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『生き延びる叫びよ』(上) ②

だれでも女には金を払うのか。よろしい、今のところ
パリ・モードの服の代りに きみにはタバコの煙を着せよう。

(『背骨のフルート』 ヴラジミール・マヤコフスキー 著)

 その札束の枚数で大体、百数万円と気がついた。

 僕は、浮かれず、同時に、何か悲劇の始まりかもしれない、と思いを抱いた。間の中途半端な気持ちで無機質な万札を眺めていた。

 まるでそこに存在しないかのように。確か「イージー・ライダー」では偶然手にした、大金と言えるような、言えないような、金を手にして悲劇に突っ走る。なのに、浮かれていたっけ。

 なんだかそんな顛(てん)末が見えていた気がした。ぼんやりと考えていた矢先に突然、だ。

 死去した父の言葉が脳裏に浮かんだ。

 「いいか、健一郎。金なんてさ、賞味期限付の生き物みたいなもんさ。その額が10万だろうと、1000万だろうと。億単位だろうと。賞味期限を延ばすか、明日にするかは使い道次第。単純に延ばしたきゃ、タンスにしまうなり、新しい口座に入れときゃいい」
 と、税理士だった父が饒舌(じょうぜつ)に話していた過去を思い出した。
 「がな、期限を縮める手っ取り早い方法はよ」
 「散財?」と、中学生の僕は覚えたての言葉を、あたかも自由自在に操れるかのように、言った。
 「散財…まあ、『溶かす』とも言えるな。泡みたいに消えちまうんだ。金は理性を狂わせる、諸悪の根源と覚えとけ」と言い、すぐさま新聞に目を通した姿--。突然、出てきた百数万を見、驚くこともなく、冷静に鮮やかな記憶が蘇った。

【光】

 夜中の光は煌々(こうこう)と僕たちを照らしている。そんな気がした。すべてが見られているのだろうか。突然、機能不全に陥ったような僕の姿を見、みえ子は「健一郎、何を狼狽えているの?このお金、使いたいと思わないの?」とすかさず返した。
 「使ったところでさ、なんの得があるのかな?」と応えると、
 「徳も損も、何も私たちは記号なのよ。地球に生きる記号。お金も記号。生きる記号が、お金って記号を動かしたところで、散財したところで、地球はビクともしないじゃない?」
 「でも記号の僕らは何が何だかってなるのが普通じゃないかな」と、「記号」という言葉--突然な、理解に苦しむ言葉を即座に消化した自分が、現代社会の奴隷になっていると、すぐさま気がついたように思えた。

【社会のアリ】


奴隷なんだ。

 記号として生き、記号を使い回す。そして記号として死ぬ。そんな簡単な話なのだろうか、すぐさま腑に落ちた。

 「いいよ。出所だけ知りたいんだ。ここで話すことじゃないだろう?」と言うや否や、ゴネると予想していた。だが、反してみえ子は従った。中野のマンションに帰ることにした。

 拾ったタクシー越しに眺める、町のネオンは「記号」である、人間の僕らと違って、生が宿っているように思えた。

 生きているネオンと記号にすぎない人間の非対称性に、僕はつい、笑みをこぼした。きっと、ワーグナーのオペラにみられる生きる苦しみを、町の生命力にみなぎった光は、嘲笑っているのだろう。

 マンションに着くなり、みえ子は「健一郎の気持ちがね、"Ready or Not"なのか確かめたいの。隠れられないわ。ここで話の先を、曲の進行に合わせて進めるのよ」と、キザなセリフを放ち、僕を中に導いた。

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