はたして俺ならどうできた? 映画監督のインティマシー・コーディネーター拒否問題
主にドラマや映画の性的なシーンの撮影現場で、俳優の心情、演技面での不安をケアし、よりよい映像を撮れるよう調整する専門家、インティマシー・コーディネーター(IC)が注目されはじめて5年ほどが経つ。
いまだ、日本では数少ない専門職として紹介されるケースが多いものの、国営放送のドラマでもICが採用されていたり、その需要、重要性については、一定程度知られているといえよう。
ドラマや映画のスタッフロールでもよくクレジットされており、ジェンダーバランスやコンプライアンス意識なんて枕詞を使わなくとも、当たり前に(それこそアクション映画に専門のコーディネーターが起用されるように)重宝される存在となりつつある、と門外漢ながら実感している。
そんな中、Webメディア「ENCOUNT」が7月4日に公開した記事
〈主演女優オファーに難航、「10人くらい」に断られ⋯約10年かかった男女の性の格差を描いた 『先生の白い嘘』〉
での、三木康一郎監督の発言が物議を醸している。
主演の奈緒から「インティマシー・コーディネーターを入れて欲しい」という要望があった際に、三木監督はすごく考えた末に「入れない方法論を考えました。間に人を入れたくなかったんです。ただ、理解しあってやりたかったので、奈緒さんには、女性として傷つく部分があったら、すぐに言って欲しいとお願いしましたし、描写にも細かく提案させてもらいました」として、俳優の要望を断ったというのだ。
“理解しあってやる”ために第三者の専門家を入れるのだが……?
奈緒の至極真っ当な要望がいつなされたのか、どこまでを視野に入れての訴えだったのかーー性被害の蔓延る環境で育った元ジャニーズのHiHi Jetsに所属する猪狩蒼弥に対する気配りもあったんじゃねえの? とすら類推してしまうーー、どのようにやり取りが交わされたのか、その後に奈緒は何を思ったのか……。仔細はわからない。
なんにせよ、「性」がメインテーマである原作の映画にして、主演俳優がICを要望し、それが監督によって跳ね除けられたという残念な事実は確かだ。
それにしても、なぜ監督はわざわざ愚行を口外してしまうのか。
要因の一部たりうるのは、
①作品のテーマ/主演俳優の意志・人権に関わる問題でありながら、製作体制(ICの役割そのもの)によって及ぼす影響を矮小化していた
②監督と俳優という権力勾配に無自覚だった(「言ってほしい」と伝えられたけど「言えない」なんて構造は珍しくない)
といったところになろうか。
そりゃあ原因は一元化できるものでない。が、俳優への対応について、今回のインタビューを読むかぎり、三木監督の対応それ自体を擁護する余地がないのは俺の中での紛れもない決定事項、となる。原稿チェックで当該箇所に赤字を入れないのだから……。
と、つらつら書いたものの……。とはいえ、とはいえ……。俺はどこかで三木監督の対応を断罪するのに憚りもある。当然擁護はできないが、断罪もできない。
なんだ、俺が監督と同じ立場だったとして、俳優からの要望に応え、すぐにICを導入するスマートな対応ができたろうか?
ICを入れた慣れない製作環境に対する直感的な拒否反応も生まれよう。すでに座組が固まっているのに大人数に影響を与えかねない人員変更を大回しできないケースもあろう。もしかすると、監督という肩書きは人を夜郎自大にしてしまうのかもしれない。また、決して予算的にゆとりがあるわけではない製作環境において、追加の予算を確保できずに、説得という名の事なかれ主義に走ることもあろう。
映画は大人数でつくられるものであり、IC導入の一つの枷たりうるのが、それを拒否する人間がいたときの調整、とはよくいわれることで。その可能性を盾に、一人の要望に対して周囲の説得に走れるかどうか。俺は何ができるだろうか……。
なんにせよ今回の物議が個人攻撃、要は三木監督ーーなりプロデューサーなりーーを責め立てるものにはならず、なぜそうなってしまうのか。どうすればよかったのか。といった方向に話が向かっていくのが健全なんじゃねえの? といったところ。
以下、完全な余談だが、「ENCOUNT」は2022年にICの西山ももこのインタビュー〈映画界“性暴力問題”で注目 インティマシー・コーディネーターが語る世間の誤解〉を公開している。
日々数十本の記事を公開する中小Webメディアにして、過去に公開したすべての記事の内容を責任者が把握するのは困難。とはいえ、メディアとしての態様が少々あべこべなんじゃねえの? とも考えてしまう。
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