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快さ調和、ドロッとした幽霊じみた

快さは、それを感じているひとときをドロッとさせてくれ、そのドロッとした感じによって、時間の歯車の滑りを良くもしてくれるものだ。快さは、時間のはやさとおそさをよく調和させてくれる。そのひとときはおそすぎもしなければ、はやすぎもしない。気持ちよく流れてくれる。時間が私たちの感覚と調和しているとき、私たちは快さを感じる。

そもそも「時間」というのも私たちの感覚のひとつにすぎないのではないか。たしかにそうかもしれない。五感と同じような六番目の感覚なのかもしれない。とはいえだとしたら、それを司る感覚器官はいったい何なのだろう。時計によって、視覚に変換されることで、はじめて私たちは時間を認識する。

その時間にたいして働く感覚のひとつが、快さなのだ。快さのなかでは、時間はゆっくりとかつあっというまに流れる。そこでは、時間はあたかもなかったかのようになる。でもそうだとしたら、「時間をないものとして感じとる」のが快さだとしたら、それはかなり矛盾したことを言っているように思える。

その瞬間にはゆっくりとドロッと感じられるのに、あとになるとあっというま、と言うべきだ。退屈な時間は長く流れる。それは薄められたジュースを延々と飲み続けさせられているような時間だ。つまり、濃度が薄ければ薄いほど、時間は長くなるということだろうか。そうでもないだろう。スマホを眺めているだけのあの時間のはやさと薄さを思い出してみれば。

だけど、スマホを眺めているだけのあの時間にもまた、ひとつの快さがあるようにも思われる。それがあっというまで、それに薄く感じられるのは、あとになってからの後悔によるところも多い気がする。つまり、あとからの意味付けによって、無為な時間だったと判断されることによって、薄かったことにされる、そんな節があるような気もするのだ。

すくなくともスマホなどでSNSなりを眺めているあの時間は、つぎつぎと立て続けに感情が喚起される時間ではある。この点では、ある意味で濃い時間でもあるはずだ。私たちにとってはそうでなくても、私たちの感覚にとっては、濃い。なら、それは快さなのか?

その瞬間には、おそくもなく、はやくもなく感じられるのに、あとになってみればあっというまに感じられる。それが、快さのなかでの時間感覚だ。

時間が「ある」、ドロッとしている、時間と感覚の調和は、あとになってみると時間が「なかった」と感じられる。なくなったものとして「ある」があったと感じられる。そして結局、「ある」と「ない」のあいだでどっちつかずの決めかねた態度に追いやられる。

時間そのものが、こんな幽霊じみた化かされたような感じられ方をするのは、私たち自身がその外に出ることができないからだ。「世界」とか「空間」と呼ばれるものの外側がなく、そこに内と外の区別がないように、時間もそのようなものとしてある。

「時間」もまた、「世界」と同じように、失われなければいけない。



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