木漏れ日_空き_

木漏れ日の中でさようなら

 もうすぐ今年も終わりだというのに二人はまだ踏ん切りがつかなかった。古村のニューヨークへの転勤が決まり、これを機会に不倫の関係を精算してお互いの進むべき道を進もうと決めたはずなのに、今日もこうして会っていた。
 二人ともお互いにこのままずるずると関係を続けてもいい事はないと考えていた。だからもう別れようと決めたのだが、翌日オフィスで顔を合わせた途端いつもの二人に戻ってしまった。別れようと話し合った事など悪い夢でも見たかのように忘れてしまったようだった。

 
 今日のデートは真弓から誘った。休日のデートは久しぶりだった。真弓はどうせ古村は断るだろうと思って誘ったのだが、意外にも古村は誘いに乗ってくれた。だから真弓は待ち合わせ場所にコートを羽織り、見慣れたマフラーを巻いた古村が来ると、「大丈夫?」といたずらっぽく言うと、古村は顔を綻ばせながら「仕事だって言ってあるさ!」と返してきた。そんな古村を見て真弓は安心したのだった。二人はいつものように手をつないで、真弓が観たがっていた映画を観に行った。いつものように真弓が手を引っ張っていく。「早くしないと10時の上映に間に合わなくなっちゃう!早く!早く!」と真弓は言う。古村はそんな真弓にはにかんだ笑顔で応えたのだった。
 
 今日の真弓は異様にはしゃいでいた。映画館の中でも、観終わって外に出て街中を歩いている間も彼女はお喋りしどおしだった。古村は口を挟むことすら出来ずに、真弓の止まらぬおしゃべりにただうなずくだけだった。

 いつもの並木道を並んで歩きながら古村は真弓の喋りが止まるタイミングを待っていた。彼は今日こそ真弓に話さねばならない事があったのだ。だから真弓が口を閉じた一瞬のタイミングを見計って真弓に言った。
「あの、そこの喫茶店に少し寄らないか?話したいことがある」
 真弓は目を見開いて古村を見た。古村の目とその表情から彼が何を話したいのかわかりすぎるほどわかった。

 さっきとは打って変わりすっかり黙りこくった二人は喫茶店にはいると窓側のテーブル席に座った。古村は店内を見回して柱時計を見た。時間は丁度午後2時を回った所だった。しばらくするとウェイトレスがきたので二人ともコーヒーを頼んだ。古村はまだマフラーを巻いたままだった事に気づき、慌ててマフラーを外した。真弓はその一連の動作を見逃さなかった。彼女は今古村の脇に置かれた見慣れたマフラーを見て、ふと古村とデートにした時たびたびあのマフラーを巻いてあげたことを思い出した。

 真弓は向かいの古村を見つめた。彼と付き合い始めたときから終わりがくる事はわかっていた。だから別れる時も綺麗さっぱり未練など残さないように別れようと思っていた。しかしいざその時が来てしまうとそこから逃げ出したくなってしまった。関係を深めて行くうちに古村の存在がますます彼女にとって切り離せないものとなっていたからだ。
 古村は額に手を当て、どう真弓に話したらいいか考えていた。真弓とは三年前に彼女が直属の部下として配属されてきた時からずっと一緒だった。二人でプロジェトを行って行くうちに二人の関係は上司と部下から、同士のようなものになり、それが男女の関係になるまではさほど時間はかからなかった。二人で過ごした最初の夜を今も彼は覚えている。躊躇いがちだった古村を積極的に導いていった真弓。古村はそんな真弓にまるで立場が替わったみたいだなと冗談を言ったものだった。そして短い逢瀬の終わりに申し訳なく思う古村の気持ちを察して「私は大丈夫ですよ。決してあなたには迷惑かけないから」と笑顔で言った時のことを。彼はコーヒーを一気に飲み干すと意を決して真弓に言った。
「もう今日限りで会うのをやめよう。やっぱり俺たちはこのままじゃいけないんだ。この間もそうはなしあったじゃないか。俺たちがこのまま関係を続けても結局お互いの足を引っ張り合うだけなんだって。俺には家庭がある。君には輝かしい未来が待っている。二人の将来のために俺たちは別れなくちゃいけないんだ」
 真弓はあまりにもありきたりな別れの言葉に呆れた。深刻ぶった古村の表情がバカらしく見える。そのどっかから借りてきたようなセリフはなんなのだろう。古村の話は続いた。
「別に君に飽きたとかそういう事じゃない。ただこのまま関係を続けていると互いを傷つけることになるかもしれない。そうなる前に別れよう」
 古村はそう言い切ると口を閉じ、真弓の顔を恐る恐る見ながら彼女の返答を待っていた。真弓は話を聞き終わると冷めたコーヒーを飲み、それからうつむいて手をこめかみに当てた。
 真弓は古村と付き合い始めてから何度も来るはずの別れのシーンを想像していた。自分と古村は恋愛に関しては対等の関係だと思っていた。お互いに深く依存したくない。それが彼女が古村との恋愛で自分に決めたルールだった。だから別れる時もあくまで毅然として振る舞うつもりだったのだ。だけど、こうして今実際に別れを告げられると、そのあっけなさに拍子抜けして何も言えなくなってしまった。古村への返答を探しあぐねていた彼女はしばらく沈黙していたが、急に皮肉っぽく笑いながらこう言った。
「私見事に捨てられちゃったのねぇ〜!完敗だわ!」
 古村は真弓とは長い付き合いだった。彼女の性格は知り尽くしていた。真弓は自分の傷を他人には絶対に見せない女だった。だから今のような態度をとるのは予想できた。真弓がまた口を開いた。
「でも心配しなくていいよ!私切替は早い方だから!」
「すまない」
「謝らないで!もうお別れは済んだでしょ!これからはめでたくただの仕事仲間なんだから!」
 彼女はそこで一息入れ、そして続けてこう言った。
「私あなたの送別会にも行くし、空港までお見送りもするよ!だから私の事は心配しないでね!」
 真弓がそう一方的に喋っているのを聞いて、古村は少し不安になってきた。彼女がそう喋り続けることで冷静さを保とうとしているのがあからさまだったからだ。しかし今の彼に真弓にかける言葉などありはしなかった。

 喫茶店の会計の時、二人は別料金で払った。古村は代金は自分が払おうと言ったが、真弓が別料金でいいと言ったのだ。こんな事は初めてだった。昔だったら古村が払うか真弓が払うかでレジ前で口論になった事さえあったのに。

 会計が終わり連れだって外に出ようとした時、古村はマフラーを椅子に忘れてきた事に気づいた。彼は真弓にちょっと待ってて!といい慌ててマフラーを取ってきた。そして出で軽く叩いて埃を払い落とすと大事そうに首に巻いた。古村は顔を上げだが真弓の視線とかち合って思わず目を背けた。真弓は彼の行動をずっと見ていたのだ。

「少し歩こうか」と古村は言った。二人には馴染みの並木道だった。いつもデートの最後はここだった。そして今日で全てが終わるのだ。
 古村は腕時計を見た。時間はもう4時になろうとしていた。真上にあった日もいつのまにか二人の後ろに降りていた。彼はもうそんなに時間が経ったのかと思うと、急に首元に寒気を感じたのでマフラーを巻き直したのだった。顔を上げるとまた真弓の視線にかち合った。真弓はすでに歩きはじめていた。
 古村が追いつくと真弓は「ずっと気になってだんだけど……」と言ってきたので、彼は「えっ?」と聞き返して真弓の方を向いた。
「そのマフラーどこで買ったの?」
「いや、買ったってわけじゃなくてその……」
 古村は途中で言葉を呑み込み真弓を見た。彼女は急に険しい表情になっていった。真弓には全てわかっていたのだ。
 黙ったまま先を歩く真弓の背中を見ながら古村はもう潮時だと思った。あとは別れの挨拶をしてサヨナラだと考えていた時、真弓が振り返り古村にこう言ったのだ。
「私たちってどういう関係だったんだろう?」

 真弓は二人が付き合いはじめた頃に同じ事を聞いてきた事がある。
「私たちってどういう関係なんだろう?」
 その時古村はこう答えたものだった。
「さあな、世間一般じゃ不倫と呼ばれてる関係なんじゃないか?」
 すると真弓はこう話したのだ。
「まぁそうなんだけどね。私としては違うのね。別に私あなたを独占しようともあなたに依存しようともしているわけじゃないし、ただこうやって会話したりさちょっと温めてあってるだけでいるだけでなんか満たされた感じがするの。へんかな?」
「正直言って俺は君ほど俺たちの関係について深く考えてない。いや、全く考えてないんだ。ただ君の言うように満たされるっていうのは感じた事はある。というか、欠けてるかけらみたいなものがはまったような感じがな」
「『ぼくを探しに』みたいなこと言うじゃん」
「なんだそれ。また小難しい本か?」
「絵本だよ。今度読んで感想聞かせてね!」
「いい歳して絵本なんか読めるかよ!」
 その後古村はこう言って強引に会話を切り上げたのだった。
「結局どんな関係であろうがなるようにしかならないよ!人間なんてどんなに考えてたってその時その時の判断しかできないんだから!」

 今、真弓は同じ問いを過去形で言ったのだ。古村はハッとして真弓を見た。彼女は立ち止まり古村の答えを待っている。古村はようやく口を開いた。
「ゴメン、考えたけど全然答えが出てこない。あの、いつか言ってたあの絵本読んだよ。『ぼくを探しに』ってやつ。いい話だったよ。ずっと感想言えなかったから今言っとくよ」
「はぁ?なんなのそれ!相変わらず何にも考えてないんだから!結局最後までそれなの?」
 真弓は古村が間抜けな事を言うといつも今のような呆れた顔をしたものだった。いつもだったら苦笑いを浮かべてやり過ごすこともできただろう。しかしもうそれは出来ない。
 古村は真弓を真正面から見つめて言った。
「ゴメン、ほんとに……でも今までありが……」
 そう別れの挨拶を言い切ろうとした瞬間だった。真弓はいきなり古村の下に駆け寄って抱きついたのだった。彼は真弓をよろけながらも全身で受け止めた。マフラーに埋もれた真弓は泣いていた。
「おい……」
「ゴメンね……もう少し綺麗に別れてあげるつもりだったのにやっぱり私できないよ……」
 古村はそんな真弓が急に愛しくなり、思わずマフラーに埋もれて泣く真弓を抱きしめようとした。だが彼にはそれができなかった。

 突然真弓は古村から離れて駆け出した。古村はハッとして胸元を見、そしてマフラーを手に駆けていく真弓を目で追う。彼女がマフラーを抜き取ったのだ。
 古村は「おい!」と真弓に呼びかけ、彼女の所に行こうとした瞬間、真弓は立ち止まりそして追ってくる古村を呼び止めた。
「来ないで!」
 古村は真弓を見た。彼女はマフラーを手にそこに立っていた。
「寒いから、しばらくこれ借りるね!大丈夫だよ私!後でちゃんと洗ってかえすから!」
 そして真弓はマフラーを巻きながら笑顔で言った。
「今までありがとう!そしてさようなら!」

 マフラーを真弓に奪われた古村は急に首のあたりに寒気を感じた。いや、それ以上に真弓とともに今まであったはずの何かが突然奪われたような気がしはじめた。真弓はマフラーと一緒にかけらまで奪っていったのだろうか。古村はマフラーと真弓に奪われたかけら取り戻すために、彼女の名前を心の中で何度も呼びながら真弓を探した。しかし、涙と木漏れ日を抜けて目をまともにつき射す夕日のせいで何も見えなかった。

〈完〉


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