にならないし、32年間の人生でその気持ちは変わらない。

【遠くへ】

 みえ子――。もともとは貧しい家庭に生まれ育った。18歳で性産業に就いてから、客が貢いだおかげか、贅沢を味わえる立場にもあった。確信は持てないが、そうした貢ぎ物が、いかに虚しいかわかっているのだろうか--。

 金で愛を買おうとする客からもらう、ブランド品で武装することがどれほど空虚なのか、わかっているのだろうか。質素な生活をあえて選んでいるように思えた。貢ぎ物のブランド品の数かずが彼女を満たすことはなかったのだろう。

かのじょは僕の前を歩いている。

 確かにそれなりの期間、ともに生活し、かのじょを理解していると思っている。同時に理解している「つもり」なのでは、と問い詰めると、わからなくなる。

 かのじょが何を考えているのか、かのじょが何者なのか、かのじょの相手である自分とは何者なのか--。みえない溝があって、かのじょに近づこうとすればするほど、それは広がり深みをもつような感覚に陥ることがある。

 ふたたびみえ子に目を向ける。

 かのじょの姿は、季節外れな蜃気楼のようにおぼろげな姿として浮かび上がっては、現実のそれとなって目の前にいる。手を伸ばし、かのじょをこちらに引き戻そうと試みるも、掴めなくなる。まるで、陽炎(かげろう)のように、現れては去ってゆく。

 どれだけ手を伸ばしても届かない無力さと、掴めない自分のふがいなさを僕は感じた。何もできないのだ、つまるところ。抜け殻のような自分と、質素な格好ながらも、街に溶け込んでいるみえ子とを物欲を煽る光は照らす。

 夕方の表参道は、人の欲を躍らせているように映った。金なんて記号にほかならない。記号を持って買うブランド品も記号に思えてきた。だれかが使い、飽きたら売る。シンプルな消耗品で承認欲求を満たす人びと―― 。

 「ねえ、ワクワクしない?」とみえ子は、踊るような声音で言ったものの、目の奥には悲壮感が漂っている。

 かのじょのパセティックな目線を、ネオンは明るく照らしていた。それは確かだった。

【欲と旅】


 「わたしはね、このお金で高級品を買って売る。質屋で買う人がいる--。流れるお金って汚い。そう気づけない人たちがいることに、増えていしまいかねないことに、面白みを覚えるの。愉快じゃない、だって」
 「蔑みすぎじゃないかな?」と本心で答えた。
 「もちろん。気づけてないことがバカバカしすぎて笑えちゃう。人間って、上っ面なんだなって思えるの」

 と、みえ子は侮辱すればするほど、盛り上がっていくように映る。

 確かに。上っ面がいかに愚かか、わかっているのだろう。金で買う疑似恋愛とセックス、愛情や他にも汚い面を垣間見てきたのだろうか。

 「とにかく買いにいくよ。グッチにプラダ、ルイヴィトン…グッチとプラダで50万円使い切ろうかな。多分、時計とカバンを合わせたら、それくらいはするハズ」
 「プラダを『流す』ことだけはやめて」と言い、かのじょは財布を見せた。見たところ、オンボロだ。ただ、僕はなぜこの財布を愛用しているのか、理由を知っている--。かのじょを一人で育て上げた母が、高校の入学祝いに買ったから。その母との過去を象徴する財布のブランドに、抱く思いは特別なわけだ。
 「わかった。グッチで手持ちの分を全て使えそうなら、そこで」
 「時計とカバン、財布でも買えばすぐ消えるわ」とそっけなく言い、お互い、別々のラグジュアリーブランド店で持ち合わせている分を買うことにした。


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