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文トレDAY38 6-高校時代 倒産+夜逃げ

小6の頃、転機がおとづれる。
我が家は小学校のすぐ横にあった。その学校の拡張工事に伴い立ち退きを強いられる。当時の私は、小6なので、いくらで我が家を役所が買い上げたのか知らない。今思えば、父が亡くなる前にこの文章を書いていたら、もっといろんなことを聞いて詳しく書けたのに・・・と少し悔やまれる。その資金とおそらく銀行からいくらか借入て、東住吉区に新規に工場と住居を建設する。
私が中学1年になった夏休み、我が家は東住吉区今林に引っ越しした。
西成時代同居していた父の弟、妹2人は、すでに結婚して家を出ていたので、新居の住人は、私と父と母、妹、弟、祖母の6人。
1階が会社事務所と住居の玄関。
2階は風呂、トイレ、祖母の部屋(2部屋)、リビング、キッチン。
3階は僕と弟の部屋、妹の部屋、両親の部屋、リビング、ミニキッチン、トイレ。
4階は屋上。
住居棟の裏には、スレート葺の工場棟があった。住居棟の2.5倍ぐらいの広さがあった。

なかなかの大邸宅である。
地の利はあまり良くなったが、新しくて広々とした環境にすごく満足して生活を送っていた。

アグレッシブなおばあちゃん。
おばあちゃんの名前は朝江(あさえ)。100歳で他界。
お酒とプロレスとアクション映画が大好きな当時68歳。毎夜毎夜かどうかはわからないが、かなりの頻度でミナミの飲み屋に通っていた。

ある夜、3階の自室で目を覚ました。トイレの行こうとして、2階に降りる階段の前を通った時その異変に気づいた。いつもはこの時間消えているはずの2階の電気が点いているのだ。反射的に2階を見下ろすと、おばあちゃんが倒れている。
慌てて階段を降りると、さらに異変に気づいた。おばあちゃんの周りの床に血溜まりができている。
慌てて階段を駆け上がり、両親を起こす。
「お、おばーちゃんが大変!」

その後の記憶が飛んでいる。救急車を呼んでいたことは覚えている。

おばあちゃんはその日、家の鍵をもっていなかったのか?

ならば、呼び鈴を押せばいいのだが・・・
泥酔した状態で気持ちが正常ではなかったのかも知れない。

1階の工場に入るドアのガラスが割れていた。ガラスには血糊が付いていた。
おばあちゃんが頭突きかエルボードロップでガラスを破り、割ったガラスの隙間からドアのロックを解除して、工場の2階に行き、そこから住居に入ったのだ。
プロレスのシーンが蘇ったのか・・・・
映画のアクションシーンが蘇ったのか・・・・
酔った勢いとはいえすごいなぁ・・・・

石かなんかでガラスを割って入ることもできたのでは・・・?

謎???

幸い私が早期発見したので、命の危険までにはいたらず1ヶ月ほどで退院。
おばあちゃん元の生活スタイルに戻ってしまった。
私は、アマチュア無線技士の参考書を買ってもらう。

倒産+夜逃げ。
高校2年の夏休み前、家に帰ると、2階の座敷で、父と会社の幹部がなにやら忙しげに書類の山を見ながら、そろばんで計算していた。
なんとはなしにいつもの空気感が違うことは高校生の私も気づいてはいたのだが、新しく買った関数電卓を自慢したい欲求には逆らえなかった。
「計算ならこっちの方が早くできるで・・・・」
さきほどの空気感のまま、電卓を見る父。
「いいからあっちいってなさい」と言われたかどうかは覚えてないのだが、電卓が必要ではない。(それどころではない)状態だということはわかった。

そんなことがあってから数日後。
工場にある大きな機械は、無くなった。
工場に来てくれる職人さんと通学のとき、顔を合わして挨拶するとも無くなった。
そう、父の会社は倒産したのだ。

いままで事務所にいた人はいなくなり、代わりに見知らぬ人たちが寝泊まりをするようになった。

高校に通学するとき否が応でも目を合わす。かなり屈強な肉体の持ち主であることがわかる。腕まくりした太い腕には、刺青が見えた。
そう、そういう人たちなのだ。
「おはようございます。いってらっしゃい!」 風貌の割には、すごく丁寧な言葉をつかうこの人たちは、正直、怖いと思った。大阪弁の濃いイントネーションは(隠そうとしても隠せない)その筋の香りがする。まるで任侠ものの映画のようである。
1階の住人たちがいったい、どういうことをしているのか、興味があった。親からは、何も注意を受けていなかったが、あんまり詮索するべきではないと言うことはわかっていた。ある日、何気なく事務所を覗くと鉄アレイやバーベル、ベンチ台などが置いてある。体を鍛えているようである。
高校2年のとき、私は体を鍛えるため、鉄アレイを買った。ここでも、いらん好奇心が自分の行動をくすぐるのだ。あの人たちに私の鉄アレイを見せて自慢したくなった。が、やめた。やめててよかったと思う。

それからの記憶が途切れている。
あまりに過酷な体験だったでもしすると感情をシャットアウトしてしまったのかもしれない。

記憶は、生野区の林寺の借家に飛ぶ。
1階平屋建て、バラック、うなぎの寝所のような家だった。
玄関入って右がキッチン、
4畳半が2部屋、両親と妹その奥にトイレ、トイレの横は昔は小さい庭があったところに床を敷いて、上には、ビニールの屋根がはってあった。離れに小さい風呂、3畳ほどの洋室。

ここが新しい我が家の住居になった。


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