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『生き延びる叫びよ』(下)③

「うちは、自分の秘密をあんたに打ち明けた。事件はまだ、時効になっとらん」」

(『狐狼の血』 柚木裕子 著)

【逃げよ】

 一刻もはやくここから、東京から、関東から、逃れたい--。その一心だった、僕を突き動かしていたのは。レンタルしたのはフォルクスワーゲンの小型車で軽とも呼べるような、微妙なサイズ。

 みえ子が車を借りる時「外車はないのかしら?」と店員に詰め寄り、嫌いやな表情で、ワーゲンをその場で渡してくれた。悠長なものだ。切迫し、一刻をも争う場面で、外車がいいだなんて。

 車内で僕は黙り込んでいた。

 この先どうなるのか、考えたら悪い予感しかしない。いつ強奪犯の誰か--それも逮捕されていない4人ではなく、別軸で動いている”誰か”--に追われている可能性は多分にある。

 警察は?あまり気にならなかった。むしろそのまま、逮捕するなりなんなりして、留置されるほうが僕は安心するだろうと、走りながら危機と安全とを天秤にかけていた。

 が、ここはその二つを放棄して、逃走するのが僕ら。

 誰がどう見ても無謀としか思えないだろう?

 そうだ、父の言葉を思い返した。「信用はな、金で買えるんだ。んなもんでさ、人対人つっても愛情ってモンがなきゃ、損得勘定で付き合える。ところがよ。愛だの恋だの……信用問題でもあるんだけど、金で片づかないんだ、厄介なことに」

【厄介】

 --厄介なことに。

 気晴らしにラジオでもつけようと手を伸ばした。John Coltraneの"Blue Train"が流れてきた。「走れ、走れ、先の道は長い」と、僕の焦りに拍車をかけるようなグルーヴ感だ。

 出だしのマイナーコードが、速く走らせろ、と急かしているようだった。そんな僕の焦りを意に介さないかのように、
 「ねえ、雨が強くなってきたわね。雨といっしょに、この身体が流されちゃえばいいのにって思うこと、ないかしら?」
 「ないよ。突然なんなんだよ……」といら立ち気味に応えた。集中力を切らすようなことは言わないでくれと、付け加えたかった。
 「ああ、焦ってるんだ!」と笑いながら、「逃げるわけじゃない。かといって追うわけでもないのよ。道を進んでいたら、たまたま流されました。流されたが最後なのかな、行き先は不明。それだけじゃないのかしら?」。

 漠然としすぎていて埒(らち)が明かない。具体的な話を切り込まないと、僕はアクセルを踏めない。窓の外に目を見やり、みえ子の顔に目線を戻す。

 「とはいえ、現金の強盗犯の連中に追われているリスクは十分すぎるくらいにある。わかるだろう?」と問うと、
 「そのリスク、楽しむ余裕がないのかしら?なんか健一郎ってつまんない。気にしてるのは自分の身の安全で、わたしの身は二の次に思えるの。だって『守る』って私に言ってくれた?それより危ない、テンパる様子しか伝伝わらないわよ。自分のことばっか?」
 
 そう言われたら何も返せなかった。

 そう、かのじょの身の安全より自分が無事で居られるかしか、考えていないのだから。こんなことを話していたら、みえ子は僕の弱みに漬け込んでくるだけだ。余裕をみせるフリだけしよう。そう決めた。

 「いっしょに青森まで行こう。『』を楽しむんだ」と、無理やり言葉を「逃げ」から旅へと切り替えた。言葉の強引さに、気持ちが追いついていないのは分かっている。分かっているものの、ここで、みえ子との波長を合わせないと、先ざきに災厄が待ち受けているとしか思えなかった。

 埼玉までとにかく向かおう。今晩中に着いて、どこかの安ホテルにでも泊まればいい。疲れているんだ。だからなのだろうか、みえ子の一言一句に過敏に反応してしまうのは。

 走れば走るだけ、気がまぎれると思い込んでいた。事実、埼玉県に近づくと気が晴れた--。どんな災厄があっても、もう散々な目に遭っている。これ以上何にも襲われないだろうと、まじないのように自分に言い聞かせた。

 ところが、川越でとんでもないことになるとは、みじんも想像していなかった。--雨は何も教えてくれないのだ。

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