ひとしずくのスペクトルム
見上げると丸い空だけが見えた
わたしは嬰児籠の中で起き上がろうと手足をばたつかせた
ようやく藁の淵を掴みよろよろと這い上がる
目の前に鏡のように白っぽく輝く田んぼが広がった
母の姿を探した
広がる水面に餌を探す動物のように腰を屈めた数人の中に
母の後ろ姿があった
わたしは母を求め嬰児籠から這い出そうともがいた
突然からだは中に浮き草むらに落ち
土手を転がりながら田んぼに水音をたてた
気がつくと母はわたしの両足を持ちげ
逆さ吊りの泥だらけの背中をパンパンと叩いていた
私は泥水を吐き出した
泣いた
精一杯泣いた。
周りのおばさんたちの笑いが甲高い声を発した
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まるで怪獣の叫びのような風と雨に家全体がギィギィと軋いでいた
今迄の台風の中で王様だ!と怖いながらも身体中がワクワクしていた
でもわたしは次第に兎のことが心配になり
父や母が止めるのも聞かず懐中電灯を両手で掴み納屋に走った
ガタゴトと震えるような真っ暗な納屋の中
懐中電灯の光に兎たちがちぢこみ固まっていた
わたしは3羽の兎を胸に抱え藁山の中に丸くなった
兎の小さな震えを感じて涙が出た
父がやってきてわたしと兎を母屋に連れ戻った
目を覚ますと何事も無かったような静かな布団の中
兎はわたしの周りをぴょんぴょん跳ねていた
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家の裏の3つの納屋には
馬、和牛、豚、羊、ヤギ、鶏、アンゴラ兎
そして庭にはいつも一緒のクロが居た
5人兄姉の中で末っ子のわたしは兎係だった
毎日の餌やりと掃除と毛並みの手入れ
指先と頬に感じるふわふわした感触がとても好きだった
ただ豚は恐かった
鼻の長いランドレースは身体も大きく
餌を食べる時の歯をむき出す姿は恐ろしく恐怖だった
だから母の手伝いで餌をやる時はいつも豚に強がった態度を取っていた
売られる事が決まった頃になると豚も牛も馬も羊もおとなしくなり
夜中には時々弱々しい声を発した
ある日ヤギも売られることになった
そして馬も羊も売られた
知らないおじさんに連れ出される彼らをただただじっと見つめてるだけだった
そして兎も売られた
わたしは子ども心に本当に悲しい目を知った
でもしばらくすると子どもの牛や豚や兎がやってきた
わたしはまた兎係になった
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5人兄姉の中
末っ子の私だけが何故か幼稚園には入れてもらえなかった
近所の友だちが幼稚園に行く姿が悔しかった
友だちが絵を描いてくる
工作を持ってくる
みんなで歌いながら帰ってくる
それがとても悔しかった
きっと初めての嫉妬だ
朝から午後まで幼稚園の時間帯はいつも独りだった
私は毎日絵を描き始めた
寝静まった布団の中でも兄の引き出しから盗んだ小さなペンライトで描いた
どう描いたら良いかわからなかったので
兄姉の雑誌や漫画を見ながらただ真似て描いた
いろんな工作もした
物置にあった古いラジオや目覚まし時計もみんなの目を盗んでは分解し壊した
文字が読めないけど色々な本や雑誌を眺めた
その中の絵や写真が好きだった
その中から戦車や戦闘機やお姫様や動物の絵を鉛筆やクレヨンでひたすら描いた
そして友だちに見せびからせた
なかでも写真を見ながら想像で描いた女の人の裸の絵は
今思うと決してちゃんとした女性の身体になっていなかったが
男の子の中で人気になり密かに回された
ただ歌は歌えなかった
楽器もできなかった遊戯もできなかった
それはとても悲しかった
だから私は周りの子どもたち以上に
絶対に上手な絵が描けること工作ができること
みんなが知らない本や雑誌で観た世界を話すこと
そのことが秘かに自慢だった…喜びだった
私にとっては野山や林や川の探検とともに
大切な独りだけの楽しみだった
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まだ小学校に入ってまもない頃
父の側に何時も居た
父のいろいろな話を聞くのが好きだった
父がまだ若かった頃に山で出会った大蛇との格闘
山深い草地で突然出会った大蛇は
父の背丈ほどの鎌首を上げシャーシャーと襲いかかってきたので
手に持っていた草刈り鎌をめちゃくちゃに振り回しながら戦いなんとか逃げ延びたその時の傷がこれだと腕を見せてくれた話
また同じく夕暮れ近い山の奥で
鬱蒼とした杉の幹をコーンコーンと叩く音がしてその音の方に近づくと
音は消え別の方からまたコーンコーンと鳴り
次第に方角がわからなくなり迷子になってしまい
死ぬ思いをしながらなんとか山を降りた
あれはムジナで化かされ悪戯されたんだよという話
または山深い渓流の岩の下の小さな洞窟の中に入ったら
中は広い空間になっていて無数の小さな光が舞っていて
その中でも一際輝きを放っている岩壁の大きな穴の中を覗くと
色とりどりに輝くキノコに囲まれて
とても小さな羽を持った女の子が小さな嬰児籠の中で眠っていて
父がそっと手を差し伸べようとしたら
突然岩が崩れだすような音が響き岩場が揺れ出したので
慌てて洞窟から逃げ出した
あれは絶対妖精だったという話
それから夜遅くに家に帰り入口の木戸を開けると
土間の上がり框に父の親父がうな垂れ腰掛けていて
横に腰掛けながら「親父…!」と声を肩に手を差し伸べると
その手がスーッと身体を通り抜けそのはずみで横に倒れた父は
驚き慌てて居間に入り障子を閉じると
障子の破れた穴からギョロっとした目が覗いたので
その恐怖に母の手を握って家の外に飛び出し知人の家に逃げ込んだ
そしてその翌日に親父が亡くなった電報を受け取ったという話
そのほかにもモンゴルの牧草地を馬に乗って駆け巡った話や
戦艦の艦上でアメリカ軍の飛行機の機銃掃射を受け
左耳を負傷しそれから左耳が聞こえなくなったという話や
天体望遠鏡の作り方やスキーの作り方
火山の実験方法や大工の道具の使い方など
とにかくいろんなことを話してくれた
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20年ほど前
ティム・バートンの「Big Fish」が公開され観た時
この映画の老エドワードの話と同じように
わたしは父が話してくれたまるでおとぎ話のような話も
やはり真実だったんだと想いとてもあたたかな気持ちになり
それは今でもうれしいSpectrumな美しき記憶
(*ビッグ・フィッシュ→「誰も信じないホラ話」という意味合い)
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