似ていること=可能性の化ケモノ
「似ていること」は似ているとされた二つが、「同じでもなくかといって違うわけでもない」ことを意味する
それは「同じでありかつ違う」ということと区別がつかないかのように見える
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「似ていること」は同じであることと違うこと、どちらとも似ていて、どちらとも似ていない
「似ていること」が同じであることとも異質で、違うこととも異質である、と言うとき、それは、このような意味においてだ
「似ている」ことの理由づけは、「同じでありかつ違うから」、かつ、「同じではなく違うのでもないから」でもある
普通の「異質」とはまた違った「異質」があるかのようだ
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さらにこう言ってしまえるかもしれない
「似ている」とは
「同じかつ違う」
「同じではなくかつ違うのでもない」
「同じかつ違うのでもない」
「同じではなくかつ違う」
といったすべての意味合いに浸透している、と
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あれとこれが「似ている」と言うとき、あれとこれをつなぐ「似ている」の通路は、秘密的であると同時に万象的でもある
その「似ている」が二つのあいだにつなぐ通路はたしかに、その二つのあいだ「でしか」、結ばれない。この点で秘密めいている
けれども、その二つをつなぐ通路は、つねに、「まったく別のものを呼び込む可能性」にむかって開かれている
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上のほうで書かれている「まったく別のものを呼び込む可能性」を言い換えよう(どこまで言い換えられるかわからないけれども)
森羅万象にむかって開かれているということだ
「似ている」ことは、「あれ」と「これ」を結びつけながら、その結びつきによって、その二つを「すべて」にむかって開く
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たとえば
なにかとなにかが「似る」とき、私たちは、その二つのあいだにもうひとつ別のなにかを置くことができる
この操作にはふたつやり方がある
ひとつは、最初の二つと「似ている」ものを探すこと。オーソドックスなやり方
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もうひとつは、「なんでもいいから第三項にして、そのあとで、どんなふうに「似ている」のかを考える」というやり方
この二つ目のやり方が、最初の二つの「似ている」ものを、その秘密の通路を、森羅万象にむかって開いてしまう
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二つ目のやり方で第三項を考えるとき、私たちはいつだって、その第三項がどんな「類似」からやってくるのかを、あらかじめ知っておくことができない
どんな「似ている」も可能なのだ
さらに言えば、最初の二つを結んでいた「似ている」とは、まったく別の「似ている」がそこにあらわれる可能性さえある
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この予想不可能な「似ていること」そのものの変容は、実は、ひとつめのやり方にも常につきまとっている
三つ目を呼び寄せたことで、そこにまったく別の「似ている」が起こる可能性を、否定することは絶対にできないからだ
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「似ている」ことは、「あれ」と「これ」を結びつけながら、その結びつきによって、その二つを「すべて」にむかって開く
「似ている」が二つのもののあいだにつなぐ通路は、世界を一周、それどころか無限に周回する通路だ
それは無か、無限と呼ばれる場所を通過する
それはあらゆるものを引き寄せる、可能性であり可能性の死でもある
読んでくれて、ありがとうございます。
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