ダーウィンと統計とAIの話

皆さんどうも高校生勉強頑張るマン、
naxnaoです。
今日は100日チャレンジ二日目ということで、
人類の歴史についてのお話。

皆さんが人類の転換点となったな、と思う歴史事項はありますか?
コペルニクス的大回転クルクルなのはいくつかあると思いますが、
今回注目していきたいのはダーウィニズムについて。
ダーウィンさんの功績は皆さんの知るところですが、
学校の生物では遺伝子と同じような区分で教えられるからか、
遺伝子の話だと思っている人も多いようです。
実際には自然淘汰の話なので、若干異なっています。
例えば遺伝子みたいな個体に関してだけでなく、
社会や国家の生存、さらには種(人類)の生存の話にもつながってくる
とっても偉大な考え方なのデス。
この話には生物学のニッチという概念も大きくかかわってくるのですが、
ありとあらゆる存在するものがなぜ生き残っているのか、
という疑問に対する現在人間が用意できる最高の答えとなっています。
簡単に言うと、ダーウィンが言っているのは、
「今まで存在してきたから、今も存在が続いている」
というだけの話で面白いことではないのですが。
それまでのキリスト教的な教義からいくと異端だったわけで、
それまでの価値観っていうのは
生物は神様の目的のために創られたものだ、ということだったわけです。
だから、生物に欠陥なんてないし、進化もしない。
ずっと同じ姿で生態系があった、と。
で、その後進化っていう考え方が生まれて、
生物はどうやって進化するのかという議論になったわけです。
でも、その時人類が出した結論は今考えると
あまりにも傲慢で人類にとって、
しかも人類のなかでも西洋のキリスト教徒にとって
都合の良い考えだったわけです。
ダーウィンもその列の中に組みしているとされることも多いですが、
そういった歪んだ進化の考え方が優生思想を強め、
ナチスを生んだと考えることもできます。

しかし、なんだかんだいって、人類はダーウィンから抜け出していないのデス。
「ニッチ」という適材適所的な考えが加わったのはいいものの、根本的な部分での生物の生存というのはさっきも言ったような
「生きていたから生きている」ということになってしまいます。
これには二つ理由があると思っていて、
一つは結果論になってしまうということ。
もう一つは連続的であること。
この二つが生存法則の考え方を複雑化していると思います。
なぜなら、どちらも人類が把握しきれないものだからです。
人類は外れ値的な事項を意識の中で例外、論外として弾き、
そして、考えやすくするため、わかりやすくするために
概念化、つまり区分します。
そこでは連続したものはその時点だけに切り抜かれて処理されます。
例えばフランス革命といえば、どの部分を指すかといえば、
フランス王家が倒されるところですが、
実際には地球や宇宙全体の流れの中で生まれているもので、
その世界観の中でしか生まれないものです。
ですから、その背景をすべて理解しきらないことにはなんとなれば
その当時フランスに生きているすべての人の人生を体験しても
実際のフランス革命というものを掴むのは難しいでしょう。

事実として、神学と自然科学が別物になった時代にまず始められたことは
今までの教会の教義を片っ端から疑問視して、
自然を観察して、証拠集めて、、、っていうことだったわけです。
結果論として学問を考えるようになり、
そして、連続した物事としてではなく、
その世界、因果関係だけを抜き取った「インプットに対応するアウトプット」を探す学問として自然科学を再出発させたので、
複雑な系に関しての理解が甘く、
環境問題など現在までその影響は続いています。

そして、その流れで今日まで発展してきたのが
統計学です。
ただ、こちらの方は複雑な系の方に特化しようとしたもので、
結果だけに注目するようにしたものです。
因果関係が複雑なものに対して、
ある軸に絞り評価を行い、
結論に重きを置いて学問をしていく。
すると、統計になるわけです。
経済なんかも軸を絞って、
目に見えるデータから過去の傾向と照合し推論していく。
そんな学問です。

有史以降、人間には処理できないような複雑系に対して、
人間はわかりやすく簡略化するために
物差しをもって対応していました。
近代以前であれば、すべての事象は神によってもたらされた、と説明され、
神の真理について探求するのが学問でした。
近代以降、人間は神という物差しを失ったことで代替として
統計を用いて対処していきました。
しかし、これらは本質的に同一と考えてよいと思います。
なぜなら、原初の信仰や宗教規範というのはほとんどが経験則によって
善し悪しが判断されてきているわけです。
争いが起きるから、婚姻はひとりまでとか、
仲間に利子をつけると争いが起きるから付けちゃダメとか。
現代だって、憲法や法律はほとんどが明確な根拠を持って制定されますが、
ほとんどの場合根拠は歴史や日常の不具合を解消するためです。
だから、神と統計は多少の差異はあれど、同一視できるわけです。

同様に自然法則も神と同一視できます。
「生きてきたから生きている」という結果論的な法則も
神や統計なんかとほぼほぼ一緒ですよね。

ニーチェは神が死んだと言いましたが、その補填はすでに統計によってなされていると考えられます。

そして、今まさに統計の象徴ともいえるAIが出てきました。
人々はもしかしたらこれまでの宗教以上にAIを信仰する人が出てくるかもしれません。
結局、神も統計も行きつくところまでいきつけば同じなのかもしれないと思った今日この頃です。

まあ、この話の面白いところは自然淘汰が神や統計の上に立つというところですね。
経済における市場と生存における自然淘汰は人類が知覚できてもどうしようもないものなのでしょうね。
共産主義にしたところで根本にある価値のやり取りは避けられないのと同様に、神にすがったところで自然淘汰から逃れられるわけではないということなのでしょう。

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