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あたら桜のとがにはありける
桜はただ咲くだけのもの
ことしは桜がはやいそうです。
※このnoteは他ブログに令和5年3月21日投稿した記事の転載です。現在他ブログから記事を移送作業中なので、タイムリーではありません。桜恋待ち気分で加筆しています。
こどもの頃には容易に作ることができた「かまくら」も、年々雪が少なくなり今ではなかなか難しくなってきました。桜も(私の中では)ゴールデンウィーク頃に咲くものというイメージがありましたが、今年は3月下旬に咲くそうです。
能の「西行桜」の中でワキの西行は、
『花見んと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜のとがにはありける』
と歌を詠みます。
自分は静寂を好むのに、我が庵に花見客が頻繁に訪ねてくるのは、咲き誇る桜が悪いのだ、くらいの意味でしょうか。もちろんただのぼやきであり、本気で言っているのではないでしょう。
桜は季節がくれば、勝手に咲くもの。桜に罪などあろうはずがありません。それに浮かれてしまうのは人の性なのでしょうか。
桜の精の舞を見たい夜だった
アニミズムに惹かれます。
草木国土悉皆成仏。桜に精霊が宿ることは、必然なのかもしれません。
酒に力を借りてでも桜の精霊と語り合いたい私は、それを自分のモノにしたいと思っても、美しさにまかせて桜の枝を折ることができません。なのでその代わりに写真を撮っています。
なにかのCMで「とっていいのは写真だけ、残していいのは足跡だけ」と言うフレーズがありましたが、ほんとうは足跡さえ残したくはなくて、残していいのは思い出だけなのだと思っています。
それでも残せるのなら、やっぱり写真は撮っておきたい。桜に対峙したその時代のセルフポートレートに代えて。
ことしはどんな桜と出逢えるのでしょうか。
ほんとなら酒に花びらを浮かべて酔いたいところなのですが、酒に弱い私は、ことしもやっぱりファインダーを通して、桜と語り合うことになりそうです。
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追記
辰年の今年は、新年からいろいろなことがありました。せめてさくらの刻、せめて神座の風までは、穏やかな日常がそこここにたゆたいますように。