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『欲の涙』

「逃げおおせるだろうか。不可能かもしれない。けれど、刑務所に入るのも、死ぬのも、いつでもできるではないか。逃げろ

(『果ての海』 花房観音 著)

【ワケあり】


 暑い日のことだ。

 「歴史的」猛暑の東京都--。気になるよ、歴史っていつから遡ったモンなのかさ。

 オレの事務所でホストモン二人と野球賭博をしていた。二人とも、色白だ。酒を受け付けない体質なのに、飲めないのに飲め、と圧がつねにかかっているように、青白く映った。ウンザリしているのだろう。気が休まらないのかもな。

 笑顔は絶やさないがしんどそうな様子。コイツらの真の姿は、憂うつなのかもしれない。明るい世界は「ガマン」によって支えられているのかもしれない。

 --そこで逆張りですか?
 --ああ、時に「負け予想」をするのが賭けのテクニックでもあるからな
 ーー珍しいですね。基本は順張りなのに、ともう一人のホスト者。
 --順張りしすぎもつまんねえよ

 ベタつく部屋の中での会話。会話内容も湿度は高く、鬱陶しく感じられた。いちいちツッコむなって。

 それから3時間が経った。

 オレたち三人は野球に見入っていた。打つたびに大声を上げては、ゴロだとホスト者はブチ切れる。賭けにむいていないな、コイツたちは。

 ところが、今日はオレだった。予想を外して、内心では気を取り乱していたのは。

 逆転ホームランで、ホスト者が順張りで賭けてた球団が、勝ちやがった。決勝戦。オッズのレートは高めに設定した。

 オレはマイナス15万円。ホスト者は、7.5万円ずついただきます、と。

 チクショウ。

 といっても、博打ばっかやっていると、この額が手痛いのか、軽傷なのか分からなくなる。鈍るんだよ。
 --ったく、と舌打ちし、オレは外に出た。相場感は別として、負けたことに腹を立てていたから。

 気分転換だ。ところが出てすぐに目を疑ったよ。
 10代の娘が、どこの馬か分からないホストにブン殴られて、倒れていた。

 --やりすぎだろ、兄ちゃん
 --掛け金バックれるほうが悪いですよ

 そう言い残して、どこかへと消えた。どこだかは分からない。別の女を見つけては、ボコボコにして掛け金を回収するのだろう。

 女の顔は晴れていた。病院行くか?と声をかけても、保険証ないからムリ、と。保険証を違法で貸してくれるところもある。それを分かっていて、「あえて」行かないことを選んだのかもしれない。

 --近くの公園で休んでいきなよ。手当てキット、持ってくるから待っててな、とオレは事務所に戻ってから、その娘に渡そうとした。

 が、いない。消えたのか、また別のホストに--知らないところ、それもこの街の片隅で--ブン殴られているかの二択だな。

 見慣れたよ。

 違和感のない光景に同期していると思える、オレが正気なのか、それとも狂気に染まっているのか、確かめたくなる時がある。

 映画・アニメで、よくあるだろう?つねって現実か確かめるワンシーン。つねって、痛いのなら正気。違うなら、イカレている。

 分かりやすい判断材料があれば、楽なのに。感覚が世の中のそれと違って、鈍るんだよ。こんなことはしょっちゅうなんだ。非日常が日常だ。

 よくあるハナシ、この街じゃ。

 マヒしちまう。対外的にあえて見せないようになっている、見ないようにしているだけで、耳を塞ぎたくなるような事件は、毎日のように、この街じゃあるんだ。ここまで来ると正常な判断ができない。

 というか、善悪の判断とは何か――。といった具合に、そもそも論に回帰するのがオチだ。極悪なのは、悪事を働いているガキどもなのか、クリーンなフリをした大人たちなのか。もしくは、異常性に支えられていないと、この街は回らないのか。

 考えたらキリがないだろう?

 オレが見ているのは、パッと見では分からない、特有な世界の絵図だ。その絵図の一コマは事務所だ。話すが、身バレは伏せたい。

 最小限のことだけになるが許してくれ。都内某所。日の当たらない、安っぽいマンションの一室。

 ここがオレの事務所だ。この地域で利便性が良ければ、普通なら10万円以上の家賃でもおかしくない。というか、それくらいが妥当だ。

 ところがオレは、その半値で借りられた。奇跡かって?そんなわけない。「ワケあり」な物件だ。とはいえオレにとって、いや、この稼業にとってはありがたい「ワケあり」だった。

 窓がない――。

 正確には元々あった窓を、前に住んでいたヤクザモンが取っ払って、日曜大工で外の光を遮断し、人に見られないよう、ひと仕事したみたいだ。そのヤクザモンは事務所として使おうとしていたらしい。

 韓国人女性の大家は、このウルトラC級なDIYにブチギレた。おかしいと気づいて、大家は通報。その組員は生活保護の不正受給をしていたのが明るみになった。

 にしても、だ。

 ここの大家は、アウトローだろうとお構いなしにキレるモンだから、話を聞いただけでもヒヤヒヤする。うまくやっていけるかがネックだった。

 この業界では「肝っ玉大家」と呼ばれている。それだけ不正や、曲がったことが許せないタイプ。だが、オレには妙に優しくしてくれた。

 探偵なんてオブラートに包んでいるが、実態は非弁行為――弁護士資格がないと違法な業務など――に抵触することなんてしょっちゅうさ。

じゃないと事件は解決しない。

 詳しくは追って話す。そんな探偵業を営むヤツに、真っ当な大家なら、事務所なんて貸してくれるハズがないだろう?例外を除いては。

 肩身も狭い業界さ。非弁行為をカマすのは探偵だけではなく、意外とホストだったりもする。もちろんヤクザモンも。細かく挙げたらキリがない。

 おおまかに、オレら探偵のような「介入」商売と水商売、はみ出しモンの間で流通されている、物件貸し手の名簿がある。

 そこに載っていたのが「肝っ玉大家」ってことだ。マンション全体は、ホスト用の寮となっている。右、左隣もホストの住み込みだ。おかげでホストモンとは仲良くなれた。

 物件の話はここまででいいだろう?

 オレの事務所に来る依頼人は基本、誰かに紹介される人が大半だ。個人間のトラブルだったり、公になったら困るトラブルだったり、火消しを目的としたり・・・と。

 要は表だった探偵事務所で解決できない事件を引き受けるワケだ。賭けには負けたが、仕事の勝率はすこぶるいい。こういう時こそ気を引き締めなきゃいけないのは重々承知だが。

 今日は火曜日だ。残暑を感じさせる、9月の風が心地いい。天気の良さも相まって、やや有頂天になりつつある自分がいる。

 このことに気づけるかがネックなんだ。

 とある有名な議員からの依頼。――消えた娘を見つけ出してほしい。報酬は140万円だ。

 手付金が異例の40万円で、成功報酬で100万円。条件のいいハナシだった。当たりくじを引いた気分だった。

 ところが、だよ。

 この依頼が泥沼化するなんて、微塵(みじん)も思っていなかった。そんな経緯(いきさつ)をまとめた。

 ようこそ、よくあるハナシへ。


【奇妙な依頼】


 なるたけカンタンに再現したい。

 とある野党のとある有名議員が、オレの事務所をノックした。

 〈何の用だ?〉

 ドアの小さなウィンドウ越しに依頼人を眺める。そこには、急かされているような、汗だくの男がいた。

 --どうぞ、とひと言。ソイツの依頼内容は次の通り。

 ある日突然のこと。

 娘が門限を過ぎても帰ってこなかったという。最初に身代金をたかられるのでは、と震えたらしい。だが、誘拐犯と思わしき者からの連絡はなかった。2日目も脅迫電話は来ない。

 そこで、娘自身の家出と判断したようだ。「突然」。というものの、予兆を見逃していたに違いない。写真を見させてもらった。娘のカオリさんが中学の卒業式に撮り、長野に送ってきた写メ。

 かのじょは一人っ子でかわいいのだろう。同時に、何かがヘンだ。切り出した。

 ――なぜ家族旅行の写真ではないのか。捜査依頼で対象が未成年の場合は、家族旅行での写真を見せる人が総じて多い。

 こうした小さな違和感を当たり前のように、つかむよう昔は先輩に教わった。ヒントは依頼主だけが持っている。引き出せ、と。

 それとはまた別に、妙な違和感があった。

 いたって普通な今風の女子高生だ。目だった、気になったのは。笑顔なのにくぼんでいる。目力はないのに、強く、何かを訴えかけている。何かをうまく説明できない。これはカンだからな。

 「青春を返して」と、こちらに投げかけているようだった。

 この稼業に就いていると、外見から何かしらのシグナルを受け取る。一見して、マジメでもその奥には、心のくすみがある。マトモそうな外見を取り繕っているだけなんだ。

 写真と学校名、好きなアイドルやハマっているものなど、その娘に関することはこと細かに尋ねた。例えば、好きな芸能人とか。

 ここにヒントがある。見逃すな。

 趣味趣向は属性を示す、一つの標識みたいなもので、どこに向かうのか、目星を付けるのに重要な判断材料になる。

 想定内だが、怪訝(けげん)な表情だ。ギリギリのところで自分を制御しているように映った。

 ――わたしはカオリの好みの話をしにきたわけではありません。プライヴァシーを詮索しているとしか・・・と、唇を震わせながら言ってきた。即座に返した。
 ――初めて、娘さまのお名前を出されましたね、長野様

 意表を突かれた、といったところ。

 シャープな目つきが満月のように丸くなっている。瞳孔も見開いていて、身体中に何かが瞬時に駆けめぐったようだった。冷房で適温なはずなのに、汗がどっと流れていた。取り乱している。

 「長野」ってのは、議員の名前。

 オレは政治家なんていっさい知らないフリをしていた。ところが、名前を出して意表を突かれたのだろう。

 うまく隠そうとすればするほど、焦りが伝わる。ジャブ1発目でこんなにリアクトする顧客は、長野が初めてかもしれない。

 決まりが悪そうに――ご存じなのに黙っておられたんですね
 ――余計なことを話さないのが信条です。この業界で生き残れませんので
  ――意表をつくようなことだけはやめてください。国会で何度も経験していますので、と本人はユーモアを交えたつもりなのだろう。

 ところが、顔はちっとも笑っていないもので、かなり深刻な状況にあるのだろう。

 さらに訊くことにした。娘は誰と仲がいいのか、SNS(交流サイト)を使っているか、電話着信の頻度など--こと細かに。念には念を。

 長野はイラ立たしいと言わんばかりの様子。段々と怒りをあらわにしてきた。些細(ささい)な行動の変化に、兆しは見られる。

 家族で一緒の時間を過ごそうとしない、携帯電話ばかりいじる、急な電話対応で席を外す、つるむ相手が変わる――。こうしたところに、行動の変化のサインがある。見落とすだけだ。

 「あっち」側に行く前は模範的だった――しょっちゅうこんなことを言う。模範生を演じるのに嫌気が差して、反動が大きくなった結果、豹変(ひょうへん)するだけなのに、大げさに反応する。

 ――カオリの趣味嗜好を話しにしにきたわけじゃない。捜してほしいからなのに、これではラチがあきません!プライヴァシーと名誉もあるのに!
 ――もちろんです。こちらも捜し見つけ出すのが目的ですよ。目的は同じです。小さな、長野さんが見落としているかもしれないところにヒントは転がっています

 下手(したで)に出るのも疲れてきた。

 --依頼される方のご協力なしには、進められないワケです。長野さんの議員としてのキャリアや、報道されることなどわたしは気にかけていません、と追い討ちをかけた。続けて、カオリさんを見つけるのが仕事です。違いますかね?

 効果があったと、確信めいたものを抱いた。

 感情――それが何であれ――がむき出しになれば、相手の懐に踏み込める。同時に相手がこちらに心を開いた瞬間とも言える。

 興味のない相手にはキレたりしないだろう?

 そろそろ畳みかけたい。

 --よーく思い出してください
 --そういえば、カオリは最近とある「コンカフェ嬢」に憧れていると電話で言っていました
 --大丈夫ですよ。女性に人気なコンカフェ譲は、すぐ見つかるかと
 憧れの「コンカフェ嬢」に逢いにいくのが目的か、もしくはそのコンカフェ譲を軸とした人たちのつくりあげる、現代ならではの特有な、コミュニティに同化するのが目的か。
 人に接触するのか、居場所を求めているのか--。この二者択一かもしれない。

 コンカフェなど、年代の違うオレには最新の流行に追いつけない。というか、ここ最近は流行のサイクルが早すぎるように思えるのはオレだけか?

 この手の話なら、あとで隣のホストモンに訊くのが手っ取り早い。

 依頼主は総じて、取り乱していることが多い。ただ、他人には言えないことを吐き出せば、一気に落ち着く。

 ファーストコンタクトで、「信頼」されるかだ、この業界で重要なのは。

 長野が提示した手付金の額は、人捜しのなかで一番高かった。それにこちらから提示するものを、相手側から提示するのもかなり稀(まれ)だ。

  
 ――手付金が発生するとは今井氏から聞いています。人捜しはお安いとか
 ――そこまで手間のかかる作業でもないので
 ――40万円でいかがでしょう?
 --相場は訊きましたか?他の事件屋などにも尋ねました?
 --いや、《今井さん》の紹介される探偵以外は信用しません

 いやいや、手付金がこんなにも高いことはこれまで一回もなかった。もっと安くても請け負うと言ったものの、一向に引き下がらない。

 なぜこんな額を自ら提示するのか、答はのちに解(わか)った。相場は人探しで10万円。

 成果報酬で50万円程度。見つからなかったら、返金をするのがモットーだ。

 ――それでは、お言葉に甘えて、と応えるや否や、現金をその場で手渡してきた。焦っている様子。

 何かがヘンだ。

 違和感を抱きながらもオレは、長野を外まで見送った。議員であり父でもある長野は、早歩きで外へ出て行こうとしていた。

 たった1時間だ。晴天だったのに、空は赤く染まっている。
 たった1時間だ。空の機嫌ひとつで、模様が変わるのは。
 この事務所にいただけなのに、3日分の疲労感が滲み出ていたと、思い返す。憔悴(しょうすい)しきっている。

 即座にオレはホストモンのところに向かった。
 人気なコンカフェ嬢とは誰なのか、まず訊き出して、そこから始めるのがいいと思えた。SNSの影響を多大に受けやすい10代。

 おそらく、突然家出をした背景には「反撥」と、崇められている「アイコン」の磁力があると読んだ。

 カオリさんが虜(とりこ)になっているコンカフェ嬢は、ホストモンの店の常連客と解った。かなりのショートカットだ。話は早い。コンカフェ嬢の写メを見せ、知っているか訊ねた。

 ――コンカフェのキャストで売上が一位ですからね。羽振りはいいですよ。よく来ますね、うちの店に
 ――名前は?コンカフェの店名も教えてくれないか?
 ――「ヒビキ」が名前で、店は「ミズミ」です、とホストモンが言い、オレは謝礼金の1万円を渡した。
 ――まあこれで遊んで

 そう言い残し、急いでミズミに向かうことにした。
 その日はミズミに行き、人気の「ヒビキ」がいるか確認した。コンカフェとは、コスプレをした若モンの女性がサーヴィスする飲食店。

 メイド喫茶を思い浮かべてもらえるとわかりやすいかもしれない。ミズミに入店して驚いたのが、キャストの皆が皆、髪をネオンのような色に染めている点。

 「なんだコレ?」と声に出す一歩手前だった。

 「お帰りなさいませ、お客様」だなんて言ってくるものだから、調子が狂う。一見だぞ?初めましてからだろ、と心のなかで言葉の揚げ足をとっていた。

 こんな店には長居したくない。ヒビキが在籍しているか、確認するだけだ。それ以外の用はない。

 テーラードジャケット服を着た人間がコンカフェにいるのも場違いだ。ましてやオレは30代。周りの客は大体10代後半から20代前半だ。

 内装はゴシック模様。中世のゴシックだろうな、意識しているのは。よく「ゴス」◯◯って耳にするだろう?和製用語のさ。

 そのゴスの要素も散りばめられている。洋のゴシックを取り入れ、日本特有の「ゴス」文化を融合させている感が伝わる。

 古典的な文化と特異な文化を合体させ、新たな文化をつくりだし、発信する--。この新陳代謝に追いつけるヤツが異常に思えるのは、オレだけか?

 疑問しか抱かないんだ。この店に、溶け込むなんてどだいムリな話だ。早く出たい。内心では違和感しかないワケだ。それなのに、無理やり新たな文化に惹かれたフリをする。

 多少の演技・演出は必要なのは、職業柄十分に分かっている。とはいえ、冷静に考えるとオレは、趣味のおかしなオッさんにしかみえないだろう。内心ではモジモジしながら平然を装うのは、堪(こた)える。

 店内ではかなりテンポの速い音楽が流れていた。BPMは148以上でオートチューンのテクノみたいな音楽――。この手の音楽ジャンルをヴォーカロイドというらしい。後日、ホストモンに教わった。

 音楽も心地悪い。オレはもっとゆったりとした音楽が好きなのだから。さっさと店を出たかった。そう思った矢先に、ポスターが目に入った――ヒビキがメインキャストを務める、ライブイベントが3日後に開催されるんだ。

 ――チケットはまだ残っていますか?とポスターに指を差し、オレは長広く開かれたスカートを履いた、一人のキャストに訊ねた。ガリガリで髪は緑色。

 どうなっちまっているんだ?若い連中は。

 甲高い声で、「もちろんです!」と返してきた。
 やせ細れるのを越えて、皮膚と骨が一体化しているような、見たところ18歳ほどの娘は、どこからそのエネルギーを発しているのか、気になった。病的なやせ方だ。見ているオレが恐怖を覚えたのはさ。

  ――お待たせしました!会場はココ、ミズミです!
 ――ああ、ありがとう・・・1枚頼むよ
 ――ヒビキちゃんがメインのイベントにようこそ!
 
 と、異常なテンションに驚がくしながら――金額は1万円と高かったがーー前売り券を買うことにした。もしかしたら、そのイベントがある日にカオリさんが来る可能性もあるのだから。



 店にいても特になにもすることはない。むやみやたらにコンカフェ嬢に声をかけるオッさんがいた。なかなか悪趣味だな、と思えた。一方で、それくらいグイグイ、若い娘に迫るくらいが客としては「普通」なのだろう。

 さっきも言っただろう?

 オレは同じようにはなれない。異常にしか思えないって。


 それにしても寒い。冷房が効きすぎている。長くいても耐えられない。ギンギンに冷房が効いた部屋から出、心地がいい。同時に少し、心寂しさを覚えもする。

 店を出たのは、夕方の五時だった。コンカフェの店員も同じタイミングで、裏のドアから退勤していた。

 何かヒントがあるかもしれない――。野生的なカンを頼りに、オレはその娘を尾行した。その娘は、歌舞伎町の職安通り沿いの、目立たないマンションに入っていった。



 30分ほど何か手がかりはないかと、隠れながらマンションの住人の動きを確かめた。まさか、と息を呑むような光景を目の当たりにした――。50代のオッサンとコスプレをした娘が、手をつないで部屋から出てきた。


 おそらく売春宿。

 オッサンに詰め寄りたい気持ちはあったものの、衝動的な動きは機会ロスにつながる。その日は、「ヒビキ、ミズミ、売春宿」。この三つを収穫した。ただ、確信のカオリさんには迫れていない。まずは周辺をとことん調べ上げることに決めた。

 なにかが手からこぼれていったような喪失感。

 期待が詰め込まれた、気球がしぼんだ感覚だ。オレも長野と同じように疲労が、ドッと押し寄せてきた。37歳、バツイチの男がみっともないことに、歌舞伎町の路上でタバコをフカした。

 「許してくれ」--。と街に申し訳なく思いながら、タバコに火を点けた。その矢先だ。ストライキをしている団体の姿が目に映ったのは。その中に長野もいた。

<オイオイ、いくらなんでも切り替えるのが早すぎるだろう>

 左派寄りの衆院議員。来年の選挙に向けて、労働組合と距離を縮め、活動にも参加しながら娘の不祥事はもみ消す――。本人はさぞ複雑な感情が渦巻いているだろう。

 賃金は上がらず、不正行為がまかり通る日本社会――。この国が機能不全になっていった。ストライキの数を受け、デモに懲罰金を課す政策を施行した。

 逆効果になった。失敗に終わった国策の負の遺産を、清算するには増・課税しかなかった。

 「未来人への投資」と銘打った、「子ども手当」の拡充を施工した。ところが、出生率は過去最低の水準で推移。1.05~1.10%と、臨界値の1をギリギリ保っている。バラマキ政策とも批判された。



 国策を推し進めた結果、アドバイザリーボードが、有名企業と癒着していることが明るみになった。広告代理店、コールンターや特定NPO(非営利組織)などとの癒着といった不正が、国民の怒りを買った。

 バラマキに癒着――。

 特に前者のバラマキ分を回収するには、増税と課税しかなかった。10%台まで低下した、内閣支持率も持ち直すには景気刺激策での人気集めしかなかった。

 対策の一環として、「万博計画」を来年に実行しようとしている。

 雇用が増えると喧伝する。日本の各産業界の技術力を見せるショーということで、国民は喜びに沸いた。一時的に。

 会場建設は癒着が疑われていた。それが国民の反感を買った。ただでさえ、貧困にあえぐ日本人が増えている時代だ。国家主導のプロジェクトで、特定の有名企業が大もうけするなど、一般人の怒りの火に油を注ぐようなものだ。

 デベロッパーに広告代理店、人材派遣会社などが揃って談合したと、報道がされていた。もちろん独禁法に抵触する。ところが、この国家プロジェクトをけん引した、税務官は不審死を遂げた。

 もちろん自死説が濃厚だ。

 国会審議に問われても「所轄は違う」の一点張りで、何も前進しない。見たことあるだろう?要領をえない、くだらない答弁の言葉尻を取る質疑応答。あんな様子が毎日、ニュースに流れていたわけさ。

 依頼人の長野は、プロジェクトの解明を、一貫して与党に追及した。談合に死亡事件――与党はこれらを上手く交わした。死人に口なし、与党のみが全てを知る事件となった。

 国民の生活は圧迫され、真実が闇に覆われる、異常な時代。

 追い討ちをかけるかのように、日本政府は、愚策のかぎりを押し通した。軍事費の積み増しを実行に移した。背景にあるのが、集団的自衛権の先制行使。アジア諸国が、先んじて攻撃するのは認めることに。

 21世紀の新冷戦期――。

 依頼人の長野は、国会答弁では猛反発。「軍事大国日本」と揶揄(やゆ)していた。首相は、煙たがっていた。当たり前かもな。「ジャマ」されたって、内心かなりイラ立ってだろうよ。

 議員っていい仕事に思えるよな。

 席に座っているだけで、給料をもらえもするわけだ。ところが、長野は真逆だ。身を削っているように映った。主張が正しい,間違いなんてどうでもいい。とにかく表にたてるかどうかだけ。

 ジャマ者は「消される」だけだ。

 政治って難しいようでカンタンだよ。気に食わなきゃ、あらゆる手で首相の定義する、反対勢力たちをやっつける。

【若手の中堅】


 体力の衰えを感じる。20代の時は、ホストモンと同じく、この街の「更新」に追いつき、先取りできただろう。変則的に感じられる時の感覚にも、耐えられたハズだ。

 ところがしんどさを感じている。今日の時間の動きは、長く早くと、リズミカルだった。そのリズムに徐々に乗っかれなくなるのが、年を重ねた証拠なのかもしれない。

 そうだ。長野と話を進めた時は、時間が長く感じられた。たった1時間なのにな。ところが、歌舞伎町にいると時間は倍速のように、早く、目まぐるしく感じられる。この街の代謝に追いつこうとしても、追いつけない。

 生まれてこのかた、一度もコスプレした女性のいる、喫茶店に行ったことはなかった。というか行こうとも思わない。まさか、依頼を受けてヒントを探る先が、コンカフェになると考えたことすらなかった。



 なんだかみっともなく思えるんだ。


 歌舞伎町がネオンに彩られる時間だ。文字通り、人もネオンみたく光っていて、街も様ざまな欲望の色に染まる時間帯。このまがまがしい「光」の誘惑に惹き込まれ、戻れなくなった人が何人いるのだろうか--。

 この街を「つくっている」人たちが、この街で「踊っている」人たちが、誘惑と欲に溺れているのかもしれないな。

 そんなことを考え始めると、吐き気をもよおすんだ。考えすぎか?おかしいのはオレなのだろうか。

 ここから逃げたい--。吐き気をもよおした。

 事務所兼自宅に戻ることにした。生活も仕事も居場所が、そこにはある。落ち着かない時がほとんどだ。つねにオレは「ここ」にいるだけなのかもな。

 ソファに腰かけ、休むか。

 オレはU2の”Staring At The Sun”のCDをかけた。JBLのスピーカーから流れる、音に耳を澄ます――。ちょっとしたぜいたくなんだ、こうして音楽に聴き入る時間は。

  イントロのギターのソロが、感傷的だけれども、寂しさに負けないよう励ましているように聴こえる。

 元妻との思い出を消したい。同時に、オレの稼業に理解を示してくれた、唯一の女性に、この上なく感謝しているモンだから記憶は消えないがな。

 今は素直な自分でいさせてくれよ。感傷的だろうとさ。
 不思議だよな、音楽っては。どのような「音」かは、聴き手に委ねられる。オレ以外の人が聴いたら「激しい」ギターソロと思われるかもしれない。

 きっとさ、聴く側が曲に、自分を投影させたり、感情移入すると、聴き手の数だけの感じ方やストーリーが、あるんだろうな。

 ボーカルの、ボノが“I am not the only one,”
 ――「一人じゃない」と歌う。
 元妻、ミサキといた日々は、一人ではなかった。
 “Don’t think at all,”――「何も考えるな」。
 今のことだよな。振り返っても仕方がないことを振り返る。意味ないのは重々承知でも、思い出に浸りたくなる時ってあるだろう?

 曲の進行に伴って、記憶が鼻腔を刺激する。

 数年前の話さ。もと妻との会話だ。

 ――何回言えばわかるの!と元妻のミサキはつねに怒っていた。
 
 ――カイ、いい加減にしてよ。「マトモ」な仕事に就けないのかしら?
  
 ――もうここまで来ると・・・
と言うや否や、即座に自分の荷物をまとめた。
 ――オイ、もしかして・・・
 ――その「もしかして」が今日よ!と、言い放ち、荷物をまとめて出て行った。

 このワンシーンを夢の世界で忠実に再現していたんだ。皮肉なもので、悪い記憶ほど鮮明だったりするんだ。

 夢の中――このタイミングで目が覚めた。なんだか憂うつだ。今は夜中の3時。睡眠薬をあおるかどうするか、悩んでいたところ・・・

 「今日はミズミの嬢の管理大変だったな」

 「いや〜、北条(店長)さんも無茶言うよ。自分の担当の娘には」。北条は、二人の働くホストの経営者だ。続けて、
「ウリをさせろってな!」と言うと、ホストモン二人は、大声で笑っていた。--やめればいいのに。大家がキレるぞ。

 「で、ましてや、クスリ漬けにさせろだなんて、北条さんはエグいよな」
 
 「まあ、貢がせるためなら仕方ないっしょ」と、夜中の暗い廊下を陽気な笑い声を上げながら、ホストモンが歩いていた。

 「肝っ玉大家」が目を覚ましたもよう。

 「静かにしな!バカ!」--ああ、もう手遅れだな。

オレは事務所のドアを開け、「詳しく」とだけ言い二人に事務所に入らせた。

 半ば強引だった。コイツらから訊き出したいことはある。大家に殴られる一歩手前だ。タイミングもいい。

 大家からのお気に入りポイント、1加点だな。
「オイ、用があるから部屋来い」と言って、片方--大学生のホストモンの胸ぐらをつかんだ。

 「アンニョン(ありがとう)」と、大家はオレに言ってくれた。

 黙らせたと思っているのだろう。同じくアンニョンで返した。オレは、「またね」の意味で。

 この言葉には「ありがとう」と「バイバイ」の二つの意味がある。文脈によって使い分けられる。便利な言葉だよ。

 「どうしたんですか?中山さん」と身長の低い、ホストモン(本業)が食いつき気味に訊いてくる。


 「ヒビキって娘以外にも良く来る客はいるか?太客っつうのかな」
 「いるもなにも・・・」と言いかけた途端に、もう一人の現役大学生ホストが割り込み気味に、「ボクたちの系列はミズミ御用達ホストですよ」と一呼吸おいてから「コンカフェ嬢は接客にウリをやっていると、ストレスが溜まるでしょう?ホスト通いかクスリでストレス発散っすよ。両方もありますね。ボクたちに貢ぐことで、発散するんですよ。コレが歌舞伎町の食物連鎖かもしれません」と言ったところで二人とも揃って、満足げな様子だった。



 「頂(いただき)に君臨しているワケか?ホストたちは」と、球を投げると、今が笑う場面なのか、緊迫した場面なのか、見当がつかず困惑しているようにみえた。さきの得意げな表情に、オレは怒りのような感情を抱き、一発ずつ腹にパンチした。


 「プライドっつうか自慢はいいから。ま、続けて」
 「その前に・・・中山さん、痛いですよもう」と大学生ホスト。
 「少し静かな声で話してもらいたかっただけなんだ。手荒でごめんよ。大家に文句言われるのもイヤだろう?お前ら、イエローカードだぞ」

 大学生のホストモンが自分の学力を誇示するかのように語り始めた。ここでは学力なんていらないのに。
 大事なのは、順応力と処世術。大学で使う頭脳と、ここで活用させるそれとの違いをわきまえてなさそうだな。

 「アノ店の近く――場所は秘密ですが――に、売春用のアパートがあるんですよ。二階がコンカフェ嬢たちの寮で、三階が『ハコ部屋』なんです」と言い終えた時に、「職安通り沿いだろ?」と返すと、驚いている様子だった。驚くもなにも、調べ上げるのがオレの仕事だ。つねに一歩先を歩く。それでも分からない時は知恵を借りるんだよ。

 「なんで知っているん・・・」と、言いかけた途端にもう一人のホストモンが「調査のプロだぞ」と、小声で図に乗らないように、クギを刺していた。
 「設計を教えてくれてありがとうな。さっき言っていた『クスリ』は何を使っているんだ?高確率でシャブだとは思うが」
 「はい。客側、まあ買い手は『キメて』できるので、人気なんですよ。ましてや若いですし」と、ホストモン(本業)が返した。
 「オッサンらの娘と同い年くらいの女の子を喰って楽しいのか・・・」と本業。コイツはこの街で生き残れるタイプだ。



 立ち居振る舞いをわきまえている。どう交わすか、どう応えるかを、客観的視できている。

 「スタートは夜か?」

 「いや、フル稼働です。いつ何時でも『キメ』できるように嬢の待ち時間・合間にするんです」。欲望は眠らない。つねに目を見開いている。「それで、プッシャー(売人)は?」と訊くと、
 「さすがに・・・」と、決まりが悪そうだった。

 「他言するな」と上のモンに徹底されているんだろう。「これでどう?」と7万円を見せつけた。


 「言うのは御法度なんだろう?」と確認。「7万の価値はあるからな」と付け足し、念のため「それ以上の価値があるなら上乗せするぜ?」と添えておいた。

 もう一人の学生ホストモンと、コソコソと話していた。どこまで言うか、もしくはカネを返すか、7万以上に引き上げるのか、迷っているようだ。迷いあぐねいた結果「三上さんです」と答が返ってきた。

 背筋が恐怖で凍えた。

 というのも、三上は歌舞伎町のトー横界隈を実質支配している、極道モンだから。「あの」エリアは、極神組系の2次団体、憎堂一家が縄張りにしている。

 何度も他の組織と、縄張りをめぐった対立や抗争があった。が、勝ち抜いて、あのシマを納めたんだ。かなりどう猛なコトで有名。手段を選ばない--相手がカタギだろうと、シノギだろうと、容赦はない。

 オレがウロチョロしていることに気づかれている可能性すらある。

 実際に捌いているのはこの組の下っ端なハズだ。大元は三上――。すると、だ。一つの仮説を立てた。ミズミのケツ持ちは憎堂一家だ。
 売春宿もな。それで、だ。そこでヒビキが組のモンと店をつなげている。そこの手数料、仲介料をもらっているのかもな。
 「で、ヒビキのキックバックはいくらくらいだ?」と自分の仮説を伝えた。推測の域なのに、裏づけがあるように振る舞うのも重要だ。外れたら赤っ恥だが、大体の筋さえ読んでおけば、トントン拍子で話は進む。

 「やはり、ここに目をつけますよね。一人あたりの売上――コンカフェと売春の両方で20%。そのキックバック料の一部を憎堂一家に上納ですね」 
 「憎堂一家への上納率は訊かないよ。さすがに言ったらマズイだろう?こっちも知ってちゃまずいんだよな」と本音を付け足した。

【本題】

 「ヒビキはかなり儲けているだろう。本業にキックバックで、まあ月に500は余裕で超えているな」と、言った。

 これはかなりラフな投げ玉。正直、コイツらもヒビキが一定の額以上稼いでいれば、100万円だろうと、ゼロが一つ増えようが、関係ないだろう。太客が金を落とせばいいだけだからな。

 「はい、おそらく」と、脱力しきった表情で返事をした。何かあったら真っ先に詰められんのは、このホストモンたちだからな。余計に顔色が青ざめていたよ。

 「憎堂一家からピンハネされた、まとまった額をヒビキが管理。要するにアイツは、ミズミのコンカフェコミュニティの財務省的な立ち位置。日銀は憎堂一家。で、財務省のヒビキがカネをコンカフェ嬢たちに分配。下の嬢たちは、そのカネで生活か」

 そう言うと、すぐさまホストモンたちは、力の抜けたかっこうでうなずいた。「出してくれ」と言わんばかりだだ。

 低学歴でも、どう見せるか・振る舞うか理解しているホストモンは、器用に渡り歩く。「ありがとうよ。7万で足りなかったら追加で渡すさ」とカッコつけた礼を言って、「疲れたろ」と付け加えた。



「ちょっとの話のつもりが、もう朝5時だ。長引いちまったな。これで明日は美味いモンでも食ってくれよ」と言い、追加で1万円を渡した。実際7万円以上の価値はあるしな。

 二人ともそそくさとオレの部屋から出て行った。ホストモンが部屋に戻る最中に、大学生のほうが「8万ももらっていいのか?」と訊いていた。「バカ、もらうのが礼儀だ。お前、偏差値高いんだから『受け取る』理由はわかるだろう?」
 「・・・」

 「バカだな」とため息を吐きながら、自分たちの【室内=寮】でこの街のマナーを教えるのだろう。

 第一に「割るな」と言われたことは、他言してはいけない。次に受け取るのが礼儀ということ--。相手から渡されたカネを拒否するのは「カネなし」と蔑むようにも解釈されてしまう。

 物分かりがいい。本業ホスト=ツバサは大成するだろうな。

 まず、どう考えてもオレ一人の力では解決できない問題だ。憎同一家とモメるリスクもある。助っ人を呼ぶしかない。谷川だ。アイツは気が早いが、俊敏だ。かなり助かるんだよな。

 ヒビキのイヴェントまでもう少し。溶け込まないと浮いてしまう。毎日、夕方ごろに店に通い、売春宿も確認した。

【ビンゴ】


 プッシャーがヒビキとやりとりしている瞬間を、遠目から見られた。薬物を路上で「押して」売るのが名前の由来とされている。プッシュには押すという意味がある。そこから派生してできた、ストリートの用語だ。

 プッシャーは長髪で身長は低い。痩せている。多分コイツもネタを喰っているんだろうな。憎堂一家の末端が雇った、そこらのチンピラだ。

 とにかく見張るのが今の仕事。出てくる人間関係の整理と、どの時間帯に誰が動き出すか、頭に叩き込まないと依頼のミッションは失敗するに決まっている。

 2日目にも、いつもの観察をしていた。ここが、あのガキたちの居所なのだろう。

 Mos Defの"Brooklyn"の歌詞を思い出したーー。

  "Sometimes I feel like I don't have a partner, 
  Sometimes I feel like my only fiend
  Is the city I live in, is beautiful Brooklyn,
  Long as I live here believe I'm on fire"
 「パートナーがいないように思えて、
 唯一の友人は、オレの住んでいる
 美しい街、ブルックリン。ここに
 住んでいればオレはノリノリだ」
 といった意味になるのかな。

 この街にいるヤツらに「パートナー」――腹を割って話せる人や、恋人――はいない。裏切りが当たり前だ。信用出来るのは歌舞伎町だけ。

 このエリアにいれば、調子がいいんだろうな。ドライな赤の他人とみせかけのつながりを作る。それがホンモノの仲と信じ込む--信じるがあまり、不信になるヤツらを山ほど見てきた。あまりにも逆説すぎるだろう?人間ってアホな生き物に思えるよ。

 皆が皆、というわけではない。きっと、この街以外に居場所のないヤツらはたくさんいるんだろうな。

 オレもその一人かもしれないしな。

         ***

【その日】

 当日は助っ人が来てくれた。谷川が売春宿を見張ってくれる段取りになった。昔からの付き合いで、何かあった時は力を貸してくれる。コイツもなかなか危ない。

 危険を顧みず、相手がヤクザモンだろうと平気でケンカを売る。ところがさすがに、憎堂一家の三上となると、分が悪いのは察しているようだった。

 それだけ敵に回すリスクの大きい相手というコト。

 オレは一人でコンカフェに行った。憎堂家が絡む話に首を突っ込んだ以上、自分たちが、想定以上に危ない橋を渡っているのは確かだ。もし、長野が、暴力団がウラで糸を引いている、と知っていたら、あの報酬は安いのかもな。

 そう考えながら、ミズミに入店した。相変わらず派手な内装だ。キャストも同じく。

 新宿のネオンを一箇所――このコンカフェに集中させているようにみえる。店内はもちろん、人もがネオンだ。カンだ。コイツらは居場所がなくて、ここに流れてきたんだろう。言ってしまえば、孤独だった。もしくは今も。

 ヤクづけにされて、体を売ってキャストとして働いても拭えない孤独や後悔はあるはずだよな。孤独ってヤツはよく光るのかもしれないな。と、思いながら、時間を過ごしていた。

 相変わらずオレは浮いている。他の客は若い。オッさんもいるが、鼻の下を伸ばしたスケベ野郎だ。ミズミの娘とセックスをして、興奮の尾をまだ引いているといった感じだ。冷めた目でオレは見ている。

 ヒビキがソロで曲を歌う、イベントの開催5分前だ。

 「お越しいただきありがとうございます!」と、声をかけたのは、どこにでもいそうな、一見普通な娘だ。ほかのネオンガールズとは違う雰囲気。かえって浮いている感があるが、清楚系も必要としているのかな。

 ところが、だよ。よくよく見てみたら、普通じゃないことに気がついたのが。

腕には注射痕があり、ガリガリに痩せていた。
 それを見、その娘から可愛さが消えた。重度のヤク中だ。まだ18〜20歳くらいに映った。次の瞬間に、買春宿のことが思い浮かんだ。この娘もウリ要員か。

 ヒビキのソロライブが始まった。単純に、露出度の高いコスプレ服を着て、歌って踊る――。よくあることさ。アイドルに疎(うと)いオレでも分かる。

 それにしても、だ。10,000円は高すぎるだろう。たかが15分のライヴだ。こんなにまで値段が高くつく理由が分からない。

 演目はたいしたことがない。ただ、歌のヘタなヒビキが踊っている。合いの手で、若い男にロリコンオヤジが踊っているだけ。つまらないから、早く店を出たかった。

 苦行だ。まあ最後まで見届けたよ。嗚咽しそうになったけれどな。出口に、コンカフェのキャストたちが立ち並んで、客に握手している。オレはもう用がないので、店を後にした。

 カオリさんはいなかった。ムダ骨ってことか、と失望した矢先に、谷川から電話だ。
 「どうした?」

 「写真渡してきたが娘いただろ?あの娘とウリ二つな女が売春宿から出てきたぞ」


 こんなに早く仕事が終わるとは。売春宿まで急いで向かった。谷川にも一緒に詰めてもらう。出てきたのは間違いなくカオリさん。写真と名前は一致している。ところが、今ではガリガリで生気がない。



 「恩にきるぜ、谷川」。谷川に少し離れるよう伝え、オレは、お尋ね人に声をかけた。
 「長野カオリさんですよね?」

 「ひめのです」--。そう言い放つカオリさんはこの街で「転生」したというワケか。写真で見たカオリさんは確かにここにはいない。

 栄養失調でいつ死んでもおかしくない姿だ。髪もツヤがなく、目がうつろ--シャブを覚えてすぐに、こんなにひょう変するとはな。「何の用ですか?」と、か細く震えた声で話した。やっとの思いで振り絞ったような声音が蚊の鳴き声のようだ。身体全体もが震えている。

 横に客、50代半ばくらいの男が立っている。ソイツは「何が何だか」といった様子。



 「私は帰る!」と荒げた語気でオレに言い放ってきた。早とちりしたようだ。自分で墓穴掘るなんて。谷川に目で合図した。目線が合うや否や、すぐにこちらへ来た。

 オレは強面ではない。表面上は一般人の表情を装っている。温厚に見えるだろう。いや、正確には、見せるようにしている。
 というのも、「いかにも」な顔で「いかにも」なことをすると、真っ先に持っていかれるのが関の山だからな。



 一方の谷川は真逆だ。

 表情と雰囲気から、つねに戦闘態勢と伝わる。言葉を荒げず、相手を威圧する。痩せ型低身長。そのシャープな体から放つオーラから、くぐりぬけてきた修羅場の数かずが存分に伝わるモンだから、相手は怖気づくーー何をするか、次の一手が読めないんだ。

 本職はもちろん危ない。ただ、半グレなのか、チンピラなのか、よく分からない谷川のように、躊躇なく人を殺めかねないタイプも、敵に回すと厄介だ。

【出会いは…】


 2年前のこと--。早朝の一コマだ。歌舞伎町の路地裏で、谷川は相手にパウンドを取ってノシていた。やりすぎだ。

 --死んじまうぞ、そこまでにしときなよ

 --誰だよお前?

 --訊く前にズラかったほうがいいんじゃないか?
と、首を縦に振った。死人なのか区別がつかないところまで叩きのめしていた。どうやったらここまで詰められるだろう?相手は明らかに谷川より大柄なのに。

 何より、暴力事件なんてこの街ではザラで、通りがかりに見かけてもスルーを決め込むオレが、谷川に声をかけたのもよく分からない。誰かに似ている気がして、コイツとは仲間になれそうだと、変な確信があった。「誰か」がいまだに分からないのだが。

 声をかけた矢先に、警察官が現場に駆けつけた。どうにか身を交わした。
傷害やら暴行やらで、持っていかれかねないところを助けたコトには感謝してほしいよ、谷川には。



--何があったんだ?デコがこんなに来てんぞ、とオレはその場しのぎに逃げた、ゲーセン内で訊いた。ゲーセン内のコインゲームをしながら、タバコを吸って時間をつぶした。

 --多分、話すとお互いここに居づらくなる。やめよう、その話は
 その日を境に打ち解けた。お互い持ちつ持たれつだ。

 どちらかが困ったら応援という関係になった。オレは素性を教えていないし、谷川のそれを訊くのは、なんだかナンセンスに思える。

 なんやかんやで、2年間お互いが「何者」か知らないままってコト。「知らぬが仏」とは的を射ている。名言は時代がこんなにも変わっても、生き残るんだ。フシギなもんだよな。

 確かに、お互いが素性を明かしたら敵になりかねない。谷川がオレの関係者をシメていたかもしれない。そうすれば縁もヘチマもない。逆もしかり。谷川がオレを狙う可能性もある。

 アイツの貫徹した考えは、理にかなっているのかもな。

 谷川が口を開いた。「少しいいですか?」とたった8文字。それだけで、50代半ばのオッさんは怯んでいた。語の圧に押しつぶされたオッさんは、帰らず、ヒザを震わせながら、その場に居とどまっていたよ。

 前日には、カオリさんを見つけ出したら即座に、長現場に来るよう、長野に伝えておいた。「見つかるかもしれませんので」と意図を言うと、きまりが悪そうに「もちろん行きます。行けなければ秘書が・・・」と、気が進まないような回答。

 自分の娘じゃないのか?依頼時は、大量に汗をかくほど、焦っていた。話しぶりから、精神的に追い込まれているような雰囲気を、十二分にかもし出していた。



 ところが、だ。見つかる可能性があると、ほのめかすと、態度が一変している--「関わり」を避けているように、依頼を後悔しているように、思えもした。

 とにもかくにも長野にその場で渡すんだ。

 カオリさんを救い出せてもオレの事務所に居させるワケにはいかないだろう?現場で長野に引きとってもらわないと、かなり危険な目に遭いかねない。詰められたら、オレと谷川では生き残られない。

 要するに渡したあとは、長野でどうにかしろってコトだ。手付金が高かろうが、そこまでのリスクを引き受ける必要はない。その点は事前に伝えてある。

 アパートの出口で谷川は、オッさんの持ち物検査を始めた。「何を!」と言い返す勢いは、もうなさそうな様子。カバンの中には特になにもなかった。


「ハコの中で打っているんですか?」と谷川は訊いた。うなだれるように、降伏したかのように、オッさんは、うなずいた。

 オレはカオリさんに長野の依頼で、捜しに来たことと、これから長野か秘書が迎えにくることをカオリさん、いや、ひめのに伝えた。オレが出来るのはここまでなんだ。

 「お父様から捜索の依頼がありました。それでここにいるのです。じきにお父様か代理のどなたかが来られるでしょう」と言った途端に、「ゼッタイにイヤだ!戻りたくないもん!!!」と金切り声を上げた。


 「と言われても・・・」とできるだけ、無難に受け流すように努めた。ここで荒波を立てると、他の人間もやってきて泥沼になりかねない。谷川には、オッさんをいったん手放し、カオリさんを見張ってもらうよう頼んだ。
 長野に電話をすることにした。これではラチがあかない。携帯電話を取り出した瞬間、カオリさんがこちらにやってきて、取り上げようとした。
 「アイツに電話なんてやめてよね!!!」。

   アイツ--。反射的に父を「アイツ」呼ばわりだ。相当嫌われているんだろう、議員ではない、パパとしての長野は。

 やむを得ない。谷川に身体を抑えるように伝えた。うまくなだめようとしても、言葉で自分の動きを制御できそうにない。錯乱状態にあるとしか思えなかった。

 長野に電話をかけた。6か7コール目で出た。それも、本人ではなく、秘書が。「今、長野は席を外しておりまして・・・」


 「娘さんを見つけました。娘さんの番号からかかってきているから、確実でしょう?住所を言うから来てくださいよ。本人がいなければ『秘書が代わりに身柄を引き受ける』と話してましたよね?」と相手を逆撫でするような、話し方でオレは秘書に住所を教えた。


 「伺います。5分以内」と、急ぎ気味に相手は電話を切った。「なんでこんなヨゴレ役引き受けなきゃいけないんだよ」と、理不尽に怒りを覚えているような話ぶりだった。

 こっちだって困るというのに、さ。

すったもんだで目立ちかねない。カオリさんでもひめのさんでも何でもいいや、この際。かのじょは大声で「ヘンタイさんです!!!」と。確かにってなる絵面だから余計にこじれる。

 男二人でオッさんを詰めているのか、男三人が未成年の女の子を狙っているのか--。いずれにせよヤバいか、ヘンタイさんのどちらかだ。
 早く切り抜けたい。

オレらは谷川の用意した車が止まってある、コインパーキングに向かうことにした。強引に押すわけにもいかない。先に谷川とオッサンが車で待機。それからオレとカオリさん・ひめので乗り込む算段だ。

 ここで交代。秘書が来た時に谷川がカオリさんを抑えていると、話がややこしくなりかねない。オレがかのじょの身をどうにか。余裕をカマした谷川は、オッさんを先に、車に押し込もうとしていた。

 「お、誰かと思えば谷川クン。覚えてる?」とプッシャー。
 「殺すぞ、ガキ」と谷川。

 素性を訊いておくべきだったのかもな。

【因縁】

 どうやら谷川はこのプッシャーと一緒に一時期、ネタを捌いていたとかなんとか。取り分かなんかだろう、揉めて仲違いした原因は。

 まさか、こんなところで「再会」とはな。

 「破門になって、ケツも持たないで好き勝手やってくれてんな。シマを荒らしてんの。分かるだろ?」とプッシャーが、二人の因縁に火をつけた。
 「お前はケツに守ってもらってばっかりの疫病神だよな」
 「元はてめえがケジメつけなかっただからだろ?ナメんなよ」

 「しつけえな、お前は。こっちは取り込み中。終わったら『あの頃』のヤキまた入れんぞ?」と、谷川が一蹴する。


 プッシャーが黙り込んで、近くのコーンを蹴り散らした。余計に目立つからやめてくれよ。この勢いだと、谷川対プッシャー、ひいてはオレら対憎堂一家の揉めごとになりかねない。



 本来の、こちらの目的とは、無関係な血なまぐさい抗争になりかねない。そうなると、話がこじれる。まあ、どうなるかは中島次第でもある。

 事前につかんだ情報--。



憎堂一家が絡んでいるだけあって、組長の三上に来られたら、たまったモンじゃない。面識はあるが独自の距離感を保たないと、うまいこと商売できたモンじゃない。

 利害関係にあるんだ。

 利害の不一致があろうものなら、劣勢な時は即座に、こちら側が仏になるのがオチだ。ほかの事件屋もどっかの組とつながっている可能性すらある。
つねに腹の探り合いだ。
                   ***

 3年前にさかのぼる。

 谷川は「ヘタ」を打って憎堂一家の敵対組織、儀仁組を破門された。それから、ブツを捌いていた、プッシャーの中島とともに商売するようになった。

 ところが、ケツ持ちをつけずに派手に「押し」まくると、組のモンから何をされるか分からない。そこで中島は上納金を預けて、シノギを拡大する気でいた。

 一方、谷川にとっては具合が悪い。敵対組織から破門を喰らっているわけだし。憎堂一家が真っ先に、谷川を攻撃してくるに決まっている。こればかりは谷川にとって不利だ。

 歌舞伎町から消えるか、捌くのを止めるかの2択。

 ただ、時すでに遅しだった--。谷川に相談せず、中島は憎堂一家に話をつけていた。要するに、谷川を捨てて、一人でシノギをデカくする絵を描いていた。

 ある日。

 憎堂一家の構成員が谷川にカチコミのリンチ。ボコボコにされた。谷川からすれば、何が元凶なのか分からない。

 組員から「中島とは一緒に組めねえからな、ガキ」

 で、ブチギレた谷川。--2年前に谷川が容赦無く叩きのめしていたのがプッシャーの中島。因縁の再会というワケだ。
                ***

 中島が電話を取り出した。
 「います。はい、二人」--組員に応援を要請している。ピンチだが、ヤクザモンがくることも想定していた。その場しのぎの逃げるための「材料」も仕入れておいた。

 5分経過。

 鉢合わせたのは、長野の秘書と憎堂一家の末端と思わしき構成員--。このメンツが一箇所に集まるだなんて、かなりおかしな光景さ。

 とはいえ、だ。

 かなりの緊急事態だ。誰かオレが先、次に谷川、カオリさん・ひめのの順だろうな--複数人死んでもおかしくない場面だ。

 コイツは、下ッ端を連中をまとめる、下ッ端の中の一番上クラスって位置づけになるのだろう。空気がピリついた。オレにイチャもんをつけると踏んだ。だが、思わぬ方向へ--。

 「中島!手間かけんなっつっただろ?お前は事前にトラブル食い止めるのが役目だろ?あ?」

「すみません・・・坂本さん」とさきの勢いが消え失せた。こちらとても、まるっきし状況が読めない。というか、今の段階で、「誰」が「どう」つながっているのか、完全に整理するのは無理筋だ。

 ただ、中島が劣勢にあるというのは、こっちにとっては有利。強気に出られるチャンスってことだ。

 「中島の兄ちゃん、プッシャーのクセして憎堂一家に無断で風呂敷広げてんだろ?」と谷川は笑った。--「相変わらず疫病神だな」


 「売人と売春宿の管理以外の余計なコトに手を染めてねえか?末端のヤツとよ」オレが詰める。

 「何のことだよ、てめえ」

 「オイ、中島。自分の口で話すか、あそこのハンパモンに話させるか、どっちか選べ。一切聞いてねえぞ」と、坂本。《ハンパモン》か、オレは… 

 切り込むチャンス。強気に出られる。


 「伊藤とかいうヤツとタッグで、北条の店にあっ旋した額のピンハネしてんだろ?ナイショでよ」と言い、携帯電話を中島に投げつけた。

【手打ち】

 ビンゴ。

 すでに手を打っておいた。北条からの聞き込み。まず、憎堂一家との関係を探りたかった。が、いきなり直球は警戒される。

 そこで、だ。

 推測にもとづいた「あり得そう」なハナシをつくりあげ、それが本当か、北条にじかに確かめてほしかった。ウソなら「ウソのタレ込みもあるみたいですね。このウワサを消しておきます」と言ってごまかす。「ウワサ」もなにもオレの作り話に他ならないが。

 高を括った発想だ。ここは演出しかない--。いかにも本当の話かのように、推測を投げつける。大事なのは緊迫感を出すコトだ。

 深妙な表情で、オレの読みを伝えたら、北条は中島をツブせる機会を虎視眈々(たんたん)と、待っていたとのこと。


 当たり。


 北条からすればピンハネ料をカスられるのは迷惑。中島からのテレグラム上のやりとりが、残っていた--。「明後日には中島のピンハネをやめさせるように、どうにか話つけておきます。データを別の端末に移し替えてもいいですかね?」と、北条に訊くや否や快く応えた。

 「頼むよ、中山クン。正直コッチも迷惑なんだよ。上のモンと話つけてくれないかな?」
 「身バレは大丈夫ですか?」
 「むしろバレた方が助かるよ。ウチと憎堂一家はつながっているんだし。上のモンに言ってもらわないと、オレだってこの街でやってらんないって」

 トレードオフ成立。

 「はい、コレ。ドジったらどうなるかは分かるよね?」と、言いながら、ズクが3束。報酬の前取りをさせるとは、なかなか北条もあざとい。
 「ケジメつけますんで。憎堂一家にはツブされないように」とだけ残して、オレはその場を去った。

            ***

 「履歴だよ、坂本さん。中島は伊藤と組んで、ホストからカスめてんよ。テレグラムのやりとり載ってってからさ」。その場で、中島の髪をつかんでいた。「自分の担当以外すんなって徹底して言ったろ?オイ」と、押し問答。

緊迫した空気感が漂うなか、長野の秘書が着いた。あ然としている。皆目見当がつかないといったところ。

 こんな場面に遭遇したことのないカオリさん・ひめのは、恐怖のあまり、声を出さなくなっていた。

 「間違いないでしょう?引き受けて、車に乗っけてあげて。オレは面倒みられないし」

 「分かりました」というと、秘書はaudiのセダンにカオリさん・ひめのを乗せた。早くここから去ってくれ。

  坂本は、長野の秘書が去ってゆく矢先に「あ、秘書さん。長野に訊いてください。『失踪は想定外』だったか」と言葉を投げ、嘲笑しているように見えた。



 秘書は事態を飲み込めずに「お先に!」とだけ残して、カオリさん・ひめのを車に乗せ、すぐさまその場を去った。


 小声で「谷ちゃん、ズラかんぞ」と言った瞬間、中島めがけて、思い切り走り込んで腹パン。その場で中島は崩れ落ちた。


 オレらは走って逃げた。話すだけ不利でピンチな状態にある。どうにか切り抜けられそうになった、といったところ。事務所に行く運びになったら、バツが悪い。

 谷川の乗ってきた車に駆け込み、そのまま新宿からいったんは離れることにした。中野区。数日は待機だ。

 言っただろう?あくまでその場しのぎだって。

【まさかのリフレイン】 



 想定外--。この言葉が頭のなかでこだまする。
 今は中野区某所にいる。隠れアジトは谷川が手配してあった。「あの場」から去る時に乗った車の行き先は、あらかじめ決まっていたんだ。

 去り際、車内で、「当てずっぽうな場所に行くなよ、分かんだろ?谷ちゃんよ」
 「隠れ家に行くよ。カイくん、すまないけれど運転中は無言で頼む」と谷川。あのドタバタ劇から脱するルートを前もって決めていたのだろう。
 「この車のナンバー取り外さないと。『わ』のナンバープレートを上に載せたから。目撃者とか出てきたら厄介だな・・・」

 谷川は運転中、一人呟いていた。やや息を切らしている様子。それなのに、表情は涼しい。取り乱さない。


 さきの中島と相対していた時とは打って変わって、冷静沈着だ。しっかりと、プラン《計画》を練っていたのだろう。半面、だ。衝動から何をしでかすか分からない--。接していて恐怖を感じることはないが「狂気」に近づくたびに動揺せざるを得ない。

        ***


 そのアジトは何ら変哲もない、ただのマンションだ。オレの事務所より断然、住み心地が良さそう。谷川への嫉妬だよな。ここが隠れ家だなんて、本当に住んでいるところは、ココ以上にぜいたくなんじゃねえかって、考えるとな。

 オンボロなのかもしれないけれどな、実際に住んでいるところは。というのも贅沢は厳禁だから。そのルールは谷川本人が痛いほど分かっているハズだ。

 オレらの稼業は、その時々によって、収入の増減が激しい--高額案件一件だけで1年分の収入を得られるケースもあれば、かなりの数の案件をこなすが、報酬金は少なかったり。

 色々ってコト。

 まとまったズクを手にした時に、散財するクセのあるヤツの息は、概して短い。目立ったり、首が回らなくなったりと、人の数だけ「消える」理由があるんだ。

 それなら質素な生活を送る習慣を身につけるのが無難、というか、護身術なんだよ。そんな考えが、頭の中で行ったり来たり。交錯していた。

 「そういえばアイツがヘタを打って消えた理由は・・・」と、この稼業から去っていったヤツらと理由を思い返していた。焦げた記憶の中に眠っている、ノスタルジーが胸を締めつける。


 「あの時こうしておけば」--この後悔はつねにある。逆に「こうしてうまくいった」という類の記憶は、意識の奥の奥に潜んでいる。

フシギなもんだよ。悪い過去ほど鮮明なんてよ。

 と、焦げた記憶を復元させていた。その時、だ。
ふと思い出した--。谷川が「誰に」似ているのかに気づいたのは。

 駆け出しの頃の話。12年前にさかのぼる。お世話になった先輩がいた。その人にこの業界の「掟」を叩き込まれた。



 ネットワークの広い人でさ。色いろな方面に人たちにツブシの利く人だった。ところが、それが仇となったのもあったのだろうか、「ツテ」の人たちも消されるという事態になった。

 あの人に、だ。似ているのは。街から消えた、あの人に、谷川は酷似している。それがあって、オレは声をかけたのだろう。

 「あの人」は街から消えた。正確には、去らざるを得なかった。「来る者拒み、去る者追わず」--。去っていった人の足跡をたどったとしても、トラブルに巻き込まれる。

 情があっても、損切りのタイミングをわきまえないと、自分が痛手を受けるのがオチだ。
          ***
 

 外に出られない。今見つかったら、どうなるのか--自分の身が危険にさらされるのは、一目瞭然。襲ってくるのが、プッシャーの中島か、憎堂一家の伊藤、坂本か。

 それとも全員か。

 それとも新しい「誰か」か。

 一寸先は危険しかない。
 お使い、というか、パシリの義村に買い物は任せてある。谷川はソイツを乱雑に扱う。
 「オイ。カイくんの銘柄覚えただろ?間違えんなよ」と、主従関係が明確だった。

 「いや、さすがに義村クンに悪いよ、谷ちゃん。気を遣ってくれてありがとうな」と義村を擁護する意図で言った言葉も、谷川は退ける。
 「義村、いい気になんなよ。カイくんは特別なんだからな。分かんだろ?意味がよ。お前には伝えたハズだぞ」

 「す、すみません!」と恐れおののく義村を、オレは「助かっているから、大丈夫。気にしないで」となだめた。

 谷ちゃんらしいといえばらしいし、意外といえば意外。コイツには複数の顔があることを忘れちゃいけない。にしても、オレが「特別」なのには、何の理由があるのだろう。息が合うからなのか、よく分からないまま、言葉尻を取らずに、流しておいた。



 切り込みたい本題--。


 「なんで憎堂一家の敵対組織、儀仁組を破門することになったんだよ、谷ちゃん」と、口に出す一歩手前の状態にあった。

 どのタイミングで切り出すかだけ。機が熟するのを待つのみか、ココで訊くか。機は熟しているのいるのでは?なんて、セルフで押し問答をしていた。



 応えてくれるかは五分五分。--知らぬが仏って言うだろ?アレは言い得て妙でさ、知った以上、オレと谷川の仲にヒビが入りかねない。

 とはいえ、しこりのように胸の中に、この疑問符が沈澱しているのは事実。ましてや、昨日に中島が「破門」と、ナゾを深める言葉を発したばかりだ。

 淡々と話し、鋭い目つきの奥には何が・・・と思っていても、程よい距離感が大事なのかもしれない。話の展開で、明らかになる可能性も存分にあるだろう?谷川との旅は長くなりそうだ。

 その旅路に答が転がっているかもしれない。

 訊くのがアホくさく思えたよ、一気にさ。どうしようもないと思えて、タバコの煙と一緒に、その質問は吐き捨てた。

 外に目をやる。もう夕方だ。相当、疲れたんだろうな。なにかアクションを起こす気にもなりやしない。昨日のワンシーンが頭の中で再生される。何度も何度も残像が。

 --「想定外」とは?と、疑問が拭えない。
 坂本をはじめ、憎堂一家の長、三上はどんな絵図を描いていたのか、絵図のなかで、オレの「役割」は、あらかじめ決まっていたのか、長野がどう噛んでいるのか--迫れば迫るほど、全体像が蜃気楼のように、浮かんでは、消えてゆき、また、おぼろげで輪郭のない、虚像の姿が現れる。

 そんな具合にマンションの天井を眺めながら、タバコをふかしていたら突然の電話だ。テレグラム通話。相手は不明。

 このタイミングで電話を寄越すのは、北条か憎堂一家の誰か--誰だろうとオレをツブすハラだろうが--に違いないだろう。織り込み済みだ。今さらビビっても仕方がない。

 それこそ「想定外」の出来ごとが起こった。--憎堂一家の組長、三上だ。前に話したことがある。独自の声音で即座に三上だと解った。

 背筋が凍りついた。ヤバい。最悪の事態だ。

 「中山くんさ、なかなか都合悪いんだよね」

 「三上さんですよね?」
 「そそ」と言い、まくしたてるように、「長野はもともとコッチの顧客なのよ。電話で話してもラチが明かないから事務所に来てね。早ければ早いほどってのは、中山くんなら分かるよね」と、憎堂一家の組長、三上はため息を吐くように、言い捨てた。

 「ツーッ」と切れた音が、谷ちゃんの耳に届いたようだ。こちらに視点を向けた。そのタイミングで、俺から伝えると決めた。

 「谷ちゃん、ワリぃ。出かけてくる」と、もったいぶらずに用件だけ伝えた。

 「気をつけて。身分証預かるよ」と、最後になるかもしれない会話を交わした。もう察しているのだろうが、深く首を突っ込まないのが流儀だ。



 外は、熱で暑くなっているコンクリートを、高温の雨が打ちつけている。どうせ止むだろう。たかを括って、三上と話しに、歌舞伎町へと向かった。どうやら長野とは連絡がつかないようだ。     

 

 そのことに三上は腹を立てていた。報酬の話はもちろん、長野が組を蔑んでいるのだと思え、イラ立ちが収まらないのだとか--「コッチに依頼しておいて、カイちゃんにも依頼だなんてねえ。中間連絡もないし、ナメられたものよ」
 「連れてくればいいのでしょうか?」

 「2日以内にココね。坂本の番号が登録されている携帯電話を使ってね」と、即座に応え携帯電話を渡した。もちろん本人名義ではないハズだ。
 「お疲れさん。今日はこのへんにしましょう」と言って、オレに帰るよう言い放った。

 ドライな声だ。


 --要は坂本と組んで、長野を連れてこい。以上。
 無言で事務所を出、雨の降りしきる歌舞伎町を歩いていた。帰り際に、三上が傘を渡してくれた。
 --「2日以内。身体が資本なのよ」。ドジを踏んだら、終わりってことだ。

 雨の歌舞伎町を眺める。傘に当たる、雨粒の音だけが耳に入り、街の喧騒は、聴こえない。

 トー横のガキたちは暴れることなく、ひっそりと息を潜めている。どうせ晴れになれば、雨で動けなかった反動で、アイツらの持て余している、エネルギーを発散するさ。

 そんなもんだ。


 と、トー横の光景に気を取られていたが、肝心な点が決まっていない--。
帰るのは、それは、谷ちゃんのところか?それとも自分の事務所か?

 結論。

 事務所に戻ることにした。
 谷ちゃんをこれ以上巻き込むわけにはいかない。谷ちゃんのことだ、坂本とトラブったらツブしにかかるだろう。身分証がないのは、かえって好都合だし、谷ちゃんには何も伝えないことにした。

 事務所に着いたら、坂本に電話をする。今すぐにでも会おうと話をもちかけたい。

 坂本とは組みたくはない。けれども一時的な利害関係者で、共同の仕事をするワケだ。一刻も早く始め、一刻も早く終わらせたい。

【急用】

 急ぎだ。

 マンション兼事務所に着いた。自分の部屋に進んでいく途中、廊下で、ホストモン二人と鉢合わせた--本業ツバサと大学生ホスト。なかなか気まずそうな、決まりの悪そうな顔つきだ。
 それもそうだ。

 北条が裏でホストモン二人を操って、実際にオレを騙したのは、コイツらだしな。

 「やらざるを得なかった」と言わんばかりの表情。
 「あ、中山さん、お疲れ様です」とツバサ。
 「元気ねえな。気にしなくていいから」と本音を言った。

 本当にどうでもいいんだ、コイツらは。

 パシリのような存在さ。末端の末端に突っかかるより、重要なコトがあるんだから、ホストモンたちを懲らしめてやろうだなんて、みじんも思わなかった。

 話はコイツらの想像以上に入り組んでいる。複雑で重層的なんだ。1から100のうち、コイツらは、ほんの0.5の情報を小出ししただけ。

 つぶさに説明しても意味はないとみた。
 怯え縮んでいる、大学生・ホストには「ゼミは決まった?」と訊いた。
 「はい!公共事業政策の…」
 「OK。卒業しろよ」と、手短に言い緊張感を解こそうとした。
 事務所で三上の渡してきた携帯電話にスイッチを入れる。”S”とだけ書かれてある。坂本のSか。

 鳴らして9コール目に出た。

 「はい!?誰だよ、オタクはよ!?」と、大声でこちらに訊いてくる。おそらくパチ屋あたりで、時間をつぶしているんだろう。

 「中山。分かるだろ?」

 「んぁ?」

 「一昨日、カオリさんを拾った中山だっつうの」

 「ああ、事件屋さんかよ。なんだ、もう最初から事件屋って言えよな」

 
 面倒なヤツだな。


 「そんなこと言ってらんねえよ。三上さんから、アンタと組むよう話があった。今さっきな。早く、アノ喫茶店で話でも」

 「ああ、今確変モード入ったから、終わり次第。先入ってろよ」

  例の喫茶店に来た。

 ここは店主が元筋モンだ。簡単に言うなら、アングラなヤロウ御用達の店。ここならウラの話も許される。とはいえ、敵対する組との対立が激化しないよう、有事の時は、すぐ止めに入る。

 オレはアイスコーヒーを注文。もう夜10時。坂本は・・・と、コーヒーを飲みながら、来るのを待っていた。

 1時間後。

 「わりぃな、中山。景品のタバコやるから許してよ」

 「要らねえよ。オレの銘柄じゃねえしよ」と跳ねのけた--谷ちゃんの舎弟が間違えても、気に留めなかったが、坂本は癪(しゃく)に触った。年齢は坂本が上。3歳くらい。オレはここの場で強気に出るよう演じる。

 長野を連れ去る「依頼」--。

 主導権を握られちゃあ、分が悪い。上に立つポーズを見せないと、オレは坂本のオモチャになる。

 テーブルに身を乗り出すかっこうで、話を進めた。
 「で、話の核心に進むぜ?」

 「おう」

 「三上さんに依頼した長野と連絡が取れないとか。かなりキレてんぜ」と、言い一呼吸置いて、「坂本さんよ、今回の対応次第でアンタの先行きは変わる。それくらい分かるよな」

 「・・・オイ、お前に託された話だろ?俺を巻き込むんじゃ・・・」と言いかけた途端、三上に渡された携帯電話を見せた。
 「こういうことだって。話の入り口で気づけよな」
 「組めってことだな。お前みたいにナマイキなヤツと」
 「お互い、反りが合わねえのは知ってっからよ。それより早く済まそうぜ、坂本さんよ」と、かなり強気に出た。

 事実、三上とじかに接したオレから話を切り出した時点で、有利なのはオレだというのは明らか。命令に近いとは言えども、坂本がアテにならないから切り出しんだろうしな。そのことに気づかない鈍感さをどうにかしてほしいよ。

 仕方がないな、といった諦めの表情を浮かべて、オレと三上が、事務所で話した内容を伝えた。相手も察知できないほどのバカじゃない・・・
と、思いきやバカだ。

 なんというか、先読みのできない、行き当たりばったりで、その場しのぎでどうにか生き残っているタイプと言ったらいいのかな。

 坂本はオレに何件か、憎堂一家の火消しを依頼してきたことがある。「反りが合わない」のは事実。過去の依頼でも、意思の疎通が難しく、それが原因でオレが三上にガン詰めされたこともあった。

 今回はなしで頼む、と願っていた。

 「で、中山。お前は長野と連絡つくのか?あ?」と、Yシャツの袖をめくり、肩あたりから少しだけ見える、和彫の鯉を見せつけて、威圧感を出そうとしている。

 でたな、と内心ではため息。
 幸先が悪いとしか思えない。また三上にヤキ入れされんのか、と厭(いや)なことまで頭によぎった。


 「坂本さんよ、任侠映画の観過ぎかよ?今どき、墨で威嚇しても逆効果だって」

 「俺のスタイルだけど・・・確かに、時代にアンマッチしちまってるな。ミスマッチ?どっちが普通かな?」と--。まあ一言でまとめると、マヌケだ。

 強く出る。

 が、「出方」を間違えてしまうタイプ。話に意識を定める。が、「向かなくていいほう」へ進むタイプ。

 こんな調子では拍子抜けしてしまう。本当に大丈夫かよ。谷ちゃんとなら、10分で済む話をコイツには、100分かけて説明する必要がありそうだな。

 売春宿での「あの」事件から1日が経った。残り2日のうちに計画を実行に移さないと間に合わない。長野を三上に渡すのは、2日先。タイトだ。
 それを伝えたら「一人渡すのに2日もかかんのかよぉ、カンベンしてくれよな、中山よぉ」
 
「カンベンしてくれはコッチだっつうの。2日<>だぞ」

 「ああ、そうならそう言えばいいのに。性格悪いって言われるだろう、お前?」と坂本。


 言い返す気すら失ったよ。

 憎堂一家の三上が腹を立てているのは、長野がアイツに連絡を「しないこと」。突如、カオリさん=ひめのが失踪「したこと」。中間報告も「ないこと」--この三つ。この要点を伝えるだけ。

 で、長野に落とし前をつけさせる。



 確かに、秘書「任せ」な長野の態度は、オレも気に喰わない。人ごとなのか、と思うほかないんだよな。自分で、どうにかしようとする意思を表示しないことだけでも、なんだかムカついてくる。

 正義だとか、悪だとか、倫理的なものではない。通念の通用しない世界にそんな定規は不要。ただ、確かなことは「人として」どうなのか、という違和感。

 夜中の1時を15分過ぎていた。

 店は徐々に混み始めてくる。夜中に起こったトラブルの解決をする場として、ウラの世界の連中は入店してくる。店主黙認のもと。
 「坂本さんよ、混んできたぜ?敵対組織だったりとトラブったらまずいんじゃねえのか?」

 「それが仕事なんだよ」
 「ズレてんだよな。ここで火事起こしたら、長野を連れて行けねえだろう?」

 「ナマイキだな、お前ってやつぁよ」


 違うんだって。

 話が頓挫しちまうから、本当にカンベンしてくれ。確かにヌケているところはあるが、坂本は腕っぷしが強い。殴りかかってくる可能性もある。ここで殴り合いになっても、損でしかないのにな。

 「ああ、ナマイキですよ。敬語にすればいいでしょうか?坂本様?」  
 「うぜぇヤツだ」
 「感情のコントロール出来ねえと、今入ってきたヤツみたいになんのがオチだ。言っていること、分かんよな?」と、ケガを負って急いで店内に入ってきたヤツ一人を指さして、坂本に迫った。
 「ヘタ打ったか」
 「そのヘタをアンタが打ちかねないって、だから。ギスギスしてここでケンカしても、後のち三上にオレら『二人』が詰められんだぞ」
 「・・・」

 指をさしたのは、恐らく半グレ集団のメンバー。ここにきた理由は一つ--。健康保険証の不正利用だ。健康保険に入れない、ウラ稼業の連中に店主は、保険証を貸し出ししている。

 医療代10割負担のうち、5割はマスターのところに入る仕組み。
 この時間帯になると、客が--悪い意味で--賑わうようになる。酒類をあえて、メニューに置かないのは客同士でのトラブルを未然に回避するため。

 酒類も提供する、別のアウトロー御用達の喫茶店は、ヤクザモンとの抗争事件の現場になってしまった。

 ここの店主は、その前例を踏まえ出さないと決めている。酔うと本性が出て暴れるからな。トラブルを事前想定して、自分のシノギを開拓したんだ。器用だよな。

 さて、そろそろ話を済ませたい。

 もうじき、トラブルにはならなくとも荒れる可能性が高い。その前に早く・・・と、思った矢先のことだった--ホストの店主、北条がどこの馬の骨かわからないヤツと話していた。

 「坂本さん、ワリィ。とりあえず話はそういうこと明日の夕方5時にここでまた話そうぜ」と言い、1,000円を置いてイスを立った。

 その足で北条のもとへ、勢いよく進んだ。

 北条とアイツの回しているホストの幹部とが、コソコソ話をしていた。

 恐らく「あの」話。

 オレが三上のところに出向いた時に、北条へのイラ立ちが昂じた理由--中島と伊藤が、みかじめ料を徴収しなくなれば、得られるあっ旋とヤクの売買での、利益を北条と幹部で山分けする算段だった。

 実は陰で自分たちの利益を計算していたからだ。
 オレが坂本に「あの日」投げた携帯電話には、その「利益は大きい」と、ホストの幹部とのやりとりが残されていた。

 三上の「仕込み」かもしれない。アイツはオレをツブすのを目論んでもいる気がするんだ。オレが跳ねて、自爆するよう目論んでいる可能性も十分にある。

 だとしても、だ。北条にインネンをふっかける材料にはなる。

 「奇遇ですね、北条さん」と言い、オレは即座に胸ぐらを掴んだ。北条は、持ち上げられているような格好。
 ここは勢い、叩き込むか。イスも蹴飛ばした。隣に座っている幹部が突っかかってこないように、とにかく演出する。
 「で、アンタよ。中島と伊藤をオレに消させて、懐を潤わせるハラだったんじゃねえのか?」
 「・・・」
 「なあ、携帯出せよ。ここだとうるさくなるべ?外だ」と言い、店主に目配せした。明日、謝罪費でも包むか。

 その矢先。

 会計をしていた坂本が足早に、近づいてきた。
 
 「中山!お前ってやつぁ!」と、まあ当然の反応。今さっき、モメごとは止めようと、オレがクギを刺したのに、真逆のことしているワケだしな。

  
 「坂本さんさ、北条が汚ねえことやってんだよ。オタク、北条の系列のケツモチだろう?付き合ってくんねえか?」
 「うむ!」と妙に意気込んでいる。さきのオレに対しては、好戦的だったのに利害が絡むと、牙を向く相手を一瞬で変える。
 「と言っても、俺は三上組長に忠実だぞ!」
 そういう話じゃないんだって。まあいい。
 「忠実なヤツほど大事な話だ。来なよ」と淡々と伝えた。店を出、歩道で坂本と幹部をオレと坂本とで囲んだ。



 雨はもう止んでいる。

 アスファルトには、雨水が残っている。マンホールが夜のネオンを反射し、まがまがしく映る。

 夜中--歌舞伎町が賑わう時間帯で、踏み込んで言えば、誰かをブン殴ろうと、誰も気にかけない--は、悪い意味で忙しい時間帯。



 「坂本さん、オレの渡した携帯持ってっか?」
 「ああ、ある。組長に見せたら『持っておけ』ってな」

 「中身はしっかり見たか?」

 「多分!」

 
 なるほど。それでも動かなかった坂本は相当トロいな・・・

 アテにならない。諦めも大事だ。

 「携帯のフォルダにあるスクショ見てみ?中島と伊藤がかすめていたみかじめ料を納めないで済むように話を運ばせた。んで坂本と上のモンが、浮いたカネを手元に入れる計画だったんだよ」と言い、坂本は中身を確認。
 「イケないね、これは。北条、お前は何してくれてるんだ?」と、この場は、武闘派の坂本にバトンタッチ。
 坂本は北条にキツくお灸をすえていた。もう一人の幹部は足がすくんで、その場から逃げようとしているのに、縛られている--坂本とオレが捕まえるのだから。
 オレは幹部に歩み寄った。
 「で、どんな話だったんだよ?」
 「な、中山さんなら、『ウチ』と組をうまくつなげてくれ・・・」と話す口元には泡が浮かんでいた。かなり緊張しているんだろうな。動揺もしている。
 「で?」
 「くれるから、つなげてくれるから、大きな問題にはならないだろう、僕たちの手元には、まとまった金が定期的に入ってくる、その金で・・・」  
 「自分たち用のネタを買えるってわけか?はい、持ち検」と詰め寄って、ポケットの中身を全て出すように圧をかけた。

【確変モード突入】

 シャブのパケが一つ、合成麻薬が10錠出てきた。

 「北条は?」

 「こ、これが北条さんと僕の分で・・・」と返してきた途端に、怒りに身を任せて、顔面にパンチを入れた。顎にストレート。アタリが良かった。歯肉から血が流れている。

 「坂本さんよ!北条の持ち検してみ?ネタ出てくんぞ」
 「おうよ!」と応えたあとに「お仕置きレベルの量だな!どうやって仕入れたんだ!」とデコ顔負けの、尋問に進んでいた。

 ヤクザモンより警官のほうが合っていると思えることが何度かある。どういう時か?--尋問する時。デコ並みかそれ以上にキツいんだよ。

 「な、中島さんからです」と、北条は吐いた。ここで、話はひと段落つく。オレが中島と伊藤を消させた体にして、自分たちは中島たちからネタを融通してもらっているワケだ。

 「坂本さん、『アッチ』の件があるんで、北条はオタクらに任せるよ」と伝えた。坂本は北条に「落とし前」をつけるよう迫っている。だが、北条に時間を費やすわけにもいかない。
 「アッチ」--。長野の件が先決課題だ。
 「今日はここまでにしよう。明日の夕方5時に同じ喫茶店でよろしく、坂本さん」
 「おう!」
 「右翼の舎弟も連れてこい」
 「なんでだよ?北条たちと関係ないぞ」

 ・・・返す言葉が見当たらない。相変わらず、肝心なところで的を外す。

 「あの件を片付けるのに都合がいいから、頼むな」
 「長野か!最初にそう言えばいいのによ」とやや怒り気味だ。しかし、内心では「ネタバレじゃねえか」と、こちらもキレそうになっていた。



 北条たちがオレらの計画を邪魔した結果、オレらがヘタを打ったら?バレないためにあえて名前を伏せたのに、坂本は自ら、作戦を失敗させようとしているとしか思えない。

 素の姿なんだけど。

 その晩はオレと坂本は解散。北条に何かを強く伝えて、坂本もその場を去った。
 その日を境に北条と幹部の姿を見なくなった。どうされたのか、知っているのは憎堂一家の組員--その中の一部--だけだろう。
 すべてを知ろうとすると、落とし穴にハマる可能性が高い。

 そういう時は、流せばいい。

 言っただろう?「贅沢」をしないのがルールだって。
 歩いて家=事務所に戻った。どこか、秋の寒い風が吹いているように思える。もう明け方に近い。

 歩きながら、ふと気がついた--傘がない。多分、喫茶店内だろう。取りにいくのもおっくうだった。

【?】 


 ホストモン二人組--ツバサと大学生ホストモン--と、階段の踊り場で鉢合わせた。《こんな早くに?》と思いながらも、職業上、色いろあるのだろう、と結論づけた。


 「お疲れよ。こんな明け方まで」


 どうも具合が悪そう。なんというか、誰に相談したらいいのか分からなくて、普段以上に青ざめた顔で、オレにひと言、ツバサが何かを打ち明けるかのように、切り出した――。「ひめのさんが死にました」
 


 背筋が凍てついた。
 

 「何時?」
 「夜中2時です」

 コレは三上か、アイツの下のモンの仕業だ。少なくとも坂本ではない。
  
 「調書は?」
 「退店見送りの時に轢かれたので…」
 「先に言っておく。お前ら、北条の息がかかってない系列店に移れ。アイツは終わった。詳しくは明後日以降に話すよ」

 何が何だかと言った様子。カオリさん=ひめの急死に当惑し、オレのかけた言葉の真意が読めず、慌てているのが、声音と、泳ぐ目線から伝わった。

水面下でコトは進んでいたのだ。

 つまることころ、だ。



 三上は、オレと坂本が動いている間に、長野からの依頼――カオリさん・ひめのを殺すこと――を要領よく実行していた。



 オレと坂本を組ませた。そうして注意を逸らすよう計算していた。思いつきで動く性質(たち)ではない。今回の計画の数が10あるとする。オレが知ったのは、たった一つの計画――カオリさん・ひめのの殺害だ。それを計算してこなすんだ。



 十の中一つのフタが空いただけ。残りの9は社会に多大な影響を及ぼしているかもしれない。



 何はともあれ、手際が良すぎる。

 三上本人が手を染めているわけがない。実行犯は濃い霧の中に隠れている。その中に「誰か」がいる。一人じゃない。複数人が霧の中に散らばっている。

 ――ようやく「めぼしい」ヤツを見つけたとしても、ソイツが犯人かどうかは分からないし、三上が大元の指示役で、実行の主犯が別にいる。要するに、パクられんのは実行犯から。



 ようやくの思いで捕まえようとしても、トカゲの尻尾な確率が断然高い。
どうするか?――探しても今は意味がないんだ。…最後の最後に、三上の指示のもと誰が動いたのか、判明したが。



 そんなこんなだ。

 朝の5時ごろにはベッドに横たわっていた。気にしないと決めたハズの「犯人探し」が、思考の螺旋(らせん)の中で旋回する。ゆっくりと。終わりがない。どこで中止するのか分からない、思考の回転は昼過ぎまで続いた。

 寝るのは諦めた。

 坂本と集合予定の夕方5時前には喫茶店で議員の長野がどこにいるのか、殺されたカオリさん=ひめのはどこで轢かれたのか、考えに耽(ふけ)っていた。答の出ない考えごとをしていると、ふと名案じみたものが思い浮かぶ。これ妙なハナシだよな。

 午後3時過ぎ。早く伝えたい。

 思いついた、自分なりの名案を、ヤツにもちかけようと衝動が昂じていると、自分で気付いた。居てもたっても居られない気持ちで、坂本に連絡をした。

【ミッション】


 電話を鳴らした。ことのほか早く出た。今日は一発目。
 「坂本さん?アンタんことだから、予定時間通りに来ないだろ?前みたくスロ打ってんじゃねえかって。5時な」

 「分かってんよ、このガキ」。今日は妙に意気込んでいる。多分自分のなかで気持ちと熱が上昇したのかもしれない。

 本当に早くきた。午後4時。坂本は時間にルーズなのに驚いた。

 右翼団体のメンバーがいるもんだから、示しをつけようと意気込んでいたワケか。筋モンは思いもよらぬところで礼節を重んじるから、接触する面白みがあんだよな。



 昨晩集合した喫茶店に右翼団体の連中、三人が――まるで戦時中の兵士のような揃った歩調で――こちらにやって来た。



 「こちらが名刺です!中山様!」と右翼くんA。本当に礼儀正しい。坂本とは大違いなんだよな。少しぁ学べよな、坂本もよ。その場を取り仕切るかのように、坂本も「おいA・B・C!言われなくても分かってんよな?」と念押し。

 押す念なんてないし、その矛先は自分だっつうのによ。優劣が見て取れるように分かる場面だと、見せ場をつくろうとすんのが、この手の職業の人間の性(さが)なのかもな。



 「いや、名刺とか堅苦しいのはいいから。早く座ってくんねえかな?早く進めたいんだ」とオレが言うと、「中山さんがそう言われている。従えよ、お前ら」と坂本。

 コイツ・・・見せ場がありゃぁ、自分の存在感を増すよう、場数で学んでいるんだろう。アホかと思いきや案外そうでもなかったりする、コイツの抜け目のなさ、というかギャップは面白い。


 「んでさ、もう計画は練れてんから。坂本さん右翼の三人さんよ」と、あくまで主導権は自分にあると、この場での優位性の均衡はしっかり保ちたいけれどな。

 さて、本題に切り込むか。


 「今から言うことをしっかり聞けよ、坂本に右翼の兄ちゃんたち」と、右翼A・B・Cをけん制するようにも、強気に話を切り出した。右翼トリオはどこか、困惑している様子。目が泳いでいる。

 それもそうかもしれない。

 坂本っていう力と優位な権力のあるヤツに対して、畳み掛けるこの人は「何モン?」と抱えている疑問。それを顔に出しているように映る。クエスチョンマークみたく、曲がっている表情だ。

 「右翼の兄ちゃんたち。言い方は悪いけれど、オタクらがしっかり動いてくんねえと、作戦は失敗しちまうからな。重いぜ、責任は」
 右翼Aが唾を飲んで、緊張しながら耳を傾けようと構えている。
 「はい!坂本さんがご紹介なさった方の言うことに寸分の狂いはないハズです!」
 「違えって。狂う確率もあるから忠実に動いてほしいだけ」と返すと、CがAを小突いた。Aの耳元に小声で囁いている。何を話しているんだろうか。
 続けて「明日はな、街宣車で長野が身の危険を感じるよう動いてもらえるかな?威圧だよ。長野の話は聞いてんか?」と訊くと、
「オイ、中山よう。そこまで話せって俺に言ってないだろう?ここでお前が説明すんのがスジじゃねえか?」と、坂本。

 違う。

 坂本はやはり抜けている。一刻をも争う話なのに、先読みできない。期待はしていないから「相変わらずだな」ってところ。が、坂本に「先読みしとけ」と言うタイミングじゃない。――ここで言い争うような、展開は寒すぎる。

 今日含め2日間のガマンだ。イラ立ちと諦めの混じったため息を吐いた。 

 「長野。ナニモンかって?政治家。野党の有名議員だよ。依頼があったんだよ。失踪した娘を捜してくれってな。んで、こっからがちょっとややこしいんだ。深くは知らなくていい」と、説明するとBがメモを取り始めた。
 「捨てろ、記録に残すな」と突き放すように言った。 坂本をはじめ、右翼トリオは、吸収できているようにも、できていないようにみえた。

 <坂本。ある程度、先手打って話しておけよ>

 そう噛みつきたくなる感情を押し殺した。三上から長野を明日には事務所に連れてこいと命令されたこと、すでにカオリさん=ひめのが殺されたこと。この肝要な点を、猿でものみこめるように話した。ただ、殺害に三上が噛んでいることだけは、坂本の体裁に配慮して、伏せてやった。

 坂本はアホだ。トリオも同じか、それ以下にみえる。低い理解力で必死に聞き入っているもよう。追いついてないんだろうけれどな。

 「娘さんはどこに!」とトリオのC。

 さっき殺されたって言ったばかりなのに。殺したのは憎堂一家の組員か組員の言いなりのパシリ。それくらいは坂本も知っているハズ。決まりが悪そうな、穴があったら入りたがりそうな表情を浮かべていたのは、坂本。

 今はそのことを追及するつもりはない。坂本は知ってはいるけれど直接の関与はしていない。そんな間抜けなヤツにハナから情報を聞き出せるなんて期待しちゃいない。

 「とにかく動いてくんねえか?時間の問題なんだよ。早く正確にな。明日は頼むぞ」と言うやいなや、右翼トリオは席を立って、お辞儀をしはじめた。やらかそうモンなら一巻の終わり。が、それを言ったら余計混乱すんだろうな、右翼トリオは。

 ――ポーズは要らねえ。その代わり明日、忠実に動いてくんねえか?と、本音が喉から出そうになったが、ここは抑えた。
 「何時にどこってのは、今日の夜中くらいに判るかもしんねえ。待っててくれるか?」と投げかけると、トリオが同じタイミングで、同じ声量で「押忍!」
 「力みすぎ。実行時に勢いよく頼むな。坂本さん、右翼くんにはもう帰ってもらっていいや。その代わりオレの言うことをこなすようちゃんと『指導』を頼むな」と言った矢先に、オレの目線は坂本に向けられた。
 「オイ!A・B・C!必ず『俺』の指示に従えよ。もう帰れ」と、偉そうに、角刈りトリオに坂本は言い放った。

 店内は深夜の緊張した盛り上がりとは違う、「緩い」繁盛ぶりだ。

 この街の裏を知っている人たちが、緊張感から解放されて安心している様子。夜から明け方にかけて漂う、街のピリついた雰囲気。その中間で休めているような空気感。

 ここには街特有の空気が、そのまま流れ込む。街と同化した喫茶店なんだ。落ち着きと笑い声が店内に響く。こちらは緊迫した糸の上で話しているんだけど。温度差を感じるよ。

 「中山ぁ。お前はウチの舎弟に偉そうなツラして何してくれるんだよ」

 堪忍袋が切れた。「なあ、そもそもだぞ。オタクん組が長野の娘を殺す依頼を引き受けてたんだろ?シラ切り通すなよ。そこにフタしてやった。アンタのメンツを守ってやったんだ。感謝じゃねえのか?ここは」。さきの心構えはどこへ。怒りに近い感情を抑え切るのが難しかった。
 「ん、まあその件は・・・」

 「詰める気なんかねぇよ。それより早く長野をさらうぞ」
 坂本はコーヒーを飲み干していた。
 疲労感が表にでている。コイツはコイツなりに必死なんだろうな。メンツ。体裁。啖呵。バカはバカなりにどう動くか、足りない頭で考えてんのかもしれねえな。

 「いいか、よく聞け。しっかり押さえとけよ」と、ここでもオレは強気に出た。「次は的外れなこと言うなよ」と、圧力をかけた。

 まず三上の依頼が坂本にはこなかった――つまるところ見切りをつけられてんだ。役に立たないってコト。ドジったらオレに責任が転嫁されかねない。

 オレからすりゃ、三上の依頼なんて流れ弾みたいなもんなのによ。

 「まずオタクは売春宿を回してんだろう?そん中の女に長野の秘書に電話させろ。言っちゃえばお色気作戦だ。で、居場所を突き止める。その後、だ。秘書を車に詰め込んで長野の居場所を吐かせる。ここまで付いてきてっか?」

 渋そうな面持ちでうなずいていた。多分あまり理解出来ていない。

 今日のうちに長野の秘書がどこにいるか掴む。次に秘書から長野の居場所を吐かせる。強引だ。何せ日数が足らない。ソッコーで動くしかない。手段を選ばずに、早く長野を三上んとこに連れてかなきゃいけない状況にあるってこと。

 その切迫感が坂本には伝わっていない。鈍いんだ。

 だからこそ今、豪速球のように、思い切りのいい勢いで、なおかつ、ずっしりとした球を投げて、しっかりと伝えないとダメなんだ。重いストレートの球だ、坂本に必要なのは。

 今、糸は切れかかっている。重圧が糸を弱くしている状態にある。切れたら、すべてが終わりになる。文字通り、オレをはじめ、坂本の人生もが終わるんだ。まあ坂本はどうでもいい気がしてきたけれど。

 「坂本さんよ、今日・明日はぶっ通しだからな。とにかく秘書を拉致るしかねえ。早く売春のハコの女を呼び出せ。20代くらいのヤツを3、5人」
 「呼んでどうす…」と言いかけた途端に、これ以上話してもムダと悟った。「いいから。急げ」

 坂本は舌打ちをした。訝しげな表情でハコの管理人に連絡した。「え?今休憩中?」--オレが5万円見せた。

 「とにかく来た娘には1万払うから」と、珍しく機敏に対応。
 「おう」とうなずき「大の至急なんだよな。え?難しい?」と困惑しながら言った矢先に、オレは携帯を奪った。
 「とにかく急ぎの話。坂本さんはちょっと抜けてっから。オレが坂本さんと同席している時点でわかんだろう?一緒に動かなきゃいけないってことくらいはよ。で、一人あたり1万はくれてやる。ウリで今、相手している女がいれば、すぐに切り上げるよう言え。よこしてほしいのは、20代の落ち着いていそうな娘。待てるのは1時間。以上、よろしく」と言い、相手が反応する余裕を与えず、即電話を切った。

 女がくるまでの1時間を坂本とどう埋めるか――。ここでエネルギーをすり減らすんなら、黙っているほうがマシだ。タバコに火をつけた。とにかくオレからは何もきりださないことにした。完全な沈黙。続け、と願っていた。

 ところが、だ。

 目からウロコ――坂本の目が涙ぐんでいる。どうした?コイツは。「なあ、中山。聞いてくれないか?面倒は起こさない。お願いします!」と、頭まで下げた。

 新手のクスリでぶっ壊れたか?と最初は疑った。が、その予想はすぐに覆った。続けて言う。「実はな、俺には17歳の娘がいんだよ。ハコの女が足りなきゃ、娘を売りに出せって組長は言うんでさ。恩義がある以上裏切れねえ。でも、娘は守りてえ。この思い、えっと…」
 「葛藤な」

 「そうそう、葛藤。それを抱えたままなんだ。中山にさっきはキレかかった、正直。『俺の娘と同世代の女を利用すんじゃねえ』ってな」

 返す言葉がない。

 1時間、コイツの話を聞いてやってもいい。そう気持ちが切り替わった。言っちゃえば、コイツも末端の駒の一人に過ぎない。理不尽とのせめぎ合いが渦を巻き、病むことがあっても不思議じゃない。

 泣きながら「この商売から足を洗うにゃ…」
 「酷だけど無理。抜けるなら日本のド田舎に隠れながら暮らすしかねえ。か、海外」
 「…」

 と、冷たくあしらったものの、長野を三上んとこに連れて行ったら、坂本が、どう安全に逃げられるか、考えてもいいんじゃないか。確かにトロい。それでも不器用ながらも、どうにかシノギの世界にいるんだ。

 店内--この雰囲気のままであってほしい。ここ数日はピリピリした、張り裂ける一歩手前の緊張感に、心も体も蝕まれていた。

 そして、今日・明日は、その緊張感が鋭利なナイフのように、容赦なく精神を斬りつけるとも覚悟しなきゃいけない――せめて今だけは、坂本の感傷に付き合っていいいかもしれない。

 どこか自分の中に人間味が戻ってきているのかもしれない、と安心すらした。

 コイツの苦悩を知っているヤツらはこの店内でオレ以外にいるのだろうか?いないに決まっている。いたとしても知らないフリを決め込むだけ。

 歌舞伎町って街にいる、ヤクザモンの一人に過ぎない。そんなヤツの心境は、看板みたく、表で目立たない。坂本自身も隠すのに必死なんだろうし。

 饒(じょう)舌が始まると踏んでいたタイミングで、女が七人やってきた。管理人は気を利かせた。「5人揃えろ」=「それ以上用意してこい」って命令されたのだと理解している。実践じゃあ、坂本よりアテになる。

 「おい、坂本さんよ来たぜ」

 「よし、お前ら!今から重大な仕事をしてもらうから、しっかり中山『さん』の話を聞けよ!」。さきの涙ぐんだ姿はすっかり消え、益荒男な「坂本」を演じていた。調子が狂うんだよな。悪いヤツじゃないのは分かるんだけどさ。

 まずは一人選ぶ。ここが始発。一番清楚そうで、丁寧語も使えそうなのがいい。7人とも似たり寄ったりだが、1人だけ浮いた雰囲気の娘がいた。

 残り6人には「来て早々すまない、適役じゃなさそうだから…そこの娘以外、元んトコに戻ってくんねえか?」と言い、6万円を渡した。管理人も足元見てやがんな。

 その娘に伝えた内容――坂本の秘書にカオリさん=ひめのと仲が良かった、突然消えたから今どこにいるのか知りたい、カオリさん=ひめのから長野が議員で「秘書はイケメンでいい人」と聞いていた、可能なら会いたい、今夜が都合がいい。

 この五つを話すように指示。で、話に重みを持たせるために、カオリさん=ひめのに「害」が及ばないよう、守ってきたと、さりげなく補足するように指示。

 上手くいく確率が100パーとは言えない。この娘がどう振る舞うかで、50パーが75パーに化けるかもしれないだけ。――淡々と、清楚ちゃんは答えた。「分かりました。番号は?」

 秘書の番号を伝え今すぐかけるようにやや命令に近い口調で言った。それでも怖気づくことなく「はい」とだけ。期待できそう。いい予感が当たりそうで、気持ちが少し、5ミリていど浮遊した。

 静かな外で話すほうがいいとも思えるが「うるさい」環境にカオリさん=ひめのは身を置いていた。ここで電話させるか。

 「スピーカーにしてもらえるかな?もちろんだけど、カオリさん=ひめのから電話番号は聞いているって設定ね」とオレが言うと、もうすでに切り替えていた。

 飲み込みが早い。

 この娘を相棒にしたいくらい。今、午後6時半。秘書は家族団らんの時間を過ごしているかもしれないし、そうじゃないかもしれない。「とにかく出ろ」。それだけ念じていた。

 1回目の電話には応じなかった。もう一回と目線で伝えた。相手は軽くうなずくだけ。

 秘書が電話に出た。

 まんまとエサに食いついたんだ、この魚は。「あのう…」と言ってからオレの期待を上回る、相手の情を揺さぶるような、話しぶりで距離を縮めていった。この娘は敏腕だ。こんな仕事は早く辞めたほうがいい。

 結果。今夜11時に秘書の指定した場所で落ち合うことになった。赤坂見附の駅から少し離れた、客があまりこないバー。

 その娘は電車で、目的地まで。オレたちは車で秘書を車ん中に詰め込む算段だ。

 「長引くかもしんない。それでもいいかな?」と訊くと、「はい」とドライに応えた。坂本は取り残されているように映った。早く動かないことには意味がない。

 清楚ちゃんは「客がいるんで」と、サラッと言い、ハコに戻った。恐らく海外のほうが、ウケはいいだろう――アジアンビューティと言ったらいいのか、他の娘とは異なる雰囲気を醸し出している。
「坂本さん、頼むよ。先回りしておこう、油断禁物」
 引き締まった表情の坂本。いい感じ。その冷静さと勢いの間で、早く正確に進めんぞ、と心の中で、坂本を励ました。一刻も早く。この娘が自分の娘と、投影してもいい気にならないだろう?チャチャっと終わらせようぜ、坂本。と心の中でつぶやいた後、
「車、持ってきてくれないか?」と声をかけた。
 燃えるような眼ざしをこちらに向け、声を出さずに首を縦に振った。

 正念場の幕開けだ。

 役者は揃っている。坂本は「失敗したら後がない」と、焦燥感を滲ませている。同時にこれまでの強張った表情から、緩いそれを浮かべていた。

 車を喫茶店前に停めるまでの間、オレは一人店外で待っていた。何をしているのかわからないが、思いのほか待ち時間が長かった。オレは喫茶店の入り口の右横に目をやった。なんの変哲もない日常――欲を売り欲を買う人たちが行き焦っている。


【捨てた過去を拾う】


 「アンタって地元を捨てて歌舞伎町で堂々とワケ分かんない商売して、報酬を受け取って。なんなの?ハタから見ていてすんごく下らないのよね、反社会勢力のパシリやったり。そのくせに自分を強く『見せる』。笑うんだけど、本当にダサい」

 大体、30〜32歳くらいの女。「誰だ?」と訊こうとしたところ、
「やっぱりウワサ通りね。そのハッタリ」と言い残し、去って行った。身長162cmくらい。体型は、ぼっちゃりとまでいかない程度の肉づき――男性ウケのいい体質だ。

 背中の随が震えた。何者なのか、そしてなぜいまここにいるのか、目的はなにか――困惑しかない。恐らく10〜15分ほど待っていた。その女と話したのは、おそらく1分。たったの1分が長く感じられた。

 時間軸がオレの意識のなかで乱れている、いや、壊れかけている…との焦りから、気味の悪い、汗が頬に滲んだ。
 部分的にネオンで光るようにカスタマイズしてある、黒のアルフォード。「いかにも」な外観。坂本はこのヤクザの世界への憧れが強くあるのだろう。

 任侠の道。仁義。陰徳。そうした、表の面しか見られなかったタイプなのかもしれない。ところが、いざ組員になると、想像と現実の違いで精神的に参ってしまいかねない。そう思える。かといって、セカンドキャリアもない。マヌケなわりに大変な毎日を送っているのだろう。

 オレには、娘や家族といった【責任】がない。その圧が分からないんだ。想像しても、それを口に出すと、イザコザの原因になりかねない。

 早くカタギになれ、坂本。

 「おい、中山。早く乗れよ。急かしてんのお前だろう?」と言われオレは目を醒ました。
 「悪いな。待たせ過ぎだ、そっちもよ」と、強気に出たものの「その女」との会話と衝撃が骨の髄に電撃を走らせている。動揺しているんだ、オレは。
 「さっきの話、暗かったか?娘のさ」
 「続けてくれ。気になるからよ」というと、いったん黙った坂本は娘のこと、妻のこと家庭のことを話した。多分終わりがない。
           *** 


 「で、聞いてんの?」と言われた時に、オレは自分がどこにいるのか気がついた――清楚ちゃんと秘書の待ち合わせの駅のコインパーキング。


 もう夜10時半。



 どうやら寝ていたらしい。疲労なのか?それもあるかもしれないが、これからが勝負時。これまでの経験で初めてのことだった。

 <元妻には教えていないことを「その女」は知っている――オレが地元を捨てたこと。ましてやオレの思考のクセや性格までわかっていやがった。ここまでオレのことを知っているのは「アイツ」しかいないのに…>

 「オイ、本当にヘンだぞ。人の話は聞かねえし。んで、どっちがバーに押し入るよ?」
 「オレ。店沿いの道路に車を停めておけ」

 「おうよ!」と坂本。気合いの入り具合が今回は段違いだ。
 「清楚ちゃんには11時になったタイミングで『遅れる』って連絡するようつたえてあんよな?」
 「もちろん!」と返ってきた。デコに向いてんな。もしくは自衛隊員。

 清楚ちゃんの顔を見られ覚えられたら、後あと厄介なことになりかねない。つまり、メッセージだけで会う約束をさせ、相手をコーフンさせる「ムラムラ作戦」。



 「じゃ、オレはバーの方向かうからな」と言い、車を降りた。
 バーまで徒歩10分程度。あえて遠くに置くんだ、待つ時は。じゃないと怪しまれる。歩きながら「その女」のことが浮かびそうになった。



 が、こっから先は一切のミスも許されない。一気に頭の切り替えをし、回転数を最上まで回した。長野の秘書らしき男が挙動不審な動きを。徐々に。徐々に近づいてくる。秘書は鼻の下を伸ばしている。

 そんな余裕、すぐなくなるのにな。
 秘書がバーに入ろうとした瞬間、左横から、
「今日来るハズの娘、来ませんから。『想定外』でしょ?」と言い、スーツのジャケットをナイフで少しだけえぐった。

 逃げられない、ってコト。

 ハザードを回している坂本のアルファード、略して、サカファードに誘導。案外おとなしい。抵抗しなかった。
「じゃ、長旅行こうか、兄ちゃん!」と坂本。トラックの運ちゃんだ、次は。

 ナイフの先端をロリコン秘書の脇腹に、少しだけ--ほんの1ミリ程度、その存在が伝わるところまで刺している。血は出ない。が、ビビって硬直している秘書――。自分の足でサカファードまで歩かせ、後部座席を坂本が開けた。子煩悩ヤクザが鬼の形相に。


 秘書に向けられているのは、小型のハンドガン。手の甲の中に収まるサイズ。大きくないからこそ、余計にリアリティがあって、恐ろしい。

 植え付けるだけなんだ。恐怖で従順になった秘書は何も言い返さない、いや、言い返せない状況。身体が震えている。オレも共に後部座席へ。

 今は恐怖のどん底に落としこむだけなんだ。


 こんな地獄みたいな思いは、二度としたくない。--とにかく恐ろしさを徹底的に味わってもらう。
 「お楽しみの予定が『狂って』申し訳ないね。急ぎでさ。騙してくれたようで、なあ?」とオレは、詰め寄った。
 ナイフを座席の床に捨て、代わりに、坂本が寄越した注射器をすぐさま、突いた。スーツの上から。勢いよく。見えない静脈を目がけて。と、同時にサカファードが走り始めた。モルヒネだ、打ち込んだのは。
 「あーーーーーーーーー!!!!」と、大声。


 まあ、仕方がないか。

 誰だって無理矢理、車内に連れ込まれたら大声を上げてもおかしくない。想定済。

 場数の違う、坂本は音楽を爆音で流していた。恐怖のドン底にある秘書なんか、お構いなしに涼しい表情だ。

初めてかもしれない。コイツに「やるな」と思えたのは。

 流した音楽--。

 選んだのは、The Jimi Hendrix Experienceの"Purple Haze"。坂本はいかにも、な風体でありながらも、曲のセンスがいいと思えた。

 なんなんだこのギャップは。

 

"Purple Haze All around 
Don't know if I'm coming up or down
Am I happy or in misery?
Whatever  it is, that girl put a spell on me
Help me Help Me"

 「紫の煙が立ち込める
いい風が吹いているか 悪い風が吹いているのか
分かりゃしない
幸せなのか? みじめなのか?
どっちでもいいさ あの女は俺に魔法をかけやがった
助けてくれよ! 助けてくれって!」

 --「あの女が魔法をかけやがった」。

 喫茶店の出入り口で声をかけた女を思い出した。そういえば「その女」は一体全体、何者なのか。オレを知っているってレベルじゃない。内心までをも見抜かれたのは、ジュンちゃん以外にいない。



 何かが始まるとでもいうのか?なんて、曲を聴きながらゾッとする思いでいた。注意を後ろに向ける。

 効きが早いのか、秘書はすっかり上機嫌な様子。「あの娘の、、、こえっていったらいぃいのら、か、は、ほんとぅぇひに…カワウィ…ぃうん…」と、多幸感で滑舌が回っていない。

 「あの娘の声って言ったらいいのかな。本当にかわいい」。続けて「ドライブ、サイッコゥエー!」ときた。
 何日ぶりだろう、大声でオレが笑ったのは。
 秘書がバグっている。おそらく普段は長野に忠実。いわゆる「イエスマン」なのだろう。ところが、だ。今となっては饒舌な中年ジジイだ。
 大笑いしているオレを見、坂本が言った。


 「ホラ、束の間の息抜きにな。すぐ抜けるから」
 「紙か?」 と、訊いても坂本は笑っている。
 「まあ、たまにだな」と内心ではウキウキしているのに、坂本には高揚感を見せないよう努めた。


 「中山ぁ。西新宿行くぞ。道路沿いのあのカラオケでいいか?ロリコン秘書を詰めるのは。ご用達だから、気を利かせて後ろから、秘書を入れさせてくれるさ」

 「よしそこにしようぜ…」と言った瞬間、聴こえてくる音に、音符がついているように見えた。

 音符が1、2、3と増えてゆく…いくつあるのだろう。無限だ。オレは見ている、音符と文明の力を。窓に目をやると、移りゆくネオンのライトが手を招くかのように、こちらへ誘っている。



 ネオンは生きている。無機質な物質は生物以上に、善良な魂を持っている。その魂と交信している。異次元との交流をしているのだ。

 文明は次の次元へと進んでゆく。いち早く追いつけるのはオレだ…と、紙を喰って少しした段で、回ってきた。と、酔っていたら原田宗典の『メメント・モリ』でネタ喰って、未知の発見・発明をしたといったことを言い始めたら、結構ヤバい証拠と書かれていたのを思い出した。

 --正気に、と言い聞かせた。

 坂本は回っている。結構きたのか、ブツブツ何かを囁いている。それすらギャグに思えた。ギャグなんだ、世の中はよ。



 イザコザなんて面倒。

 なくして皆で仲良くしようぜ!なんて、心が躍っていた。が、さきの原田の言葉を思い出し、正気の自分に戻ろうと努めた。おかげで、目的地に着いたら、すっかり醒めていた。

 それまではひたすら笑いこけていた、記憶しかないのたが。坂本がカラオケ店の店主と、ひと、ふた言話していた。

 「入れろってよ。秘書は後ろから。中山、頼むぞ」

 「オッケー、うまくやるから」
と阿吽(あうん)のやりとりで、オレは薄暗いカラオケ店に向かって、モルヒネが抜けて口が軽そうな、秘書を連れ込んだ。


 部屋番号は”17”。


 ヨレてる場合じゃねえな。頬を両手で叩いた。
 「お〜い中山。一曲くらい歌おうぜ」と振り切れたような、坂本。なんなんだろう。最初は嫌悪していた。組むのがイヤで仕方がなかった。だが、今は親近感を抱いている。――娘の姿、コイツの過去。人間らしさが伝わると、情が湧いてくるのかもしれない。



 一方、秘書はどうでもいいんだ。コイツなんてポンコツな長野の歯車に他ならない。興味なし。

 カラオケでアイドルユニットの曲を熱唱する、坂本の姿は、童心に満ち溢れていた。まただ。今度は気持ちの悪いギャップだけど。
 「いやあ、このアイドルにこの曲はアイドルは娘が大好きでさ。俺も一度は熱唱したと思ったのよ。家族のいるところで歌ったら引かれるだろう?」
  
 「オレでさえ十分引いてるって」と、挟んだものの無視。

 「あ〜あ、いい汗かいちゃった」

 「坂本さんよ、まあまあイタいぜ?」

 「かもな。それ以上に痛い思いをするのは、アイツだけどな」と不気味な笑み浮かべながら言って“17”のソファに、仰向けで横たわっている、秘書にビンタをした。

 まだなんか言っている。

 「なぎゃにのしゃんはぇひでゅいでちゅすよ」-ー「長野さんは人遣いがひどいですよ」。意外だな。外ヅラがいいタイプか。

 見ている分には楽しい。だが話が成り立たないほど壊れちゃマズい。目を醒まさせるか。

大声で「オイ!!!!!」とオレが言うやいなや秘書は、恐れおののき青ざめた表情をこちらに見せる。続けて、「で、どこなの?」

 「ぃいえみゃ…」と逃げに回ったと思えた瞬間、鳩尾に1発入れた。オレのいるところから、大体1メートル。勢いさえあれば十分。
 「で?」
 「す」



 なんだよ。

 「言えます」か。
 坂本は「暑い」と言い、Tシャツを脱いだ。刺青だらけ。威圧すんのか、その姿を秘書に見せつけていた。今回は「ミスマッチ」していない。こういった武闘派な面に憧れて極道の道を選んだのだろう。

 坂本に任せてもいい気がしてきた。


 「坂本さん、分かるっしょ?段取りは」

 「もちろんだぜぃ!」と、意気込みと凄みが尋常じゃない。
 オレは疲労感に打ちひしがれた。どっとやってきた。眠気にも襲われた。今のうちにドサクサに紛れて錠剤のメタンフェタミンでも喰うか、と手を伸ばしかけた矢先に、「江東キュのきょう援会…のきゃいじょうに居ます」とすぐさま吐いた。
 「江東区の後援会会場だな?」と一押し。
 秘書は驚いた表情でうなずいた。

 今は夜中の1時。念には念を入れた。

 「じゃあ、ロリコン秘書くんは後援会んとこまで同行ね。もちろん逃げるなんて無理だけど、逃げようもんならよ、坂本さんに預けた保険証やらなんやらすべて持ってかれんぜ?想像してみ?オメエの携帯に『清楚ちゃん』と落ち合う予定のやりとりが残された携帯電話のトーク履歴が週刊誌やらにバラまかれたらどうなんか」と、夢から目を醒ます「魔法」の言葉をかけた。

 オモチャみたいなもんだ、コイツぁ。

 われに返ったのか、顔が引きつっている。独身だ。育ちは良さそう。
 「で、明日は何時に長野は会場に来るんだ?」と坂本。


「9、9じゅでしゅ!」と恐怖に染まった、なんとも情けない声で応じた。

 坂本は即座に右翼トリオに電話。朝の9時半に街宣をしろと、伝えていた。電話越しに3人の揃った「押忍!」との返事が聞こえた。

 右翼をどう使うか――。まず右翼トリオが街宣車から長野に乗り込もうとする。次に秘書が長野に逃げるよう案内。それで、坂本の車に詰め込む。そのまま三上んところまで運ぶ予定。

 にしても、時間が余る。

 ここは坂本と相談して、交代で車中泊をすることにした。明日に備えて、寝ておくのも仕事だ。坂本も疲労を隠しきれていない様子だった。「坂本さん、先に行きなよ」と言い、サカフォードで4時間ほど寝るように伝えた。


 で、そのあとはオレ。

 もう秘書は半分寝ている。4時間後には目が醒めるんだろう。何があったか、頭の中が混乱するだろう。そん時には、坂本がゴリゴリに詰めているんだろうけれど。


 オレは携帯電話を取り出してKindleに入れてある村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』の続きを読み進めた。

 兄弟が別々の道に歩む。――オレはまだ、血のつながりのない、兄弟のような親友、ジュンちゃんのことが気になっている自分がいた。

 別の道を歩いたんだ。

 ややあって、「その女」が再び浮かんできた。
 --何もんなんだアイツは。

 ジュンちゃんとは、かれこれ10年以上前に仲違いした。血のつながっていない、兄弟のような親友だ。いや、正確には「だった」んだ。

 「その女」はジュンちゃんをなぜか知っている。歌舞伎町に来てからというもの、誰にも口にしていないのに。

 頭のなかでさきの「その女」の正体、違和感を払拭しようと精いっぱいだった。奇妙な得体のしれない、恐ろしさを抱いていた。
 情に流されず、持っていかれないように今は目前のこと切り替えようと努めた。


 私情を煎じつめて考えてゆくと、終わりが見えない。

 右翼トリオを丸め込み、坂本と協力してロリコン秘書を使う。長野を車に押しこむ――よくよく思えばそれなりにハードな一日。これからが正念場だけれども。憎堂一家の組長、三上んとこに長野を渡さないことには、ミッションクリアとは言えない。

 『コインロッカー・ベイビーズ』も読み進んだところだ。ダチュラってやつを撒いて日本を終わらせようと企んでいる段で、ロリコン秘書が目を醒ました。

 「なぜここに?」といった表情。疑問符のように顔を円形に動かし、「あのう」と訊いてきた。
 ピリピリしていたオレは「置かれた状況に馴染めよ」と冷たく流した。
  
 「とはいえ、なぜ」

 「必要だからさらったの」

 <さらった>との言葉に過敏に反応している様子。

 「さらって…なにをするのでしょう?」

 「長野を後援会会場から連れ出して、憎堂一家の坂本の車に乗っけろ。アンタの専属議員さんよぉ、オレを騙してくれたな。カオリさんを殺すよう指示したよな、憎堂一家に。おめぇが知らねぇわけねえだろう?」と、ていねいに説明した。

 「確かに…」と苦し紛れに言いわけをしようとしているのが見え見え。

 怒りの限界。思い切り腹部を前蹴りした。もしかしたら肋骨くらいは、折れているかもしれない。顔面が腫れていない限りは問題なし。「ううう…」と嗚咽をあげていた。

 騙されたんだ、オレは。

 長野とこのロリコン秘書に。抑えようがなかった。同時に制御するのも大事。やりすぎると、朝にはポンコツヤロウになっちまう。要は駒としてどこまで使うか、その価値さえ押さえればいい。

 「長野の今回の件。知っているかぎりのこと全部話せ」

  嘔吐。
 「ト、トイレ…」と言って「吐きそうです」

 「無理。逃げるから」。そう言った矢先に吐いた。ゲロ部屋か。それも具合悪い。店員にゲロを清掃するよう伝えた。知らない顔をして、ゲロを掃除してくれた。

 50歳代のおばさんの店員は気まずそうな顔で部屋を去った。

 「早く」

 「な、なんでしょう?」

 「起き上がれ」

 「はい…」と、もう無気力な状態。

 「だから話せよ」


 ――長野は憎堂一家に娘の殺害を依頼したよう。なぜなのかは知る由がないとのこと。で、ここからが核心。



 殺せばいいだけの娘の捜索依頼をオレにした理由――ここが紐解けない。秘書に訊いても「ん〜と…」と、詰まっている。これは本当に見当がつかないんだろう。長野本人に訊けばいいのかもしれない。

 「分かった。おおまかなことは」と、簡単に返した。今、答のジグソーパズルをつくりあげる気分にもなれない。とにかく、眠りたい。
 部屋を出ることにした。シフト交代。余念は欠かせない。秘書が逃げないように、ソイツを連れて坂本のアルファードまで進んだ。

 深夜、というか、明け方。どちらとも取れる時間帯のあいまいさ。妙な気持ちになる。--どっちなのか、明け方よりの夜、真夜中の朝。空の暗い曇り空がオレたちの行く末と坂本の車を、暗く照らしていた。いっそう暗く。

 坂本は熟睡していた。

 「ゆうちゃん、次はテストで九十五点取ろうね。そうしたら…」といっていた。夢のなかでなら、<ゆうちゃん>と話を出来るのだろう。現実では?思春期の女の子だ。反撥してキモいと言われるか、会えない。そんなもんだ。
 坂本にもヤクザでありながら、いち父親だ。本当は一般家庭のように、父として接したい。一般家庭のように。ところが就いている仕事が仕事だ。

 ――「パパのお仕事な〜に〜?」なんて学校の先生は、訊かないよう事前に言われているんだろう。


 そんな娘想いの坂本の姿を見、クスッとしてしまった。ボロ雑巾のようになった、秘書も引き連れて窓のところへ行き、「交代、よろしく。ゆうちゃんよりかわいくは…」
 「ないに決まってんだろう、この秘書は。ふざけんなよ」と怒り心頭な様子。寝起きということもあってか、坂本にしては珍しく本気で起こりそうな勢いだった。
 「さあ、行くぞ!この<ピンク秘書>!」と、怒りを思い切りぶつけていた。その勢いで、“17”へ向かっていった坂本と秘書。
 駐車場でタバコに火を点け、空を見上げる。
 ありきたりな格好つけ方、気どり方だよな。自分で自分を見るレンズがあれば、間違いなくドン引きしている。空。雲の塊が動く。そのペースは早い。天候が崩れるかもしれない。雨天決行かもな…と、思いながらため息をついたところ「その女」は声をかけてきた。



 「何そのアルファード。死体でも積んであんの?」と言いながら嘲笑していた。
 「ったく。どうやって居場所を突き止めてんだよ。関係ねえだろうに」
  
 「へぇ。ジュンのことをいまだに気にしているクセにね。カイくん」


 一気に眠気が覚めた。



 ――さきに親友と言った、ジュンちゃんは今、坂本とオレとでこなしているようなら仕事をともにしていた相手。とはいえ小規模--。闇

 金の回収だったりヤクザのパシリだったり。ヤツは地元に残り、オレは地元を捨て、新宿に来た。

 <なぜジュンを知る女がここへ?>と疑問に思ったが、よくよく考えたらなんらおかしくない。多くの数が表ざたにできない、汚い仕事をこなしてきた。

 その事件の数だけ依頼人がいる。依頼人の後ろにも人がいる――ジュンちゃんとどんな関係にあろうと、「その女」が、オレと接触する可能性は十二分にあるわけだ。


 「アンタはジュンちゃんのなにモンなんだよ?」

 「さあ。なんだっていいでしょう?わたしが何モンか?言わなくてもいいでしょう。『あの出来ごとと関係ない』ようだし」と皮肉を交えながら、車のラジオを付けて、早く」と、ずい分と上からなもの言いだった。右側に指には、フィルターの先の部分の近くで燃えてゆくタパコが。気だるそうな態度で従った。オレは車内に入った。「その女」は車のすぐ外で、何かを楽しげに待っているような表情。月の光に照らされる、不気味な笑み。



 妙な胸騒ぎがした。

 アナウンサーの音声が聞こえる。

 「内閣支持率が過去に例をみないほど…」と、早送りのように言い、続けて「速報です。昨日発生した、長野議員の娘(17)の容疑者が判明…」と言い進めたところで、残暑の悪寒に全身が侵された。「今井氏からは基準をはかに超えるアルコールが検出され…」――「実業家で知られる、今井氏は認否を明らかにしていません」とアナウンサーは言った。



 今井は長野をオレに紹介した張本人。

 1代で日本国内の時価総額トップ30位に入る会社を興し、成長軌道に乗せた。ある日、ポンジスキームに引っかかった――高配当をうたい出資者をサギ師が募る。その額はウソに信憑性をもたせればもたせるほど上がる。

 で、大体は元金すら消える。記憶が正確なら、今井は2000万円ほど引っ張られた。元金の1000万円は手元に戻したが。オレの元顧客ってこと。

 「なんで今井を知ってんだよ?」と車の窓を開けた。

 「ギャグなんだもん、なにも見えていなくて」と嘲笑い「ジュンを裏切ったアンタに。わたしはナツミ。今日はジュンのいびきがうるさくて眠れないのね。そうしたら、バッタリ。そんなとこ」と言い残し、その場を去っていった。

 追う立場でありながら、追われる立場でもあるのだ、オレは。
 今は両方の間に、複雑な糸が絡み合っている。紐をほどくには時間がかかる。時間が経過してから、答え合わせをすればいい。

 シンプルなんだ。
 感情が複雑にしているだけだ。

 取り乱さず、冷静でいること――。 車内で自分に言い聞かせていた。不安要素がここにきて、噴出したんだ。悪いタイミングで出てきた不安感を、制御するのも仕事だ。
 同じ考えが脳内でループする。


 自分に何度も問いかけている。「しなきゃいけない」と「してはいけない」が拮抗(きっこう)している。

 だめだ。



 今は押し殺すしかない。とにかく「演じる」んだ。倫理観で割り切れるたぐいの事件、出来ごとではない。道理やら道徳の物差しはこの業界じゃ通用しない。



 緊張の針が身体中を突き刺す。容赦なく。

 今井による、カオリさん殺害――坂本と秘書にも問い詰めたい気持ちが昂ってきた。車のドアを開けようとした途端、ムダだと気がついたが。
 ここでブレーキ。

 釈然と「しないまま」のほうがいいことも中にはある――知ったがゆえに、精神に異常をきたしたり、人間不信になったり、逆に信用されなくなったり。疑問符を残しておくのが無難な時もあるんだ。 

 裏で糸を引いているのは憎堂一家の組長、三上なハズ。坂本・秘書以外にもヒントを知っているヤツはいるだろう。場合によっては、長野か三上本人の口から話すかもしれない。

 先行きがどうなるか、どんな経緯(いきさつ)だったのか――。
 考えれば考えるほど、文字通り息苦しくなった。車の窓を開けた。外は朝。雨がすっかり上がり、さっきまで降っていた、雨を吸い込んだ砂利が独特の匂いを放っていた。

 乾燥しているが湿っている、湿っているが乾燥している。相対する二つの中間の匂い。 そろそろ長野のところに出向く時間だ。 

 坂本に電話をかけようと思ったものの、秘書と一緒に歩く坂本の姿が視界に入ってきた。妙に距離が近い。なにか深刻なことでも…と、頭によぎった。

 しかし真逆。

 距離が縮まっていたのだろうか、坂本が男道を秘書に説いていた。 
 

 「いいか、漢にはな、一大勝負があるんだよ。『勝てば官軍負ければ逆賊』ってヤツだ!」

 「はい。男になり…」

 「漢字の漢(かん)で『おとこ』って読む。教えたよな?道を極めるんだ、いいな!」と、坂本の分際で偉そうに、講釈を垂れている。

 笑ってしまいそうになったが、(坂本は根がいいヤツなんだろう。二人の会話を割って、「右翼トリオは?」と訊いた。「今街宣車でここにきている!」と坂本。
 黙って待った。 
 雨が上がったアスファルトと砂利から、朝露のようなものが滲み出ていた。切り替わっていく。晴れが雨に、雨が曇りになり、夜に…上っては沈む。
 その繰り返しだ。
 オレらも根本では変わらないんだろう。移ろいゆく時間の中で動き続けるんだ。
 街宣車は二台でやってきた。最初は疑問に思ったが、坂本には坂本なりの考えがあった。
 「まずよ。一台目は外でブンブン拡声器で騒ぎ散らかしてもらう。中にはAとB。で、二台目。これは何かあった時用。ほら、後援会事務所を車体で塞げれば有利だろう?」

 確かに、と坂本のプランに納得。その線でいこう。オレは付け加えた。

 「Cの兄ちゃんよ、先に後援会の会場に行ってくれねえか?音無しでバレないように頼む。あらかじめ様子見しておいてくれ。住所は?」

「存じております!」と返ってきた。朝から重い。気が参ってきた。
 「秘書。アンタは大役だからしくじんなよ。A・Bが街宣を回していて『近づいている。逃げて!』と長野に切迫感の詰まった声で言うんだ。設定は事務所に向かう途中。2人が到着する、5分前に。で、長野を非常口から逃げさせろ。お前ももちろん一緒」

 皮肉っぽく「ミスったらラジオでお前の名前が読み上げられるかもな」と、今井の事件報道をそれとなくほのめかした。 今井の件ばかりは二人とも黙り込んでいた。

 坂本も秘書も目を泳がせていた。その気まずい空気の漂う中、Cを呼び出し、到着10分前には街宣予告をすると上手く匂わせるように、と付け足した。Cからの予告と秘書の焦りで、テンパるはずだ。普通の右翼街宣には多少なり慣れているだろう。ここでは変化球勝負。

 話は簡潔に終わらせた。右翼トリオも呑み込んでいる様子。正念場なんだ、本当に。すぐ理解して、すぐ行動し、すぐ長野を確保するしかない。

 ――切羽詰まっている。目的地に近づけば近づくほど、切迫感が増してきた。もうすぐだ。まずはCにワン切り。街宣の予告しておけとの合図を飛ばした。

 Cは言われた通り、事務所に「10分後に街宣に行く」と後援会会館に電話をした。「『日本憂国保守隊』が今から、売国奴の長野を仕留める」と電話をしたそう。明らかな脅迫電話。

 電話応対した後援会員は「なにがなんだか」といった反応だったようだ。おかしくもない。街宣の音楽も流れていない。それに政治家への迷惑行為はたくさんあるだろう。本当だとしても、今さら感もある。

 とりわけ、このご時世だ。
日本は「東都戦争」で傷んだ。コンプレックスと不満から「国粋主義」が台頭していた。同時に反ナショナリズムな先鋭リベラルも勢いづいていた――中間のない日本。両極に分断された日本。

 この状況下で街宣車に萎縮するわけにもいかないのだ。とはいえ、今日の長野は強気な姿勢でいられないだろう――娘が轢き殺されたことを知らないわけはない。過敏になっているからこそ、よくある迷惑行為に対しての感度が上がる。

 Cは先に現地に。事務所から少し離れたところに停めてもらっている。A・Bとオレらが到着し次第、三台で建物を固める作戦。

 次は秘書が電話をかける番。――今日は遅刻してしまった体にしておくこと、どうやら右翼の街宣車が事務所に向かっている様子。危害を与える恐れが多大にあること――この三点を長野に直接、伝えさせた。真実味を持たせるために、右翼が流しそうな音楽を車内でかけていた。

 「長野さん!街宣車が迫っています!長野さんを売国奴と言い、『売国奴は狩るのみ』と!」
 こんなんで騙せるのか、半信半疑だったが。
 長野は、娘のスキャンダルや今井との関係も深掘りされる恐れも抱いて、いつも以上に、用心深くなっていたのだろう、秘書の言うことを信じていた。次の「獲物」が長野本人でもおかしくない。それっぽい状況は作られている――電話で「いかにも」と、思わせる。ここがキーだ。
 「私が着いたら、逃げ道を案内します!お一人で逃げるのは危険ですから!ガードももちろん!長野さんに『何か』があったらやりきれません!」と秘書は迫真の演技で、長野を焦らせていた。いや、本当に「やりきれない」のかもしれない。
 どちらにせよ、長野を憎堂一家の長、三上のとこに連れて行けばいいだけの話。
 目的が達成されれば、オレもこんな面倒ごとから解放される。
 今回の長野の依頼は、カオリさんの捜索だけ。見つけたら長野か秘書に渡すだけ。の、はずだった。

 フタを空けると憎堂一家にすでに依頼してある案件。オレの命までもが危険にさらされる可能性も、多分にあった。憎堂一家とのトラブルを折込済みで、異常な報酬を支払ったのだろう。あらかじめ知っていたら、額関係なしに断っていた。

 と、出口に停めたアルファードの助手席をリクライニングにして、横になりながら、思いめぐらせていた。待ち時間が長くなる可能性は少ないとみたが、退屈は退屈。そんな時は、考えごとをするのがクセなんだ。推測やら筋道なんかを追ったり、考えたりするようにしている。

 こうやって整理するのが習慣。

 うまく整理できずに精神に異常をきたした、同業のモンたちを何人も見てきた。裏の片隅にしかオレらの居場所はない。そこだけにとどまると、壊れてゆく。

 「坂本さん、そろそろ車から出たら?オレは秘書で体力使い果たしたから今回はよろしく」と言うと、坂本は無言でドアを開け外に。読み通り、長野と秘書は事前に決めていた出口からやってきた――坂本は長野に「そういうこと」と言った。何のことか、何の用なのか、勘づいていそうな長野は、くたびれた様子で従順にアルファードに乗ってきた。

 「ちょっと秘書と話がある」と坂本。特に言うこともないから首を縦に振った。窓を閉めている手前、内容は聞こえないが、秘書の肩を叩き励ましているようだった。
 ――ここでお別れってことか。
 話だけ追うと利用するだけ利用して、利用価値がなくなったら捨てるように思われるかもしれない。ドライだ。
 そうではなく、単純に加被害者とされる人間を増やしたくない。三上が指定したのは「長野」であって秘書ではない。「余計な誰か」がいると怒り狂う。
 坂本の優しさでもあるのだろう、もう巻き込まないようにしたのは。あいにく、秘書は3年後、議員になってすぐさまナイフで刺殺されたんだけど。
 一方のオレは、後部座席に抵抗する様子もなく大人しく座っている長野に向かって「最初っから言えよ、オイ!」と大声を張った。その一言に怯えてしまったのか、三上の事務所に向かう途中、ひと言も話さなかった。
 坂本が戻り、三上のところに行く段取りを整えていた。
 「途中でトリオと別の道を進むように伝えてある。あいつらは組長と関係ないから」

 「ああ。この三人だけでいい」と、オレは後部座席で、長野を拘束しながら「ただ、長野と少しだけ話がしたい。喫茶店に寄らせてくれないか?」
 

 「思ったより早く済んだもんな。俺は同席しないよ。そっちの話だろう?一応、長野が逃げないよう、喫茶店にCも一緒に行くよう伝える」。坂本は運転に集中。車内のミラーで目線をこちらに送ることなく、淡々と返した。

 ――オレが知りたいのは、なぜ長野が娘の殺害を、憎堂一家に依頼したのか。カオリさんの失踪についても。

 この二つだけ。

 オレは後部座席で長野の両腕を結束バンドで縛り、身動きが取れないようにしていた。坂本は、飛ばすわけでもなく、かといって、トロく走るわけでもない。



 こういう時に一番サムいのは、車から飛び降りるケース。そんなことが起きようもんなら、三上は逆上するに決まっている。

 「連れてきてって言ったハズ。死なせろなんてひと言も伝えてないわよ!」と、鬼の形相で迫るだろう。
 完全な沈黙。


 ――運転手の坂本は「話せない」、長野は「話さない」。それぞれがそれぞれの意思を固めたのか、ひと言も発することはなかった。
 何も会話のない、車内で過ごす時間はとても長く感じられた。饒舌な坂本が強張った表情をしているのを見、「ただごとではない」と悟った。

 流れをよくよく考えてみる。

 まず長野は憎堂一家にカオリさんの殺害依頼をした。計算どおりにいけばそのまま殺められたが失踪。で、消えた先はキメセクの「ハコ」。それも憎堂一家のシマだ。ここらへんで複雑になった。

 次の幕に進む。

 プッシャーの中島と憎堂一家の末端、伊藤が「ハコ」ビジネスで憎堂一家の許可なしにシノギを展開。そのシノギをホストの店長、北条が横取り。

 で、今――。カオリさんを殺した、敏腕経営者の今井が出てきた。組長の三上の許可なしに、カオリさんの捜索をオレに依頼してきた、長野に大怒りの三上。

 キメセクのハコで人気モノになれればコンカフェ店員になれる、いかにも、現代のヤクザ風なビジネスの罠。そこにカオリさんが自ら飛び込んでしまったのも妙だ。

 時系列で出来ごとの数かずを整理していた。
 整理し終えると、眠気に襲われた。しかしここはガマン。というか、横にいる長野を目にしたら、眠気が吹き飛んだ――「言えない」ことを多く、オレ以上に多く、知っている。この口からオレに直接吐かせてやる。
 こんな思いを秘書に抱くことは当然なかった。
 隣が秘書なら気も落ち着いたのかもしれない。利用価値があったから接触しぞんざいに扱った。ところが根は悪いヤツじゃない。どこか寂しくも思えた。
 とはいっても「その場」で使って、使い終えたらその場で去る――人間関係は儚(はかな)かったりする。情が移入する前に「捨てる」・「捨てられる」・「引く」のも生き残る道だ。

 だが、近寄ってくる人は多くいる。一時的な付き合いに過ぎないのだが。ナツミちゃんのように--。彼女は大親友だった、ジュンちゃんの何者なのか、考えれば考えるほど、ナゾに包まれていった。


 地元を捨て、友情をも捨てた、オレの精神を突いてくる。ジュンちゃんは言葉にしないだけで、ナツミちゃんの鋭利な言葉に表されるような感情を抱いていたのだろう。
 地元に戻るか、歌舞伎町に居続けるか--。

 突然頭によぎった。ナツミの存在が、オレの心を乱しているのは事実。
 究極の選択だ。もうオレが出来ることは、こうした事件解決だけなのかもしれない。地元に戻っても、居場所はないと、勝手に諦めていた。
 友情がふたたび結びつくことは難しいのかもしれない。そう断念すると、ため息が出た。
 静寂に包まれながらアルファードは新宿のほうに進んだ。南口の駅改札でクラクションを鳴らすとAとBの居る、街宣車は別のルートへ走り分かれた。Cの運転する街宣車はつかず離れずの距離で、歌舞伎町まで進みどこかに車を置きに行った。

 Cが車庫に街宣車を入れて、アルファードに乗るのだろう、アルファードは路上駐車をして来るのを待っていた。

 無言だ。

 ちょうど昼の12時になった。ことは早く済んだと思いたいものの、時間が長く感じられた。とりわけ車内では。たった3時間程だ。ただ、頭によぎったのは「これから」が長くなること。三上のことだ、何かしら要求してくるだろう。

 その相手はオレかもしれない。長野かもしれない。ロシアンルーレットみたいなモンだ。と、考えていた矢先にCがアルファードにやってきた。

 「じゃあ、坂本さん。区役所方面の『例の喫茶店』」まで頼むな」
 「ああ。離れたところに駐車しとくよ。俺は三上組長からあがってくる話に沿ってしか動けない。
 「一緒に、ってのは面倒だな」と、坂本はいつもの太い声ではなく、やや細くなった声調で応えた。やはり三上。あの男と会って話すとなると、誰しもが緊張する。

 Cが口を挟んだ。「私は組長の三上さんのところに…」とはつらつと言ったものの、坂本に軽く「行かなくていい」とあしらわれた。  

 「中山と長野が喫茶店から出てきたら、事務所に戻んな。ちょっと距離あるからタクシー代、ホラ」と坂本は言い、Cは「ウス!」と。

 Cはこの温度感に合っていない。

 緊張感を読み取れていないんだ。まあ、そういうヤツがいるくらいがちょうどいいのかもしれないが。少しは肩の荷が降りる。気楽だ。

後部座席の窓越しに見る外の天気は快晴。



 夏の湿度がなくなりつつあり、秋に移りゆく一歩手前と思えた。比喩的にも、陽の光を浴びずに仕事をするオレらにとっては、太陽がまぶしく映った。オレたちが吸収しているのは、夜の街の「光」、つまりネオンだ。



 きらびやかな夜の「光」の数だけ、誘惑がある。欲がある。悲しみも、絶望もある。



 一度入ったら抜け出せない迷路が、通りにいくつもある。こちらを呼んでいるような、経験のない錯覚を覚えるほど、ネオンの光は優しく映る。
 しかし、入り込んだが最後。


 アリ地獄から抜け出せない。

 その道を進んで人生が壊滅してしまった人たちは、目にするだけでたくさんいるのだから、知らないところではもっといるのだろう。コンクリートサバイバルを生き抜くには、建前に踊らされちゃいけねえ。

 喫茶店に着いた。

 こんな時間にも営業している。大体は飲みつぶれたホストや、スカウトマンがここで、女を店にあっ旋すんだよな。

 ヤクの売買もここで。ジャンキーたちは眠らない。貸しが取り立てをする場でもある。昼間のほうが案外目立ちにくいのだ。

 坂本は車を店の前に降ろした。

 「終わったら電話頼むな、中山」と窓ごしに坂本。


 うなずいて「30分で終わらせる」と返し、店内へと向かった。続けてCが長野を引きずり回すように連れ出し、店に運んだ。


 喫茶店の前--。アスファルトに血の跡が染み付いていた。

 現場検証なのか分からないが、警察が写真を撮っていた。その場に立ち尽くしながら怯える若者。悲しんで涙を流す者は、見る限りいなかった。
 野次馬が携帯電話で写真に収めている。ここで失われた命なんて、エンターテイメントの一つに過ぎないのかもしれない。

 この街で消えていった、ほんの一人の命。どこの馬の骨か分からない人に移入する情を、持ち合わせていないのが、現実だ。その光景を見、轢き殺されたカオリさんが思い浮かんだ。やりきれない気持ち。

 オレは彼女を救い出したものの、命までは救えなかった。
 無力さを感じながらも、長野に対する憎悪は増していった。

 例の喫茶店--。


 夕方〜夜とは異なる、独自の風が店内に吹く。日によって、吹く風は変わる。

 今日の風?
 昼間の穏やかな空気感に、不似合いな緊張感のある風が吹いている。見えない糸が張りめぐらされているようにもみえる。

 この仕事を続けていると培われるのが「カン」。伝わって来るんだ。カンで察知したってことさ。どんなカンなのか、いつカンが冴えるのか、その辺は説明できない。

 同時に、店内をピリつかせているのは自分では、と疑い始めた。神経質になっているのは事実。長野への怒りと三上の恐怖がオレをとらえてた。

 ふたたび、店内全体を見渡す。

 平日のわりには店内には人が多い。明らかに水商売をしている娘、明らかにホストな男、明らかにスカウトマンもいる--この街の夜の経済を回している人たちが、一箇所にまとまっている。

 あとは取り立てか貸し付けで少しガラの悪い風体の人がいる。「昼・表」でできない仕事に就くヤツらは1箇所に集まるのかもしれない。

 「辞められたらこっちの取り分なくなるよ、まだ在籍してくれよ〜」と男がキャバか泡嬢に言う。

 「出稼ぎって…急ですよ。断ります!」と泡嬢。

 「なんとか今月はNo.1になりたいんだ」とホスト。

 「ジャンプ何度目だ?保証人呼べよ」と取り立て。
 昼のうちに話し終えれば夜の動きが決まる。
 今は準備の時間だ。
 夜の経済--時に人を破滅に追い込む。破滅への手引きが得意なヤツらは、表で仕事をしない。目立たず影の中に潜んでいる。

【罠】


         ***


  オレは店主にCは見張り役できているから、30分ほど店内に立ち尽くすが、許してほしいとあらかじめ伝えた。
 店主はサラッと流した。
 こんなことはレアでなく、よくあることだから気にしないように、と内心では思っていたのだろう。



 Cには店内の入口のところで、長野を見張るよう伝えたところ、寡黙にうなずいた。珍しい。
 長野とオレとで席に着いた。

 後ろめたいことは何一つない、と強気な態度だ。

 オレは話の主導権を握らせるつもりはない。
 痛いところを突く--粗探しに努めることにした。
 「飲みものは?」と尋ねると、今は何も飲む気になれないとの返事。オレは目を覚ましたかった。アイスコーヒーを注文し、冴えた頭で質問しようと心がけた。



 ダラダラ回りくどく話せない。長野に直球で問いかけることにした。

 
 「なぜ話をしようともちかけたのか、理由はわかりますよね?」

 「カオリの殺害を依頼した理由。でしょう?」と開き直り気味な表情と声調で応えた。

 続けて「カオリは妻の不倫相手との間の娘ですので。公になろうものなら、私は来年の選挙で負けてしまいます」と話を進めていた。
 手を出さないよう、自分をコントロールするだけで精いっぱいだ。聞き出すためにガマンだ。今井のことも気になる。

 これから三上の事務所で長野は確実に詰められる。おそらく、その恐怖体験から、歌舞伎町に来ることは二度となくなるだろう。



 「そうなんですね」と軽く受け流し、こちらの言い分を。


 「憎堂一家が絡んでいる事案であれば断っていましたよ、それを隠すなんて。なにが目的だったんです?」

 「特になくて。本当に失踪したことに困ったからなんですよ。ただ、三上さんにはお見通し。どういうネットワークを使われたのか分かりませんが、中山さんへの『捜索』依頼は、すぐにバレました。それから、分が悪くなってしまった。秘書を動かしていた理由です」と、苦しまぎれな様子。

 三上にの話筋と、長野のそれとを突き合わせる。おそらく、次の展開。
 口を割ったのはホストモンだ。それがホストの運営主、北条に行き渡った。次に、売人の中島が「ハコ」に乗り込まれるかもしれない、と焦った。そこで相談したのが、憎堂一家の伊藤。

 ソイツには取り柄がない。ポイントアップのために密告したんだろう、きっと。

 と、自分で「答え探し」をしていた。考えが交錯するタイミングで、長野は開き直った。
 「反社会勢力への利益供与でしょう?どうせ。私が議員であるうちはよほど大きな事件ではないかぎり、辞めさせることはできませんよ。それに三上さんだって警察に調べられても、簡単に口を割れるのか」と言い放った後、余裕のある表情で微笑んだ。
 違う、司法は関係しない。裏のルールを長野は理解していない。

 「同情票っていうのもあります。身内の不幸があると、票が入りやすくなるのです」と、来年の衆院選挙を見据えた計画の一環で、思惑通り進んだかのように話す。

 限界だ。
 水を思い切りかけた。
 次に思い切り、胸ぐらを掴もうとしたが、店長が制した。「まあ全体を見て、ね」と言い、続けて「長野さんかよ。最後見た時は…」と途中で打ち切って、レジに戻った。「長野さんか」。

 意味深だ。あとで声をかけるか。周りの客も「あ、議員の長野!」と言わんばかりの反応をし始めた。分が悪いシチュエーション。さっさと店を出るか。

 と、こちらは身軽に出る構えでいた。
 ところが、これから三上のところでトコトン詰められることになる――。いざ現実に直面すると、長野の膝は震えていた。恐怖に毒されているようだった。さっきまでの自信はどこへいったのか。 
 急に顔が青ざめ、目から生気がなくなっていた。仕方がない、本当に恐ろしいのだから。
 「これから三上さんですね…途中で死んだほうがマシでした」

 「生き地獄を見とけ」と言い放った。


 店を出るタイミングで店長に声をかけた。


 「今日何時に仕事終わります?」

 「夜11時かな」

 「長野と三上の話の内容、教えてくださいよ」と、1万円多く会計時に手渡した。


 「分かった」とだけ店長は言い残した。
 坂本に電話を入れた。すぐ来るとのこと。店を先に出た。店内の客に写真でも撮られて拡散されたらこちらとて困る。
 Cが長野を連れ出した。


 坂本があの場にいたら殴っていただろう。
 局面が変わったもんだから、長野とCはタクシーを拾って坂本の車へと向かってもらうことにした。想定外のことなんてしょっちゅうある。その都度、機敏に動けるかどうかが要だ。

 オレは店の前で待っていた。
 その矢先に、だ。


 「その女」、ナツミはやってきた。
見下すような笑みを浮かべている。
 「ジュンを見捨ててから何年経つの?」

 「やめてくんねえかな、そういう言い方」と焦りから強く返した。

 「私も詳しいこと知らないから訊いただけなのに。そうそう。アンタが地元を捨ててから、ジュンちゃんは相当詰められた。というか袋状態。知ってた?」

 「もういいって」。親友なだけに知りたくなかった。長野への怒りとジュンちゃんへの申し訳なさが胸で渦を巻いていた。

 「ドライなんだね〜。さすが見捨てただけあるわね」と、辛辣なナツミちゃん。続けて、

 「ジュンは『過去を清算したわ』。アンタが逃げた、過去を。今じゃ、娘思いな父。で、アンタは?いつまで半端モンのままでいるの?」とタバコに火を点け冷たく、言い放った。

 「最後まで燃えずに中途半端に逃げているだけじゃない?人に偉そうなこと言う前に、自分を鏡でみたらどうなの?」

 畳みかけてきた。
核心を突いている。
 冷や汗の出る場面で親友だったジュンちゃんとの過去をほじくり返し、オレを責める――裏返せばジュンちゃんを裏切った事実を突きつける――ことを言われても今は返せない。

 と、自分の不甲斐なさを痛く感じていたところに、坂本から「もうすぐ」との連絡が。ナツミさんは察したのか、「まあ頑張って」と言いながら嘲笑していた。

 オレが喫茶店に呼んだのは、長野から聞きだせることは聞こうと決めていたから。長くなる確率のほうが断然高い。一方で、すぐに帰す可能性もある。二者択一だ。

 坂本がやってきた。


 これからだ、と言い聞かせ現実か確かめるために、頬をつねった。
 痛みが走る。現実での出来ごとか。

 憎堂一家――。


 新宿歌舞伎町に根を張る極道組織だ。組長は三上。それ以外の情報はないのが、ここの怖いところ。要は誰が要なのか、分かりにくい。突っかかった相手がたまたま憎堂一家のモンだったら、一発でアウト。
 不気味なおっかなさがあるんだ。
 「ヤラかした」ヤツらの末路は…きっと、ボロ雑巾のように絞られ、酷使された挙句、捨てられるのが関の山だろう。
 都市伝説で語られている話が現実に起こったら怖いだろう?憎堂一家はまさしくそれ。実在する都市伝説組織でもある。
 その闇の中の登場人物が坂本。
 コイツは闇から顔を出した、
 ごく稀な人物。
 ソイツとオレは今一緒にいる。その闇に自ら飛び込んだ人物は議員の長野。ソイツも一緒だ。――これから、真っ暗な世界に吸い込まれにいくということ。
 真っ昼間。事務所内は前回来た時より、張りつめた風が吹いていた。

 坂本の舎弟が二人。
「お疲れ様です」と、気怠そうな声。
 「お、おう」と坂本はテンパり気味。

 「お疲れ、坂本ちゃん。カイちゃんもね」と三上。

 「間に合いました。長野です」と息を切らし気味に三上に手短に伝えた。

 「さすがね、カイちゃん。坂本ちゃんはわりと勢いで突っ走るトコがあるから、制御装置が必要と思ったのよね。で、坂本ちゃん」
「はい」
「なんでアンタに直接長野の話――連れてこいって話をしなかったか分かるかしら?」

 坂本が口を動かそうとした瞬間、

 「身勝手に動いて、前みたく使えない連中を集めてもオジャンになるからよ」とソファに腰掛けながらテニスボール二球のうちの片方を、手の届く範囲で上に投げて下で拾って、下で拾って上に投げて、と余裕な姿。

 「『手玉に取る』って言うじゃない。思い通りに動かしたりすることを。ところが『キャッチ』し損ねるのが、わたしぁ一大ッ番キライなのよね」と、テニスボールを落とした。「こういう瞬間のこと。自分で取るって意思通りに、計算通りに、進まないのはすんごく許せないのよね。ね?坂本ちゃん」と朝笑いしている。

 「ええ…」としどろもどろに応えていた。次の瞬間、落としたテニスボールは投げられ、坂本の胸元にヒットした。舎弟がクスクス笑っている。内心では相当バカにしていたんだろう。「伊藤なんかと組んだのが元凶だったのかしらね」と、言った後に一呼吸する三上。一気に空気がどんよりしてきた。

 長野の全身は震えている。ここにくるくらいなら「死んだ」ほうが本当にマシだったのかもしれない。それとは別で、妙な光景が目に入った。回転式の椅子に座っている「誰かが」いる。顔をこちらに見せない。何者なのだろう…

 「と、坂本ちゃんへのお説教はいったん、ここまで。本題は長野。アンタよ。ナメてくれたもんよ。カイちゃんに依頼してもこっちには言わないし。知ってたんだけどね。んで、代わりに秘書くんを使い回して…まあ、アンタは論外」。坂本をバカにしている坂本の舎弟が、収束バンドを手に回して、身動きの取れない状態にしていた。

 抵抗を諦めた長野は、されるがまま。オレは立ちっぱなしで話を聞き入っていた。同じように坂本も、取り乱して三上の言動を1ミリも理解できていない、というか理解するキャパシティのないんだろう。

 「手玉に取れないなら投げるほうが得な時もあるのよ」と言い、舎弟にもう片方のテニスボールを投げた。「それ以外にも球の使い方はあるんだけれども」
 「ねえ、長野の口に球をぶち込んで。――『言う猿』に」と指示し、舎弟の一人が口に詰め込んだ。次に無理やり正座をさせた。収束バンドで身動きが取れないうえに口にボール――見せしめだ。

 「話ばっかしてもつまらないわよね。ショーも楽しんでもらわないと」と大笑い。舎弟は二人とも強張った表情。一方、坂本は見慣れた感があって「またか」と、目から内心ではため息をついているのが、伝わった。「お喋りな口で色いろ話しそうね。その前に…」

 次の瞬間、三上が思い切り長野の口元を蹴り飛ばした。悲鳴をあげているのだろうが、長野の口からは声にならない音で叫んでいるだけにしか思えなかった。「首だけ振れればいいのよ。長野はちょっとお喋りなのよね」

 長野の口元から血が流れ出ている。おそらく歯がすべて折れたのではないか。「あ“”“”“”」「い“だい”“”!!!」と言っている。ニュアンスは分かるものの、子音に濁音が混ざって、何を言っているのだか分からない。この張り詰めた緊張下から、「聞こえない叫び」を聞いている。

 「まあ、こんなんだけども長野ちゃんにやってもらわなきゃいけないことあるからココまで。『極左翼団体の襲撃』で歯を折られましたとか、適当なことでっちあげるのよ、長野ちゃん

 「要らないのは誰かってなると、カイちゃんなのよね」--「助かった部分もあるけれど。かき乱しすぎじゃないかしら?それ以上はダメって線を分かっているのに越えちゃうからね、この子は」

 と、言ってから、ソファの近くに背を見せている男の姿があった。開店式の椅子に座り、銃を取り出した――「東都」戦争後、日本は銃が手に入りやすい国だし、これまで銃が出て来なかったのが奇跡か、と思っていた。椅子に座っている男が、こちらを向いた。
 その瞬間に、オレの心臓は凍てついた――。
 谷川だ。どういうことなんだ、一体全体?コイツがすべての情報を三上に流してたのか?何なんだ、何が何だが、誰がだれなのか区別がつかなぃなってきた。
 「よ、カイくん」

 「おい、谷…」

 「険しい顔すんなよ。これも仕事でな」

 「そう、谷川ちゃんは優秀よ。まさか、敵対する中山の情報を流すだなんて」と三上は大笑い。


 「オイ…」

 と言ったすぐ後に銃口をこちらに向けた。

 「中山といる時の音声、全部録音してありますしね、三上さん」――「渡しますよ。中山をぶっ殺しえてから」と陽気に言い放った。完全に狙っている。

 「それか今流しましょうか?」

 終わりだ。

 「さすがよ、もう。ちょっとかじってもいいかしら?死刑囚の最期の肉声でも聞きたいわ」と三上が言った後。
 予想外の展開。谷ちゃんが流した音声は、三上と長野の会話。「見返りに」ああだこうだ言っている。
 「谷ちゃん?ナメすぎてるの?あなた?」と、三上の逆鱗(げきりん)に触れたもよう。次の瞬間、三上の頭を撃ち抜いた。音は大きくなかった。驚くスキを与える前に、舎弟二人の両膝を撃ち抜いた。

 舎弟は膝から崩れ落ちた。
 「長野はデコんとこ行ってこい」と一言。結束バンドを外した。
 「谷ちゃん…」
 「潜入だからね。黙ってたんだけど」と小声で谷ちゃんは言った。流れ作業のように、拳銃を三上の手元に置いた。
 「俺たちはいなかった。それで良し」
  「坂本さん、アンタも出んぞ」
 無言で事務所を出、ふたたび不夜城のネオンにオレたちは照らされた。

 長野の結束バンドを外した谷川は涼しい顔付き。オレはあ然とした…というか何が起こっているのか、その背景すらもが掴めない。

 「谷ちゃん…」

 「潜入だからね。黙ってたんだけど」と小声で谷ちゃんは言った。流れ作業のように、拳銃を三上の手元に置いた。
 「俺たちはいなかった。それで良し。だよね?カイくん。坂本さん、アンタも出んぞ」

 オレはうなずくだけだった。その姿を谷川は見ていないだろう。無言で事務所を出、ふたたび不夜城のネオンにオレたちは照らされた。



 数着メートルなのか、数キロメートルなのかは分からない。距離の感覚が、マヒするほど、急いで裏道を右左に曲がった。ただ、目的地まで、ネオンの色が変化していったことは正確に記憶している。

 青から赤、赤から黄色、黄色から緑…と、街そのもの街にしかない、夜の色彩を放っていた。すれ違う人びとは正気がないように映る。それくらい、ネオンが生き生きとしていた。

 谷ちゃんが突然止まった。

 「事務所の掃除よろしく。怪我人二人」と言い、なにごともなかったかのように、電話を切った。続けて「坂本さんよ、”あそこ”でいいか?」

 「出てもらうよう指揮する」と、今度は坂本に覇気があった。いつもと異なるオーラを放っている。

 --コイツは一体何モンなんだ?と、自問した。答は返ってこないのだろう。探して見つけるモンでもなさそうだ。長野は、ただただ口元を抑えている。コイツは戸惑うゆとりすらない。とにかく走ることに必死。逃げているように映るが、オレたちからは逃れられていない。

 --迫ってくる影。もう追ってこない。それに囲まれている状態にあるのだ。
 走り進めた先に、誰も入らないようなオンボロの居酒屋があった。店が人を呼んでいるように思えてもおかしくないくらい、孤独に佇(たたず)んでいる。


 ポツンと。時代に取り残され、人びとに見捨てられたかのように、一軒の居酒屋が佇んでいた。まるで人が入ってくるのを望んでいるかのようなわびしさを放っている。
 「待て、谷ちゃん。人いたらどうすんだよ?長野もいんだぞ」

 「まあ、大丈夫だから」

 「安心しろ、中山」と今度は坂本がやけに強気だった。

 どうなっているんだ?オレは有機体のように光を放つ街の一角に、佇んだ居酒屋に向かう。店に入る--それだけの単純な話なのに、頭のなかで情報の整理が追いつかない。

 「俺が先に手を打ってあるからな」と、坂本。コイツも得体の知れない存在だ。出会ってからは見下していた。しかし、ここ一番の大詰めで、正体不明な存在に。

 「中山。俺の見せ場だ、こっからは。冗談なしだぞ」と本気な面持ちで、その言葉には、重みがあった。


 中に入るや否や、客を含め、店員もいない。

 一言目。「どうなってんだ?」


 坂本は「実は俺は公安のS(スパイ)なんだよな。先手打つのは余裕なんだ」と言ったあと、「カイくん、ごめん。実は俺さ、破門喰らってないんだよね。内部を壊すよう指示受けてモグリで、状況把握してたんだわ。内部破滅のシナリオ通りにいったからバンザイなんだけど」と、続けて微笑みながら「ことの経緯(いきさつ)を話さないとカイくん納得しなさそうだからな…なかなかクセ強いし」

 「坂本さん、あんたはSって…あんなに忠誠心あったじゃねえかよ」  
 「ハム(公安)が狙ってたのは二人。長野と三上。ほかは関係なし」 
 「というと?」
 「今回の失踪なんて、正直いうとどうでもいいんだ。三上をはじめ、組そのものが壊れちまえばいい。そんだけ」
 「で、俺は上のモンにモグッてこいと言われただけ。なかなかめんどくさかったよ。中島と伊藤っていうザコ達をツブしてからモグリの増堂一家の組員になったわけだし。すげえ間接的だったけれど組員だったんだよね」

 「俺は任務も終わったわけだし、ここら辺でお別れにすっかな最後の話し合いってこと」--「派手にやってくれていたんだよ、増堂一家は。谷川やお前は、破防法指定での監査対象外。三上は色んなヤツからみかじめ料をとっていた。今井もその一人。で首回らなくなったから、実行犯になっただけだね。やらかしていることっつったら…極右政党のケツ持ちなんだよ、三上は。東都戦争後に分断されちゃ困るだろう?」


 「東都戦争」--都道府県の間で勃発した戦のことだ。一都三県の連合対府道県の連立で本格戦争になった。一都三県連合は北と西の両方から攻められたが、勝ち抜けた。

 ことの発端は「自治権」だった。とりわけ都政は国政とは別で「都独自」の政策実現が--厳格にはタブーだが事実上、国政は見て見ぬフリ--早い段階で出来るようになり、各地方自治体の中で都は有利な立場にあった。

 都の条例・法案は他近隣三県でも適用可能となった。三県は都合が良かった。国の定めた「〜法」「〜条例」は地域によっては合わなかったりする。地域独自のそれらを共有することで、一都三県はいい思いをした。加えて三県は県独自の政策を、県議会で立案、決議、施行まで進めた。

 こうした具合に、三県は都の政策を土台に各県にとって独自の政策を採り入れた自治県となっていった。米国の州を思い浮かべるとわかりやすいのかもしれない。

 が、この動きに対して府道県連立--政令指定都市のある、道県の両方が連立軍を樹立。要するに、都心部だけ自治権を持つのはおかしい、それを見放す政府の省庁が都内に集中していることもおかしい…と、かなりの反撥(ぱつ)心で、東京に攻め込んできた。
 苦戦したものの一都三県が勝利を収めた。--これが東都戦争。

 結果、一都三県は独立した、自治体となった。一方、都は多箇所が攻撃で倒壊してしまい、復旧の公共事業数は増えた。そこから都と国政の不祥事や癒(ゆ)着が急増し、都内の治安は悪くなってしまった。

治安の悪化に伴って公安の破防法監査対象に指定される政治結社・団体や宗教団体が増加。公安は大忙しになったが、警察庁も事後対応に追われる自体に。

 公安と警察が切り離された。険悪な仲になり、極論、事件を事前に防ぐのが公安、事後処理が警察といういびつな構図になった。関係修繕に向かいつつあるが、まだ途上。

 都内は無法地帯化しつつあるんだ。

 さびれた居酒屋--オレを含め長野と坂本、谷川の四人が揃っている。それぞれが違う肩書きだ。オレに肩書きなんてあんのか?妙に萎縮してしまった。ランクづけがあると、よく働いているわりに低く評価されるのは、オレみたいなハンパ者だ。

 「谷川、コイツを警察署に連れてってくれよな。ハムとしちゃぁ、都合が悪いんだよ。俺がコイツを連れていったとしても検事は取り合わないだろうしよ」
 「タクシー手配しないと」と言いながら、谷川は「ごめん」のポーズでオレを見た。
 「あ、中山。証拠として、みたいなこと言ってくるハズだよ、デコ連中は。携帯渡すよ。証拠詰まっているからな。で、中山はボコボコにされていてヤバそうってことで、警察署に連れていって、すぐ帰れば平気。発見者の事情聴取受ける前に帰っちゃいな」と言ったあとに、携帯を二台投げた。


 「片方は警察署用。もう片方は中山用。裏取引の内容でも『喫茶店のオーナー』と話しなよ。十分証拠になるから」


 --なぜ会うことを知っている?と得体の知れない恐怖に蝕まれた。その正体を明かすかのように「あそこの店長ハムだよ」と、添えた。全て筒抜けだったのか…

 「引き渡したら、ここに戻ってきてくれないか?」と谷川。

 と、言われオレは長野を椅子から拾い上げた。宙に浮かんだ瞬間、椅子を思い切り蹴った。長野は逃げられないとおもったのか、緊張した表情だった。蹴った真意は、ここにいる自分がみっともなく思えたから。

 下らないんだ、理由なんて。


 外に出た。
 寂しげな雨がぽつりぽつりと降っている。湿度が高くなっている。気温は、気持ち涼しくなった気がする--。

 空を見上げると、月の光がまぶしい。雨なのに。雲に覆われた隙間から差す月光は、オレと長野を同情の色に染めていたように思えた。

 ムダ骨ご苦労さん。おこがましい同情の光を、月は放っている気がした。
 一緒に外に出たら長野は、気がついたらオレの顧客でもなんでもない、ただのトラブルメーカーになっていた。

「長野さんよ、早くタクシー呼んでくんねえかな?」

「は、はい!」
 膝が震えていた。怖気づく姿を見ると余計にいら立つ。勢いに任せて殴りたい衝動に駆られもした。

 5秒待つんだ、こういう時は。

 5秒間に、今長野を叩くのが損か得かを計算する。それでも荒ぶった感情が落ち着かない時はいけばいい。5秒数えるうちに妙なモンが目に入ってきた--。こんな小路から見えるものなんて何もないハズ、と思った矢先にフェンタニルをキメて奇声を発している、年増の女が声にならない甲高い声をあげている。

 オレはため息ひとつ。長野はその女の奇声に怯えている様子。今まで見たことのない世界なのだろう。

 「なんですか、あれは?」と訊きたげなのはこちらも察したが、長野は何も訊かないのが無難と思ったのだろう、オレには声をかけなかった。

 5秒なんてとっくに過ぎていた。殴る必要も何をする必要もない。タクシーに乗ってからだ、どうするかを考えるのは。タクシーのライトがこちらを照らしている。迫ってくる。運転手は20代後半か30代前半くらい。
 中に入るや否や、行き先を警察庁と伝えた。ものおじた様子で、また震えた声で、「はい」と。

 「同乗者様の手当でしたら病院が…」

 「バックミラーあんま気にしないで。仕事に専念してもらえればいいよ」

 「すみませんでした」と、答えたタイミングで口止め料を長野が差し出した。ヤツの口の中から流血が治らない。

 新人なのか分からないが、運ちゃんは、なんの意図で1万円が渡されたのか、皆目検討がつかないもよう。


 「黙っててくれればいいんだよ」とオレが添え て、長野もうなずいた。--口から血を飛ばして余計なこと話すなよ、と言いかけたが、ここで運ちゃんが動乱されても困る。長野を鋭く見つめ、目線でクギを刺した。
 
 沈黙が続いた。

 冷たい沈黙が。少し空いた窓から流れる、その硬直した空気が、オレの渦巻く感情を切り裂く。虚しさ、怒り、無力感--どこからやってくるのだろうか。

 結局のところ、オレは自分主導でこの件を片付けている「つもり」だった。実際は違う。ハムと組、議員にうまく利用されてただけ。囲われて、手のひらで踊らされていただけ。違ぇか?

 長野は切り捨てられるのか、ここにきて怪しくなってきた。要は、組を潰すためにハムが用意した、単なる駒にすぎないのかもしれない。汚職だなんだ言われて、デコに送りつける運びだが、最終的にコイツを守るのは日の丸なのかもしれない。

 すべては霧の中。つかもうとしても、手から消え去っては、またつかめたのではないか、と錯覚する。

 錯乱しているのはオレだけなのか?過ぎゆくネオンの光が、オレの心のくすぶりをより明るく、鮮明かつ立体的に照らす。横にいる長野に目を向ける。コイツは無機質な生物としか思えなくなった。
 理由なんてないんだ。あってもくだらないモンさ。

 「お一人で"ここまで"大変だったでしょう」と長野。その場で顔をブン殴った。感情も何もない。言葉の外、皮肉だとか、そんなのはどうでもいい。今ここで、口を開くのがオレの神経を逆撫でした。

 運ちゃんは何か言いたげで、仲裁しようと思っているのがつたわるほどに、目が泳いでいた。--あんたには関係ないよ、と心でつぶやいた。

 長野は反省している表情。本音はわからない。オレは長野を凝視した。するや否や、

 「悪気はないのですが…」と。すかさずもう一発。

 「すみませんでした」

 「これから謝る回数は増えそうですね」

 「何に、誰にです?」



 分からない。

 言ったはいいものの、確かに分からない。コイツが今後、オレを「謝らせる」立場に回る可能性も大いにあるわけだ。狭い視野でしか見られていなかった。


 オレはそのまま黙り込んでしまった。自分で何を言ってしまったのか、自分でも消化不良なまま。感情に身を委ねて殴っても意味がない。と、思いをめぐらせていたら、警察庁が見えてきた。

 「そこ左」とぶっきらぼうに伝えた。

 庁内に入る。着いている電気の色は、灰色に薄暗い。戦後の尾を引いているのか、寂れた空気感が漂う。辟易し切った空間。内部の警官たちは屈強そうだ。もしくは疲労が溜まりすぎて、そう演じざるを得ないのかもしれない。

 屈強なアリのような警官たち--ハムとは別組織の警察庁の面々は、新たな来庁者を訝(いぶか)しげに眺め、長野と気づいた瞬間、引き締まった表情でこちらに歩み寄ってくる。

 「事件ですか、事故ですか?」と一人の警官。

 「暴行事件です…」と長野。

 「ご一緒の方は」もう一人。続けて後ろには三人いる。

 「発見者です」と返し暴行に関与していない、ただ偶然、殴られた人を助けに、ここに連れてきた、お人よしを演じた。見抜かれているのだろうが。
 「手当は…」後ろの三人のうち一人の、若者が訊いた。

 「してない状態にあると本人は言っています。先に、こちらに行きたいと」


 警官たちは妙だな、と疑いの目線を向けていた。最初に声をかけた警官を除いた警官たちは、後ろに下がり、内緒の話をしている。おそらく、長野が議員と気づいたのだろう。
 なぜ病院ではなく警察庁なのか--。どうやらそこが引っかかるのだろう。
 警官一人がオレをじっと眺める。その目は疑いに満ちていた。
 「別室でお話しをのちほど伺ってもよろしいでしょうか」

 「はい。発見者としてご協力できましたら」

 「あなたがねぇ、加害者って可能性も」

 「否定しませんから」と言った直後に、長野の足を払い身体を倒した。長野が、硬そうなフローリングに倒れた。その音は大きく、地響きがした。

 「大丈夫ですかッ!」と長野に声をかけ、容態を確かめていた。チャンス。そのスキに思い切り警察庁の出入り口の方へと駆けていった。追っ手が来るのでは、と警戒したが追って来なかった。長野のケアに専念していた。

 難なく振り切れた。

 とはいえ、走って逃げていても、デコたちに追いつかれるのも時間の問題。どうするか?とにかく走るしかない。走るんだ。何年ぶりだろうか。無我夢中に走り逃げた。

 車の走行音が聞こえる。後ろから光に照らされ、オレの影がコンクリートに浮かび上がった。

 車は接近してくる。鼓膜が走行音を拾った瞬間、毛穴から、冷や汗が一気に流れた気がした。後ろを見た--。パトカーではなく坂本のアルファード。運転していたのは面識のない男だ。

 「早く」と言い、手際よくハムの手帳を見せた。ホンモノかどうかは正直、どうでも良かった。とにかく警察から逃げ切れればいい。オレを拾うのが筋モンでもなんでもいい。

 そう思えるほど余裕がなくなっていた。
 車の中に入った。その男が告げた目的地は、例の居酒屋。

「すみませんね。驚かせたのと長野を連れて行かせることになってしまい」と言ったあとに「帰りなら拾っても問題はないとの判断で、坂本さんから指示がありましてね、迎えに行けと。行きは長野さんもいて騒がれるのもバツが悪いのでね」

 「なんだ、そういうことか…」

 「疲れたでしょう。居酒屋行ってひと休憩しましょう」

 警察庁から居酒屋へ向かう時の空気感は、その逆の時より異なっていた。--安心できはするものの、警戒心が解けない。警察庁に行く時の緊張感とはまた別の類の気持ちが、渦を巻く。

 「ここら辺でいいよ。外の空気を吸いたい気分だ」

 「それではここで」と、謎の男は告げ爽やかな笑みを浮かべ、去って行った。



 居酒屋から少し離れたところにいるが、視界には入る。

 最初に見た時とは違う印象を受けた。この居酒屋は、オレが中にはいるのを拒んでいる。長野を連れて行った時は、吸い込むような空気を醸し出していた。一方、今では「来るな」と建物が訴えかけている--。

 そんな気がした。

 ここで一体今さら何を話すのだろう?ここで今さら何を追及するのだろうか?疑問符は連なる。

 谷川に坂本--。利害の一致で動いたもの同士だ。オレは?確かに利はあった。長野から受け取った金額は大きい。同時に、ハムに全面包囲される結果になったと、拡大解釈できもする。

 受け取った金額と引き換えにオレは居場所を失ってはいないだろうか?そう思えてきた時に、中に入るのを躊躇した。坂本から渡された携帯電話には証拠が詰まっている。これを聞けばすべてが解明される。

 つまるところ、だ。

 店内に行く必要がないのでは、と思えてきた。自分でもなぜそのような行動をとったのかよく分からないが、立ち尽くしたまま、携帯電話のメッセージ内容や写真を眺めていた。

 内容はこう--。

 長野が三上に娘の殺害依頼をした。見返りに、老朽化した後援会の改装工事を、憎堂一家のフロント企業に発注するのが条件。事務所の備品も三上のフロント企業から高値で仕入れるよう指示。依頼料とは別で口止め料を三上が請求。オレは憎堂一家の目の敵。あえてオレに依頼するよう、三上が長野に指示--オレをツブすハラでいたってわけだ。

 すべてがくだらなく思えた。携帯を思い切り投げた。

 長野と三上の利害関係の間にオレがいて、利用されたわけだ。この稼業に勝ち負けはない。事件が片付けば、それでおしまい。シンプルな話だ。ところが、今回ばかりは「負けた」ように思えた。

 きびすを返すように、そこから戻ろうとした。どこへ?戻るといっても事務所なのか--。歩くか。どこへ向かうのか、知ったこっちゃない。降りしきる雨が、アスファルトに打ち付ける音の耳障りの良さに、安堵を覚えた。心地いい音のするほうへと進むか。

 その方面はわからなくても、歩みを止めないことにした。頭の中で、Red Cafeの"Heart and Soul of New York City"がリフレインされる。

 "I walk the walk name ring-bell from da south  to north, Wut else? That's how I do I'm da  'Heart and Soul of New York City'."
「歩を進める。電話は西から北から鳴るけど 何の用かわかんねぇな で? そんな調子だ 俺がニューヨークの看板だ」

 --オレは何を背負ってきたんだよ。

 雨音の心地よさと、自問自答するいら立ちとが、胸で渦を巻き、オレの喉元に上がってくる。締め付けられそうだ。痛みに襲われる気がしながらも、その痛みに、きっとオレは安堵を覚えるのかもな。--情けねえ。

 とにもかくにも、もう戻らない。それだけ。巻き戻すな。
 この稼業をやめて、街からも消えるタイミングかもしれないな。けれどオレは他に何ができるっつうんだよ。

 今思い返せば、だ。

 「捨てる」連続だったのかもしれないな--地元を、友情を、妻を、責任を。結果、オレは現実から逃げてたってことか。

 惨めに思えた。とはいえ惨めさに酔っている自分はもっと汚ねえ。心地いい雨音は慰めちゃくれない。喫茶店の店長と会う予定の夜10時はとっくに過ぎていた。

 どうでもいいんだ。

 全てが筒抜けなんだしな。話す必要もない。何を得ようとしてきたのか--捨てる、逃げるための材料の数かず。オレはこざかしい選択を連続してきた。愚かモンよ。笑うなら笑ってくれ。

 自分で自分に同情するだなんて、自己陶酔に他ならないのにな。嫌悪の塊だ。そんな自分から逃げるようにして、歩いていたオレは、公園に行き着いた。何の変哲もないただの公園。

 この先だ、オレが考えんのは。この街で利用され続けるのか、もしくは遠くへ、また逃げるのか--。二者択一だ。答はシンプル。

 だろう?

 計算しようとして動いた結果、野球賭博で負けたんだっけ。柄にもないことをするからだよな。自分らしい行動が打算した行動より、いい結果に転じるってのは、「負けて」分かったんだ。

 --直感に従うか。遠くまで、どこかへ、そのどこかはわからないにせよ、這うように進むか。どうせ先行きは見えている。どこに居たって、オレは肩身の狭い思いをするだけなんだから。

 と、自問自答していた矢先に、だ。まさかのことが--ナツミが現れた。どうして…
 「もう筒抜けなの。分かってるでしょう?あんたは親友のジュンを裏切って捨てた。違う?でもいいの。ジュンは許しているから。戻る最後のチャンスよ。もうこうなることはみえてたんだし。戻るかがんじがらめに生きるか--あんたはどっちを選ぶの?また『逃げる』のかしら?」
 事実だ。本当のことは、まるで凍ったナイフのように心を突き刺す。鋭利なナイフでえぐられた気分だ。
 「で、どうすんのよ?ジュンと精算すんのか、みっともない生活でもすんのか。もっかい言うわ。今なら戻れるのよ」

 「まとまらない。先のことなんて分かりゃしない。気が向いたら戻るさ」

 呆れた表情を一瞬見せ、すぐに背を向け、ナツミはそのまま去って行った。何も言わずに。
オレはちっぽけな空を睨んだ。怨みなどないのに。


 「巻き戻すか」--「どうせ三上がそうされたように、オレも殺されるんだろう。風呂敷を広げすぎたのかもしんないな」。小声で放ったひとりごとが、宙に浮かんでゆくように思えた。

 夢であってほしいが、現実に向き合う--これほど残酷だとは…と、思った矢先の出来ごとだ。

 「逃げてばっかでダサいよ、君」と、喫茶店の店長。

 公園のベンチの後ろから、忍び寄ってきたのか。背後からチョークスリーパーでオレの首を絞めてくる。オレの息はすぐ切れるかもしれない。

 切れるかもしれない。生き残れるかもしれない--。オレに保証された明日は来ないのかもな。

 いいんだ、それで。

           (了)

【あとがき】

 --人生とは?そう問われたら、「いいコトと悪いコト」を連続で往復すること、と今の僕は答えます(年齢とともに答も変わりますし、一様ではないのですが)。

 大体の人に当てはまるのではないのでしょうか。いいコトがあって、悪いコトがある。それを行き来し、自分の羅針盤が出来上がってゆく--。経験と未知から学んで行動が決まるのではないか、と。

 ところが、です。

 中間の人たち、つまり往復ができない。善悪の真ん中に生きる人たちがいるのも事実かと思います。往復することが出来ない、往復を自ら放棄した、「一般」社会に同化出来ない、不器用な道に生きているのかと。

 一般社会の苦しみは当然あります。半面、「馴染めない」人たちのそれは、言語化されない苦痛なのかもしれません。

 なんとなく、です。これがあっているかどうか、知る由はありません。

 あくまで想像の話ですので。

 その想像を限界まで膨らませた--そんな気がします。とにかく神経と体力を消耗した気がします。書き終えて「ようやく」と、自分を誉めた唯一の一作です。

 さて。

 最初は勢いで書きました。きっと、見えない世界の実像は…との想像の延長です。ゆえに出だしの粗さがあるのは、もっともで、自分であえてそこを生かそうと思いました。ゆえに修正していません。

 段だんと話を進めるにつれて「生き地獄とは」「逃げながらもがくとは」と、話の主軸がみえてきました。きまぐれですね。

 逃げざるを得ない人生を歩む人--。いるハズです。電車の隣に座っているかもしれませんし、1秒前にすれ違った人が何かからどこかへと「逃げている」のかもしれません。

 人の姿は見えても、例外を除いて、ヒストリーは見えません。

 その可視化されない、「今まで」と「これから」を描こうと努めました。自業自得、自己責任と言われ指をさされても諦めずに図々しく生きる姿、狡猾な罠に陥れられる姿、狡猾に生き抜く姿--これらのバラバラな要素を組み合わせ、反映させる。自分で苦行を選んだ気がします(笑)。

 「生き地獄」という言葉は多くの方が知っているかと思います。その地獄(に近い)世界に迫るのは、おおげさですが、精神をすり減らす作業でした。繰り返しになりますがご容赦ください。--書き終え「ホッ」としては、またタックル。この連続でした。

 逃げに逃げる主人公。

 行き着いたさきは新宿。ところが、行き場がなくなる。これこそが「生き地獄」とも思えました。まさかそんな方向に傾くとは、と時に頭がヘンになりそうでした。

 また、複数のエンディングを用意しました。最初はハッピーエンド。が、これがコロコロ変わる(笑)。結果、今の自分にしっくりくる終わりにしました。

 とにかく、悩みと消耗が伴いました。

 登場人物は無様かもしれません。唯一お伝えしたいこと--。明日、自分が「生き地獄」をみる当事者になる可能性を全否定できますでしょうか。誰にでもありうる、普遍性もテーマの一つも込めてあると、締めくくります。

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