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強制引退の瀬戸際にある競艇選手の悲哀よ…『レーサーの家』を読む

16歳でデビューする選手から70歳を超えても現役で走り続けるレーサーまで、幅広い年代が鎬を削る競艇界。そんな勝負の世界には「1600人枠」という制度があるという。

レーサーの質を保つ、そして、各レーサーへの斡旋数を確保する目的で制定されたルールで、成績が振るわない選手は以下の条件で「クビ」を宣告されるのだ。

・選手登録33年以上で4期通算勝率が4.80未満
・4期通算勝率が1601位以下

よくいえば新陳代謝を促す、悪くいえば力無き老ぼれを除外するためのルールともいえる。

これがどれだけ困難なものなのか……というと、そこまで厳しい条件とはいえない。例えば2023年前期時点での審査対象選手は1614人だった。引退を勧告されるのは1614人のうち14人。割合にして0.8%ほどである。

とはいえ、1600人枠ルールによって人生を左右されるレーサーも、もちろんいる。

『レーサーの家』(駒草出版)で取り上げられる本吉正樹というボートレーサーがその1人だ。

SGのような大レースでしか舟券を買わない俺は本吉が上手いのか下手なのか、穴を演出できるレーサーなのか、そうした諸々をまったく知らない。が、本を読むかぎり鳴かず飛ばずの成績がここ数十年続いていることは確からしい。

そもそもにしてA級を主戦場にはできなかった競技者。寄る年波の影響も無視できなくなってきた。57歳を迎えた本吉は、勝率順で1601位。レーサーとして生き残られる1600番目に勝率がわずか0.01足りないという、クビギリギリの状況に置かれていた。

『レーサーの家』では、そんな下層レーサーの半生、彼を取り巻く家族が描かれる。

粗雑濫造の類似品によって仕事が激減した職人の父、妊娠時に難聴を患った妻、ダウン症の息子、レーサーとしての師匠・弟子、早期引退して新たな道を進む友人……。一章ごとに“家”を取り巻く人々の半生が描かれ、次第に本吉正樹の置かれた状況、実像が浮かび上がってくる。

妻は言う。

うちの人の仕事で、なにが困るって、フライングっていうの、あれは困ります。レースで少しだけ早くスタートを切ってしまう、あれのことです。あれをすると、そのレースは欠場になってしまうだけでなく、厳しい罰則があるんです。うちの人、短期間に2回もあれをやってしまって。90日間もレースに出られなかったことがあったんです。後輩レーサーの奥さんが、「フライング貯金をしとかなきゃ駄目よ」って。だって、レースに出られないってことは、その間稼ぎがゼロになっちゃうんですから。それに、あれをやってしまうと、スタート練習雨をさせられにわざわざ愛知県まで行かなければならないんです、しかも自費で。「前日から行って泊まりたいんだけど」なんてうちの人がいいだしたときには、冗談じゃないわよ! どうせ名古屋で飲む気でしょ! 当日の朝早く起きて行きなさいよ! と怒鳴ってやりました。

母は言う。

うちの人は、人生でいちばん嬉しかったのは、あの子が初めてレースで優勝したときだったと思います。晩年になって脳梗塞で倒れて、体が不自由になってからも、片手でスポーツ新聞を捲っては、あの子の成績を気にしていました。それなのに、あの子ったら、江戸川での優勝戦で先頭を走っていて、ぜったいにこれは優勝だと思ったのに、最後の周に抜かれちゃったんです。いったいどうしたのよって訊いたら、優勝したらなんてコメントしようか考えていたら気づいたときには抜かれてたんだよ、だって。あんたはバカか! 優勝コメントなんて、ゴールしてから考えればいいでしょうよ! って、もう、怒鳴ってやりましたよ。

長男は言う。

子どもだった頃は、父の仕事のことは、あまりよくわかっていませんでした。いつも家にいなくて、ときどき帰ってくると、地方の美味しいお土産を買ってきてくれるから、なんだか楽しそうな仕事なんだろうなと。ただ、父が帰ってきて嬉しかったのは、お土産ぐらいのものでした。家にいないことが自然で、家にいることが不自然というか。いつもは母と子どもたちだけで穏やかに暮らしていたのに、父が帰ってくると、厳しくて、怖くて、口喧しくて。いまおもえば、仕事のストレスや、つまらないことなんかも、きっとあったんでしょうね。レース後は、いつも酒を飲んで帰ってきました。酔っているときの父のことも、好きではなかったですね。

ダウン症の四男は、家族の間をつなぐ鎹として愛されながら、父と行く“おんせん”を楽しみに、勝負の世界へと向かう父を無邪気に送り出す。

書籍の最終章。本吉正樹の去就がついに決まる局面は現実のものとは思えないほどドラマチックなものになっている。

地元・江戸川での5日間のレース。出走が予想される8レースのうち、1レース勝っても、2レース勝っても、3レース勝っても、1600位以内に入れるのかは微妙、といった厳しい条件のなか、彼はどんなレースを繰り広げるか――。

そして、“家”を取り巻く人々はその結果を受けて何を想うか――。

著者の演出過多な文体は好き嫌いが分かれるところに感じられるが、俺の場合、良質なテレビドキュメンタリーを見終えたような読後感で本を閉じた。誰の人生にもドラマが潜んでいることを讃歌する、埋もれるには惜しい一冊。そんなところ。

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