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『生き延びる叫びよ』(上) ③

「眼ざめるたびに、うしなわれた熱い『期待』の感覚をさがしもとめる」

(『万延元年のフットボール』 大江健三郎 著)

【まばゆい夜に】



 マンションのなかに入った。みえ子は自信に満ちた笑みを見せた。反して、僕は困惑した。

 ことがことだ。

 心穏やかではない--突然の百数万円の姿、外でけたたましく鳴るサイレンの音。もうすうぐ夜中の4時だというのに、心の落ち着きのなさとパトカーの赤灯が、僕らにあてられているような気がした。

 睡魔に襲われることなかった。眠気をライトが照らし、僕から睡眠する猶予を奪っているように思えた。

 落ち着かない。

 テレビだ。つけてなにが起こっているのか、確かめられない限り、僕に照らされる、赤色のライトは消えないように思えた。

 そう思い、リモコンに手を伸ばした矢先に、みえ子が「ねえ、つまらないことしないでよ。今日は『大収穫』の日。違うのかしら?」と言い、続けて「はい、健一郎の分」と僕の手元に無理やり10万円の束五つ、つまり50万円を渡した。
 「あ、これで"You can't run away"ね、ローリン・ヒルの言葉を借りれば。お金を持っているのはわたしだけじゃない。健太郎もなのよ。共同管理。そうよね?」

 あ然とするしかなかった。僕はこの現金の出所を訊こうという気で、マンションまで戻ったというのに。みえ子ときたら、天真爛漫(らんまん)で呑気な様子。

 拍子抜けしてため息すら出ない。今置かれている状況を理解できているのだろうか。僕は、春の夜明けの寒気を感じながらも、汗をかいていた。無関係な僕まで、出所が不明な札束を抱えている--共犯にしたてあげられているんだ。

 もし手元の50万円が法を犯して得た金だとする。だとしたら、僕はまさしく共犯者だ。みえ子は、そのことに気がついているのだろうか?気がつけていたとしたら、あまりに無神経、気がつけていないのなら、あまりに無頓着。

失望しかなかった。

 虚無を感じながら、居間に広がる黒く光るテーブル一点を眺めていた。時が止まった感覚がした。--どうするんだ?と、唸るようにテーブルが僕に問いかけている。そんな奇妙な錯覚に陥った。

 急な展開だと思わないか?突然、百数万円取り出して、うち50万円を僕の手元に押し付ける。どこで、どう、得たのか、それすらも分からない--。そんな時に平然としていられるのが珍しいだろう、きっと。

 「いい時間だしもう寝るの?」と僕が訊くと、みえ子は「ううん、お札と一緒に寝たい。お札で夢を見たい。健一郎と私とで、"Fly Me to the Moon"の旋律みたいに、上に上にと、進む夢を見たいの」と、相変わらず地に足の着いていない返事。

 「わかったよ」と、返したとたんに屋内の電気が点いていないことに気がついた。電気をつけようとスイッチに手を置くと、みえ子が実は疲労でぐったりしている姿が見えた。このまま眠るのだろう。電気はつけないことにした。

【初】

 僕はみえ子の隣に腰掛け、眠りゆくかのじょの姿があどけな映った。

 初めてしたセックスを、なぜだか突然思い出した。GoGo Motowの"Don't Stop"を流しながらした、かのじょとの初めての性行為。身体を交えてから5年が経つというのになぜだか、初めてのその体験が鮮明に頭のなかに浮かぶ。

 その曲のサビ部、"Keep it goin' long, stay strong tonight"が何度も流れる。みえ子との思い出に耽(ふけ)っていたら、本人はもう寝ていたようだ。

 つけよう。

 テレビを音無しでつけた。アルゴリズムで、どの番組を僕たちが好むか、どの番組が相応しいかを選別して、チャンネルが事前に決まっている。要はつければ見たい、もしくは、見るべき番組が流れてくる。

 もうそんな時代なんだ。

 「○○組傘下の強盗集団、現金1500万円を強奪か 新宿区」と、テロップが流れ、アナウンサーが何かを言い放っている。深刻そうな演技が上手なのだろうか、緊張感が痛く伝わった。

 その切迫感のある声は、釘のように僕の胸を突き刺した。僕は凍る痛みを覚え、背筋の髄が震えあがった。

 --まさか。

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