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麻薬のように切望するもの


ヨーロッパの街並みは冷たい佇まいを讃え、洗練されていました。


通りを歩く人、流れる音楽、立ち籠める匂いさえ、当たり前に日本ではないのです。



ひとつも欠けてはいけないかのように、それら全てで景色は完成されていました。


見慣れないものばかりが目の前を通り過ぎていきます。


処理が不可能なほどの、膨大な情報の入り口に立たされて、幼な子の好奇心みたいなものが顔を覗かせたことを覚えています。



ヨーロッパの都会はどこもひどく底冷えし、賑わっている通りを歩いてもなんだかひっそりとしているようでした。


それはどこか緊張感の漂う空間ゆえなのか、私の心細さゆえなのか。定かにはできずにいました。


私がこの旅で特に素晴らしいと思ったのが、美術品以上に、風景だった理由は、それはどうしたって、一部を切りとって日本に持ち帰ることなどできないものだったからです。



また郊外の風景も素敵でした。


郊外へ行くと、風車が立ち並び、風が世界の音をすべてかき消すかのように激しく落ち葉を巻き上げながら耳元で唸っています。




まさに日本で言えば、田舎には違いありませんが、田舎というには洒落ていて、ここは海外なのだと思い知らされるのです。


私は日本という土地から離れることで、日本人としての精神性や生き方、世界の関わり方を模索したいと思っていました。

そして、日本で感じる途方もない不自由さの正体も知りたいと望んでいました。



今この文章を書いてる今も、正解を掴めたかと言われたら分かりません。

けれど、記録していくことが重要です。



砂浜から砂金を見つけ出すように、記録したその膨大な視覚情報や文字情報の中から一粒の「仮定」を見つけ出す必要があるわけです。



ヨーロッパの記憶というものは独特な記憶というのでしょうか、とても日本では味わえない、変えがたいものがあります。



麻薬のように切望し、その記憶を思い出しては何度も欲しくなるのです。



3年後くらいにはここに戻ってくることができるだろうかと、楽しそうに想像していたあの日の夢は、世界的なパンデミックの中に閉じ込められました。


けれど、いつかヨーロッパへ出かける日が来るなら、その時はその全てを味わい尽くすつもりです。

あーその日が楽しみだ。

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