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第168回芥川賞候補作について

第168回芥川龍之介賞の候補作は、以下の5作です。

安堂ホセ「ジャクソンひとり」(文藝冬季号)
井戸川 射子「この世の喜びよ」(群像7月号)
グレゴリー・ケズナジャット「開墾地」(群像11月号)
佐藤 厚志「荒地の家族」(新潮12月号)
鈴木 涼美「グレイスレス」(文學界11月号)

あらすじは他で色々みれると思うので
ここでは私の個人的見解や感想を書きます。
一部、ネタバレっぽくなる部分もあるので未読の方はお気をつけください。

まず【ジャクソンひとり】安堂ホセさん

冒頭で「ここは日本」とあるにも関わらず、ジャクソンの勤め先の所属選手であるゼンが出てくる事で「ここは日本」なのに海外感が出てくる。

そのままフードコートの選手たちや公園すらも何となく日本っぽくなくて、どんどん海外感が増してくる。
その上、YouTubeで見るのが「嘘とパイ投げ」なるもの。もう完全に海外っぽいじゃないか。

というわけでこの作品は読み進めるほどに「ここが日本」である事を忘れそうになる。

それでありながら、この作品には日本人への皮肉が込められていると感じるのだ。
それは警官の職質や、ジャクソンたち4人が『そっくり』だという点。

日本人からみたら、黒人もブラックミックスの人も似たように見える、見分けも余程仲が良くなければつかないかもしれない。

それは海外での黄色人種への見方もそうだろう。
だが日本は特に元々は島国で他人種がいない国なので、無意識での外国人や外国人に見える見た目の人への色眼鏡があるのかもしれない。

この作品はそこをひっそりと指摘されているように思える。
アメリカのスラム街辺りの話なんじゃないかと思えてくるのに「ここは日本」なのだから。

というわけでこの作品、個人的にとても良い作品だったと思う。


次は【この世の喜びよ】井戸川射子さん

こちらの作品はフードコートで出会った少女の苦労と傷付きにグサリとくる。

お母さんの「男の子がほしい」と「三人子どもは欲しい」に付き合うために犠牲になっている話をサラリとする少女。

しかもお母さん専業主婦で保育園入れないから、この少女が弟である赤ちゃんの世話をしてるって、もう私などは読んでて「虐待やん!」と思ってしまったほどなのに主人公の穂賀さんは冷静に自分の子育てを思い出しながら少女の話を聞いている。

「うちの子たちはもう社会人と大学生で」という穂賀さんだが、家に帰った後に娘や夫にこの少女と職場のフードコートで出会った事を話している場面はない。

家族仲は淡白なのだろうかと思うが後半に出てきた娘たちを見ると仲が悪いわけではなさそうだ。

実は私はこの作品、とても良いと思うし刺さる言葉を書き出したりもしているのだが「好き」と言い切れないのだ。

それは読み返していて気がついた。
私は作品が好きになれないのではなく、穂賀さんが好きになれないのだと。

SOSをずっと出している少女に何となくのアドバイスはするものの、彼女に腕を掴ませないぐらいの心の距離を置いているように感じてしまう。

穂賀さん自身にその認識はないかもしれないし、穂賀さんなりに少女に何かを言ってあげたいという気持ちは伝わってくるけれど、少女の求めているのはそういうものじゃないと思える。

最初の頃に穂賀さんは少女が「本当にアドバイスを求めている」と感じたとあり、だからこそ聞いてあげる事以上に何か言ってあげる事を意識していた。

よく、女性は愚痴を聞いてもらったり相談事をしても解決策や助言を求めているのではなく、欲しいのは「共感」だというのがある。

少女もアドバイスだって欲しかっただろうが、それ以上に共感、それも育児の大変さの共感以上に母親に育児を押し付けられている事に対する大変さと子どもとしての寂しさの方こそ、穂賀さんに受け入れてもらい共感や慰めが欲しかったのでは無いだろうか、と思えるのだ。

というわけで私はそんな少女に感情移入してしまうためにこの作品というか、穂賀さんの事があまり好きになれないのである。

けれどしつこいようだが作品はとても素晴らしいものだ。


次は【開墾地】グレゴリー・ケズナジャットさん

この作品で私がまず感じたのは主人公の少年時代の心細さと母語以外の言語への思いだ。

何よりも、父親が母国へ帰っている時のラッセルの不安はとても感じる。
アミンはいてくれるが、実の両親がいないところにきての養父の不在はどんなにアミンと楽しく過ごしていても安心はできない。
それが上手く描かれていた。

そして英語とペルシャ語と日本語。
ラッセルは父親たちのように二つの言語を持つ者になりたかったのかもしれない。

父親にペルシャ語を習いたいと言ったが、習わなくていいよと、はぐらかすように言われた。

ラッセルは自分だけ入れない父親たちの世界に近づきたかったのかもしれない。

けれど父親はラッセルに母国を知ってもらうこと以上に、この国にきて英語を習得した苦労と、中東出身者である事でのアメリカでの大変さなどから、ラッセルにペルシャ語を習わせたくないように感じられた。

それは具体的には語られない。
けれど子どもであったラッセルも何か感じたのだろう、それきりしつこくはペルシャ語を習いたい話はしなかった。

自由になれるという言葉には納得できなかったけれど、父親は母国語を息子が知りたがることを喜ばないのだけは分かったのかもしれない。

「英語に戻ることも、日本語に入り切ることもなく、その間に辛うじてできていた隙間に、どうにか残りたかった」

これがこの小説のラッセルの思いの集約のように感じた。

私はこの小説、こういったラッセルや父親の気持ちが具体的に描かれているわけでは無いのに、ちょっとした場面で推測できるところが上手く描かれている作品だと思えてとても好きだった。

次は【グレイスレス】鈴木涼美さん

この小説は主人公がポルノ女優たちを見ている目が一種独特なようで、そこが気にかかる。

「彼女たちにもっと触れたいという欲望と彼女たちを立ち直ることが困難なほど否定してみたいという欲望が込み上げて、消えることなく今もそこにある」という思い。

そして彼女は自分の職業をメイクアップアーティストではなく「化粧師」と心の中で称している。
そのこだわりがポルノ撮影の現場での彼女自身の女性性の護りになっているのではないかとも思える。

精液で汚れた女性たちに触れて、化粧を直していく事が好き過ぎるために、同じ女性性であっても女性たちが仕事とはいえ、されていることに非難も嫌悪感も感じない。

そんな彼女を変えたのは日焼けの女優だったのだろう。

私にはこの小説で忘れられないところがあって、それが祖母が言った
「あなたもたまにはデートくらいしてくればいいのに、おばあさんとピザなんか食べてないでさ」
の部分。

これを発したのは祖母である。
大抵はおばあさんというものは孫に自分を名乗る時に「おばあさん」とは言わないのでは無いだろうか。
小さい子になら「ばーば」大きくなっても「おばあちゃん」が一般的では無いだろうか。

それなのに祖母は「おばあさん」と自分を言った。
それはこの時、祖母は「祖母」ではなく1人の女性として孫である若い女性と食事をしながら話をしていた感覚だったのだろうと。

それだけ祖母は「祖母」という自分自身の分類ではなく「女」になってデートもしていたのだろうと何だか生々しく感じた。

とはいえ、それは嫌なものではなく微笑ましいほどに可愛らしいものに思えた。

姪の名付け親になる叔母。
外車に乗り、外国に行きびたる母。
洋風の園芸をしながらヨーグルトやピザを食べる祖母。

活き活きとしている女性強しの家族が背景に見えるこの家庭とポルノ業界で働く娘は、ありきたりな道徳観で見ることなく読めて現場の卑猥な描写を読んでも心地よく読了出来た。

最後は【荒地の家族】佐藤厚志さん

主人公の祐治は「耐える人」だなととても感じた。

冒頭部分での仕事で筋肉が辛くても耐えて
再婚相手の妻に逃げられても耐え
最初に就職したところでの「しごき」にも耐え
雇った青年の堕落に耐えた。

それなのに祐治から何となくの負のイメージが感じられてしまうのは、再婚相手の知加子が頑なに会いたがらず逃げたところから、まるで祐治が暴力でもふるって,それに対して知加子が逃げたかのような印象を受けてしまうからかもしれない。

暴力(噛みつき)を受けたのは祐治の方なのに。

息子の啓太もあまり祐治になついているようには見えない。片親なのだし、男の子なのだから父親と触れ合いたがるかと思いきや、自分の都合のために一緒に街に出る程度。
同級生たちにトラックを見られたくない思いから、天気の悪い日に学校まで送ってもらう事も嫌がる。

決して祐治が悪い父親という描写は見られない。

あるとするならば、逃げられた再婚相手を追い続ける父親に母親を忘れたのかと失望する思いなのだろうか。

そしてその再婚相手の知加子は、何故逃げるように離婚して頑なに会いたがらないのだろう。
そこまでのことを祐治がしたとは思えない。

こちらも考えるとするならば、祐治が前妻の晴美を忘れられずいつまでも知加子を見ているようで見ていなかったから、という事でもあるのだろうか。

それにしても読みながら、祐治は色々と不憫に思える。
晴美を亡くした後に野本からの「大変のはお前だけじゃ……」の言葉。
確かに震災で多くの人が大切な人を亡くしているであろう。だからと言って、悲しみを薄くは出来ないし、その言葉で大切な人を亡くした人が悲しみを我慢しなきゃいけない強制にはならない。

個人的には辛い小説ではあった。


というわけで長々と書いたけれど
今回の第168回の芥川賞候補作を読んでの私の予想は

「開墾地」グレゴリー・ケズナジャットさんと
「ジャクソンひとり」の安堂ホセさんの
ダブル受賞がいいな(希望)です。

とはいえ、無難な予想をするならば
「この世の喜びよ」井戸川射子さんかなと。

発表が楽しみですね。

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