刹那的たまゆらエセー:ため息支え憂鬱重ならないさよなら

ため息を別の言い方をするなら、それは「そこに寄りかかろうとする息」、それか「支えにする息」だろう。もっと言えば「息の杖」。なぜなら「ため息を吐く」「息を吐く」という言葉を考えてみよう。この「吐く」を「はく」と読むのか「つく」と読むのか。「つく」だと思う。まるで杖をつくようにして、支えとして吐き出されるのがため息だ。

実際のところ、ため息をするとき、なにかに寄りかかっているような身体感覚があると思う。もっとも、それに寄りかかったせいで、余計に暗い気持ちになってしまうのもたしかなのだけれど。

なにかに寄りかかりたいという憂鬱さが、ため息の前からあったのか、その後にできたものなのか。

自分から出た方法なら、どこまででも行ける。自分だけの呼吸法が自分ではコントロールできないように、それ自身がコントロールできないということそれ自体が支え以上の支えになって。支え以下の支えになって。歩くときに忘れられている呼吸のように、思い出すのも忘れるのも自由でないといけない。

他人の苦しみを理解したいなら、まず自分は苦しんでいないと仮定してみることだ。ただしあくまで仮定だ。無感覚になってはいけない。だが自分の苦しみを他人に重ねてもいけない。要は理解などできるはずないということだ。あなた自身の苦しみも、あなたに理解されることはない。だからいっそう苦しくなる。

ため息は私と私の苦しみの関係をあらわしている。支えにするものと支えにされるものが同時に私としてそこにあって、けれどもそれらは重ならない。憂鬱が濃くなるのはそのせいだ。

「試み」ではなく「試みる」であるようなエッセイ。「生きた」ではなく「生きる」であるようななにか。それもまた重ならない。それはこの文章の光と影のすきまに、どこまでもすりぬけて沈みこんでいく。ため息をつくように一息に書く。

ため息から次のため息までのあいだに人はなにを支えにしているのだろうなにも支えにしていないのかため息の瞬間になにが起こっているのかため息を吐き切ったときにあらわれるこの句点。

ため息の途中には、眠りに落ちていくときに似た意識が遠のいていく感覚が生まれる箇所がある。あの感覚を求めて息を吐き、息が途切れてからそれが過ぎ去っていることを知る。瞬間的な夢から覚めたのだろうか。そのとき、自分ではない別の誰かがそこにいたのだろうか。

自分が溶けだしていきそうな感覚のなかで、私たちは出会い損ねている。私が私であるとは、あなたとは出会わないということだ。その言葉を裏返すと、そこにはさよならが響きつづけている。





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