人生は名の無い感情を探す旅

最近、人生は名の無いモノ(物理的、精神的、両方含む)を探す旅だと思っている。

この世界は名前の付いているモノで溢れ過ぎている。それは時として世界の狭さを知らしめ、敗北感をぼくに与える。自分が感動したり、すばらしいと思ったことに既に名前が付いていると、「結局この名の付いた世界の中で感動していたのか自分は!みみっちぃな!クソ!」と思うわけである。如何せんぼくは、人と同じは美しくない!という青さを捨てたくない人種なのだ。もちろん、そこにリスペクトがあれば話は別であるが。

では、名の無い感情に出会うにはどうしたらいいのか。今ぼくが思う方法は2つある。

1. 本能を大切にする
2. 日常生活の解像度を上げる

ありきたりだが、この2つが重要だと思うのだ。

1. 本能を大切にする

本能で行動した先にあるモノにあえて名前を付ければ、「怒り」と「快楽」だ。しかし、これらは単品で訪れるのではなく、融合した「怒り+快楽」というわけの分からない状態で押し寄せる。体感したことのある人からすると、あぁーと思うかもしれないし思わないかもしれない。体感したことの無い人からすると何いってんだこいつは、となるだろうが、どちらでも構わない。少なくともぼくは本能的直感にしたがって行動すると毎回この感情にさいなまれる。

2. 日常生活の解像度を上げる

解像度という陳腐ワードを使うのは癪に触るが最も適した単語だと思うので使う。さらに言えば、2つ目に関しては仮説にすぎず、まだ検証できていないので多くは触れられない。要は、見えていないものを見なければ、まだ自分の見えていない世界を見ることはできないということである。都会の生活で解像度を上げるのは厳しい。人の欲望による雑念が多すぎる。田舎はその点、空気、生活、人が澄んでいるので良い。うん。

おわり。

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