【エッセイ】ぐらつきつづける信念
人の数だけ、いや人の数以上にいくつもの信念がこの世にはあるけれど、
そういったもののなかには、自分がぐらついて今にも崩れそうなことそれ自体から、活力を得ているようなものもある
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むしろ信念とはこのぐらつきから生じるものだ。
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あるぐらつきは、次のようにして乗り越えられる、つまり、そのぐらつきの意味自体を変えることによって。
そのぐらつきを正すのでなく、その意味のほうを「正す」
ぐらつき自体についてはどうすることもできないので、どうやって受け入れるかを考えたほうが有意義だ、とでもいうかのように
こうしてもうひとつ信念が生まれる
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おそらく、ぐらつきは崩壊には至らない
「ぐらついている」は永続し、終わることがない
崩れた、という状態さえ、このぐらつきを解釈した結果、ぐらつきをなくしたいという切望の結果だ
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これまでもそしてこれからも、ぐらつきはありつづけるだろう。どれだけの信念が滅びようと、このぐらつきだけは滅びることがない。
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あるひとつのぐらつきを滅ぼしたいという願いから、二つの違う信念が生まれることがある
もっとも激しい争いは、たいてい、こういった信念たちのあいだで繰り広げられる
同じ問いに自分と違う答えを出した者たち、もっとも許せないのは彼らなのだ
信念の底に隠したぐらつきを、相手方が絶えず意識させてくるからだろうか
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異教よりも異端のほうが堪えられない
ひとつの信念のなかでさえ、そうだ
異教は、相手どるのが容易なだけに、否定形という形で、利用しやすい
異端は、自分に似ているだけに始末に負えない
その似ていることが、まるで信念のぐらつきを倍加させるかのようだ
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あらゆる他の信念を根絶やしにしてしまえば、そのときこそ、その信念のぐらつきは疑いようがなくなってしまう
ぐらつきを分散させる必要がある
そこから異端がふたたび生まれ、それによって信念は維持される
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ひとつの信念が、ある正反対の信念を必要としていることは確かだろう
敵がいなければ、話にならない
けれどもひとつの信念は、さまざまな異端(異教ではなく)という、同じでありつつ異なるものたちによって支えられてもいる
社会の信念よりも、私たちひとりひとりの信念について、いっそうこれはあてはまる。心の信念はそれ自身うつろいやすいだけに
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なにかを信じるとき、私たちは常に、それ以上のものを信じている
その広がりがどこまで続いているのかはわからない
とはいえ、「異教」というものを、それを否定するという形で信じているのはまちがいない
そうだとして「異端」たちについてはどうなのだろう?
そのうちのあるものを、私たちは異教以上に否定し、
別のあるものについては明言せずに受け入れている
またそれらとは別に、気づかれてさえいない異端がどこかに潜んでいるかもしれない
そういった気づかれていない異端こそが、実は信念のぐらつきを一手に引き受けているということも、あり得なくはないのだ
信念そのものが、ある混沌状態を含んでいる以上、その可能性を否定することは絶対にできない
読んでくれて、ありがとう。
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