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震災から12年、今まで目を背けてきたこと

今回のお盆休み終盤(8月15日〜16日にかけて)福島県の浜通りと呼ばれるエリア、富岡町〜双葉町〜浪江町を友人と旅行しながら、震災・原発に関する幾つかの施設を見て回ってきました!

福島出身者にも関わらず、これまでほとんどこのエリアに立ち入ったことがなかった私・・。最近に原発再稼働や、汚染水放出に関するニュースが増えてきてようやく「これらに賛成なのか、反対なのかを語れるほどの知識もなく、興味を持つこともなかった自分」に強烈な恥ずかしさを感じ、しっかり情報を収集して、自分なりの意見を持とうと思うに至りました。

また社会派ブロガーちきりんさんの福島旅行記にもとっても触発されました。結果として旅程のほとんどを参考にさせていただくことに・・。これまで毎年2、3回は福島に帰省していたのに、ほとんどの施設を知らなかったことにも再度恥じることになりました・・。


ざっくりとした旅程と所要時間

1日目
郡山駅で友人と合流して出発
東京電力廃炉資料館(2時間ほど)
とみおかアーカイブミュージアム(1時間半ほど)
浪江町内のホテルで一泊

2日目
東日本大震災・原子力災害伝承館(3時間半ほど)
震災遺構・浪江町立請戸小学校(1時間ほど)
そのまま車で郡山市内へ

他にも巡りたい場所はあったのですが、一つ一つの施設の展示内容が盛り沢山でその情報を頭で整理しながら見て回ると、疲労がとんでもなく・・!結果場所を厳選したのですが、正解でした!

①事業者の視点(東京電力廃炉資料館

現在は団体案内のみの受付になっており、必ず事前予約が必要です!
(ちなみに予約時に展示は内容的には3~4時間分あるものの、展示を観れるのは団体案内中の1.5時間のみですと言われて、なんで??と思ったのですが、後で理由がわかります)
震災直後から、原発事故がどのような理由で起こったのかを時系列で詳しく知れるとともに、廃炉に向けた現在の取り組みも理解できます。

例えば・・

  • 福島第一原子力発電所の1〜4号機が、どのような時系列で事故を起こし、そして収束のために具体的にどのように行動したのか

  • 原子炉内の構造

  • 水素爆発とは何だったのか

  • 1〜4号機、及び原子力発電所エリア内の具体的な様子

  • 廃炉作業のプロセスと、「汚染水」とは何か

などなどを詳しく知ることができました!

なかでもあるコーナーでは、原発事故を「人災」と捉え、当時の東京電力という企業風土にどのような問題があったのかを振り返っています。

反省と教訓
事故の根本的な原因
事故の背後要因分析

原発事故に関して当時海外に前例があったにも関わらず、安全を過信して知見が生かされていなかったという点に関しては、

「これまでずっと大丈夫だったからこれからも大丈夫であろう」

という組織ぐるみで現状維持バイアスに囚われることの危険性を感じました。

なお、ここでは電力会社(事業者)としての視点から「原発事故から現在まで」の詳細を訪れた人に知って欲しいという目的があるためか、今回訪れた施設の中でとりわけ展示内容に専門用語が多いです。そのため団体案内でガイドの方に案内していただくと、とても理解が深まります!またツアーの後に何点か質問させていただいたのですが、快く回答していただけました!

汚染水についての情報も持ち帰れます

②まちの視点(とみおかアーカイブミュージアム)

次に同じ富岡町内の、とみおかアーカイブミュージアムへ。
こちらは先ほどとは打って変わり「富岡町」という「まち」の視点から、震災以前から震災までの資料を地続きで展示しています。

富岡町災害対策本部の再現
津波に巻き込まれたパトカー(乗っていた2人の警察官が犠牲に)
富岡町民がどのように避難場所を移動したか
避難場所での住民の工夫
放射性ヨウ素の甲状腺への集積を防ぐため配布されたヨウ素剤
(いきなり配られたら不安だったろうな・・)

地震や津波による被害も甚大な中、原発事故や全町避難についてをTVで知り(!)数カ所もの避難所を点々とすることになった混乱の極みに、職員や住民の方々がどのように現状を把握し、行動したのかを数々の資料と共に知ることができます。

なお富岡町は、他複数の町と同時に帰宅困難地域に指定され、「この日」から数年に渡って自由に家に戻ることはできなくなりました。この原子力被災地特有の苦しみを「複合災害」として紹介しています。

③俯瞰の視点(東日本大震災・原子力災害伝承館

2日目は、隣の双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館へ。
こちらは場所こそ双葉町にありますが、施設名の通り大震災と原子力災害に関する情報をほぼ網羅しており、今回訪れた施設の中で展示数、情報量ともに最大でした。展示を通して、震災被害を受けた県のうち、福島県ならではの「複合災害」という問題を俯瞰してみることができると思います。

1日4回、被害に遭われた方の語り部講話が開かれていてそちらもおすすめです。

私は講話を一回聞き、展示を早歩きで見て3時間半かかりましたが、さらに展示を読み込んだり、展示室外に掲示されている写真を見たり、別の講話を聞いたりしていたら5時間ほどはかかったと思います。

いくつか思いを馳せた展示をご紹介します。

2010年時点では、双葉町では原発関連の就業者の割合が大きかった。
震災前の街のシンボル的な看板
原発施設に体験学習に行った子供たちの作文
震災時の双葉町の病院のホワイトボード。翌日には全町避難する事に・・。重篤者、寝たきりの方も一緒にバス移動する事になったのですが、次の避難所になかなか辿り着かず座席や通路に転がって亡くなっている方もいたそうです・・。
全町避難中に猪に侵入されて傷つけられた襖と、食べられた缶詰
事故同時の福島第一原発の再現ジオラマ
除染ってそもそも何をすることなのか
震災後の県内人口の推移
放射線不安から、外で遊べなくなった子供たちの体力低下と、肥満率上昇データ
福島県の農産物の価格推移
福島イノベーションコースト構想と、次世代モビリティ
外見

④住民の視点(震災遺構)

最後に海に近くにあり、津波の被害に遭いながら、全校生徒・職員が生還した浪江町立請戸小学校へ。ここでは津波のパワーと恐ろしさ、そして迅速に判断し行動することの重要性を、当日必死に非難された住民の方々の視点から、体感することができます。

一階部分はは津波でボロボロ。2階部分が現在は展示スペースになってます
教室だったところ

請戸地区では津波で100名以上の方が犠牲になった中、地震発生後10分ほどで高台に避難することを決断し移動をスタートしたことで、全員が無事に生還しました。ちなみに津波がこの学校に到達したのは地震発生後40分ほどだったそうなので、あと30分判断が遅かったら津波に巻き込まれていた可能性が高いです。有事に同じリーダーシップを自分が取れるのか、あらゆる反対意見を押し切って避難を誘導できるのか、主張しきれるのか、正直自信がありません。

なお、「これまでも津波は来たことないから、今回も大丈夫」と、この地区に残った方が犠牲になったというインタビュー資料がありましたが、伝承館の語り部の方も同様におっしゃっており、相当の数の方が同じ判断をし亡くなられたんだろうと思います。「これまで大丈夫だった」ことを理由に思考を停止させることの危険性は、事故を起こしてしまった東京電力の懐古からも共通して読み取れたことから、個人でも組織単位でも共通で認識しておかなくてはいけないと感じました。


ここまで長文にお付き合いくださりありがとうございました!
気になった方、ぜひ見に行ってみてください!
また私の感想でよろしければお伝えしますので、いつでもお声掛けください!


<旅行後の自分の意見まとめ>
・原発稼働に関して⇨条件付き賛成(チェルノブイリ原発事故後、周囲30kmが現在も立入禁止区域になっていることを踏まえて、30km圏内に住宅・介護施設などを立てないことを前提にする)

・汚染水の海洋放出⇨賛成

<さらに知りたいと思ったこと>
・福島イノベーションコースト構想の現状(地元企業からどのくらいの雇用が創出されているのか、など)
・「風評被害」とは何か?(発生のメカニズム)
・ホープツーリズムとは何か





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