問うとはどういうことか
まとまった休みがあると、本屋に行く。
その時々に興味のある本を買って、読むのが楽しい。
今回、読んだのは「問うとはどういうことか」(大和書房)。
「問う力」「問う方法」について書かれている本だ。
改めて考えると、これまでの学校教育に求められていたのは、いかに問いをつくらない生徒を育てるかであった。それは、工業化社会の中で、マニュアルに沿って動く人間こそが必要とされていたからだろう。
校則にしてもそうだ。例え、一般常識とかけ離れていたとしても、文句を言わずに守ることこそが、学校にとって生徒に教えるべき姿勢だった。そういう意味では、理不尽な校則も教育的な意味を持っていたといえる。
しかし、これからの学校教育で必要とされてくるのは、問いをつくる力を持った生徒を育てることだ。校則であれば、なぜそのようなルールが存在するのか問い、考え、自分の意見を発信することが大事になる。
問いをつくり、考え、探究することで学び深める教育を行うために、アクティブ・ラーニング、主体的で協働的な学習などの必要性が提案され、また「総合的な探究の時間」などが行われている。
しかし、そのような時間をつくったとしても、問いをつくらない生徒を育てるマインドは学校教育に根深く存在する。そもそも集団生活においてはルールを重視せざるを得ず、問いをつくる生徒を受け入れるだけの余裕はそこには存在しにくい。
この問題を解決するには、人間関係の築き方を変える必要がある。これまでの教室は、教員と生徒全員とが、放射線状につながっている構図だった。その構図では、教員が全体を統括せざるを得ない。
そうではなく、教員も含め、教室にいる全員が蜘蛛の巣のようにネットワークを張っていく構図に持っていく。互いに関係性を持ち、教室全体が有機的に動いていく仕組みを作ることが、新しい教育における教員の仕事ではないだろうか。
しかし、実はそのような教育は、生徒の自治を大事にする学校では、授業の外で昔から行われていたのかもしれない。特に、大正時代の自由民権運動の頃に生まれたような学校はそのような機運があるのではないかと感じる。
そう考えると、一番時代にそぐわないのは、ある程度落ち着いている、生徒を緩やかにうまく管理してきたような学校であろう。何かの本で、「マイルドな管理主義」と評されていたような学校である。
話を戻すと、「問うとはどういうことか」という本は、これからの時代に必要な問いをつくる力について、とても論理的にアプローチしており、非常に有益であった。
今後、私もこの本に学び、様々な問いを立てながら、生きていこうと感じた2024年の読書始めであったのだった。