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西部邁『論士歴問:大衆社会をこえていく綱渡り』(プレジデント社、1984年):面白い本を読もう⑴

属性柄、職業柄、古本(学術的には古書というべきか)を頻繁に購入するし、いわば湯水のように使う(これは「水と安全はタダ」という神話を反映した慣用句か)。

今回は、最近読んだ古本のなかから面白かった1冊をご紹介する。

概要

本書『論士歴問』は、様々な雑誌に掲載された対談・鼎談(注:2人での対話は対談、3人だと鼎談)をまとめた対談集である。西部と対談・鼎談した人物は、今日の視点から考えると、かなり豪華な面々といえる。

吉本隆明「大衆をどう捉えるか」:初出『エコノミスト』1984年2月7日・14日号

富岡多恵子「自覚的喝采のすすめ」:初出『朝日ジャーナル』1984年1月6日号

鶴見俊輔「ビジネス文明のなかの大衆」:初出『思想の科学』1984年1月号

長谷川慶太郎「書斎と現場」:初出『経済セミナー』1981年1月号

二階堂進「政治と言葉」:初出『文藝春秋』1984年6月号

松本健一・井尻千男「戦後民主主義とナショナリズム」:初出『正論』1984年5月号

村上陽一郎「相対主義の克服」:初出『経済往来』1984年4月号

山崎正和「高度大衆社会と知識人の姿勢」:初出『Voice』1983年11月号

江藤淳「国家と知識人の役割」:初出『正論』1984年9月号

あとがき「現代的知性への懐疑」(聞き手:井尻千男):初出『Voice』1984年5月号

全体を通じて、現代日本社会(というか1980年代前半の日本社会)について、批判的検討を行ってはいるのだが、まだまだ、経済成長するのが当たり前、「経済大国・日本」が当たり前、人口が増加するのが当たり前、子どもたちが多くいるのが当たり前、の社会状況なので、今日から見ると、そうは言っても、トーンは明るく感じてしまう。やはり、世情に「勢い」があったということだろうか。

40年近く経ち、経済成長伸び悩み、「途上国化する日本」(たしかiPhoneの価格の国際比較で、日本が1番安かったという記事を最近見かけたような)、人口減少社会、超少子化、という令和期日本との違いを行間に感じてしまう。

村上陽一郎との対談「相対主義の克服」

さて、各人いろんなテーマで、興味深い言及を種々しているのだが、このなかでも白眉は、村上陽一郎との対談「相対主義の克服」かなと感じる。

今日、価値相対主義、多元主義がかなり浸透(蔓延?)し、逆に基軸・基準となるような価値観や規範が弱まった(喪失した?)結果、かえって人と人、組織と組織との対話というか議論(chattingではなくdialogue)が成り立たなくなっているように思えるが(すべての意見が等価なので是非、甲乙なんてない)、西部と村上は、価値を相対化しつつ、しかし、いかに相対化をも克服するか(相対主義に堕さないか)、という「考えること」に内在する二律背反の困難さと重要さについて、真摯に議論しており、ハッとさせられる。

こういう対談を読むと、いわば「頭のいい先輩たちの高度な議論を横の席で拝聴させてもらっている」後輩の気分に浸れて、対談集を読む喜び、のようなものを感じられる。

江藤淳との対談「国家と知識人の役割」

最後に、江藤淳との対談「国家と知識人の役割」についても触れておく。

江藤といえば、後年(というかこの頃にはすでに)、保守派の論争家として、かなり多くの敵(歯に衣着せない人だったので)がいた人物だが(こうした点は盟友・石原慎太郎とも似ている)、ここで丸山眞男についてかなり好意的に述べており、思想的には両者は真逆ともいえるが、面白かった。

江藤によると、1958年の暮れ、『日本読書新聞』の企画で、丸山眞男らにインタビューすることになり、江藤が丸山の書斎を訪問したという。ちなみに当時、江藤はまだ20代、丸山は40代半ばである。江藤は以下のように述べている。

「当時、丸山さんといえば、官学の法学部教授ではあるし、日本の良心だといってジャーナリズムでももてはやされていたんですから、若輩のこちらとしては相当緊張して行ったはずなのですが、書斎の、掘り炬燵に招き入れられて、自分の学生でもあるかのようにわけ隔てなく話して下すった。とても感じがよかったんですね。人間として好感を持ちましたね。そのとき。」(本書、292頁)

丸山眞男の書いたものや関係者の証言などを読むと、丸山という人は、「内と外」の意識が強い人だったのではないかと推測する。つまり、身内(特に東大法学部の後輩など)にはかなり、というかものすごく親切、「外の人」には、もちろん無礼ではないけれど、かなり素っ気ない、儀礼的(今で言うところの「塩対応」)だったのではと思うのである。もちろん、超有名人だったので、見ず知らずの人には警戒心もあったのだろうが。

自分の門下生と同じ年齢くらいの若い文芸評論家が、年の瀬の忙しくて寒い中で、わざわざ自分のところにインタビューしに来るとなると、親切心から「自分の学生でもあるかのようにわけ隔てなく」話そうと思うのが、人情である。

やはり、その人の思想、理念を考える上では、その人が書いたものや話したことを読み込む作業は必須だが、こうした日常生活における人間性の面、何気ない立ち振る舞いについても、ちゃんと考えてみないと、人の評価は見誤るような気がする昨今である。

ありがとうございます。