世代間連鎖を止めるの、やめた
私はこの夏、世代間連鎖を止めることをあきらめた。ずっとずっと、意地になって考え続けてきたことだけど、頭の中で何かがはじけたように「あ、無理だな」と思ったのだ。
夏は戦争時代の話が多く語られる。悲惨な境遇を生き抜いてきた人の苦労や、犠牲になった人や物のことが長い間語られている。そしてこれからも、語り続けられるだろう。
悲惨なできごとがあったという事実、そして同じことを二度と繰り返してはいけないという願い。平和であることの尊さ……
語り続ける理由は、これだけだろうか?過去にこんなにもつらいできごとがあったことを、忘れて欲しくないから?他人を憎しんだり、争ったりしてはいけないから?私は、それだけではないと思っている。
戦争体験と各々の家庭の世代間連鎖
世代間連鎖とは、親から子へ世代を超えて伝わるもののこと。わかりやすいものでいえば、虐待や貧困などの問題である。しかし、実際はそういった大きな問題だけではなく、親から子への愛情のかけ方や接し方も、連鎖する。私はアダルトチルドレンや虐待などについて考える機会が多いのだけれど、最近「負の連鎖を食い止めるために必死になるのはもう、やめよう」と思ったのだ。
機能不全家庭(家庭として正常に機能しない家庭)は、突如生まれるのではなく、何世代も前から知らず知らずのうちに継承されているもの。私は「生きづらさ」をテーマに執筆をしており、この夏、アダルトチルドレン当事者として書籍を出版する機会をいただいた。私の場合は、私の両親双方の生まれ育った家が機能不全家庭であり、父も母も典型的なアダルトチルドレンと愛着障害の問題を抱えていた。つまり、問題は一つだけではなく想像の何倍もの問題が複雑に絡み合い、それが何代も前から継承され続けていたことになる。それはもう、果てしなくて手に負えない。
100年も前から続いている世代間連鎖を、たったの一世代で止められるはずがない
私は、自分の生まれ育った家庭が歪んでいることに気づいてからというもの、ずっと「私は親のようには絶対にならない」と思って生きてきた。常に「母を超えたかどうか」「父や母より優れているか」ということに意地になってきた。それは、確かに自分や自分の子供たちのためでもあった。でも、家系という全体像をまじまじと見たとき「自分には、到底食い止められない」ということを痛感してしまった。
100年前の先代のことを考える。私は、彼らの本当の暮らしや一挙一動をすべて知ることはできない。そして、彼らの目に見えない感情や無意識の中にあるものは「起こった事実」の何十倍の力をもっている。語り継がれていることは、ほんの少しだけ。私が知ることのできる事実は、せいぜい1%もあればいいほうだろう。
そんなにも昔から続いている世代間連鎖を、私たち一世代でクリーンにできるわけがない。「止めなきゃ!」という必死さや焦燥感は、絶対に子供たちにも伝わって、さらなる悪循環を生むに違いない。子供たちはそんなことを、私たち親に求めているだろうか。
戦争経験者の話を聞けば聞くほど、その戦争経験者に育てられた私たち親世代の苦悩がわかる。戦時中は生理的欲求すら満たされなかった。笑うこと、楽しむことすら許されない。そんな暮らしを当たり前に生きていた人々が、温かく、真っ当で、柔軟な子育て環境や愛情のかけ方を知っているわけがない。「歪んでいて当然だよなぁ」と妙な納得感すら覚える。もちろん、中には愛情に満ち溢れた家庭を作り、温かい子育てができていた人もいただろう。しかし、それはごく少数派だったのではないだろうか。だからこそ今、世の中の8割がアダルトチルドレンといわれているのかもしれない。
「うちの家庭は大丈夫」「私は歪んでいない」それが歪みのはじまり
歪んでいない家庭などないし、歪んでいない人もいないと思っている。実は、どれだけ、家族や子供、自分のことを考えて試行錯誤しても、問題は山積みだということがわかったのだ。これだけ頑張ってきても、完璧には程遠い。理想的な子育て論や、悟りの境地には辿り着けない。
どれだけ真剣にやっても、どれだけ深く考えても、できないものはできない、それが人間なんだ。だからこそ、いちばんこわいのは「私たちは大丈夫」「うちの家庭は歪んでいない」という思い込みだ。
生きづらくない人なんていない。悩んでいない人も、いない。だから、あなたも頑張ってと言いたいんじゃなくて、どれだけ頑張っても歪んでしまうのが人間であり、家庭なのだということだ。歪んでいて当然、くらいに思わなければいけないんだ。極論をいえば、すべての人が当事者なのだ。私の息子たちも将来、きっと生きづらさを抱えるだろうと覚悟している。そのときのためにできるのは、いったい何だろうか。
これからを生きる子供たちのために、警鐘を鳴らす
私たちにできるのは、世代間連鎖を食い止めるために躍起になることではなく「警鐘を鳴らす」ことだと私は考える。
世代間連鎖を止めるのをやめた、というのは投げやりにな気持ちではない。降りかかってくるものは止められないのだから、それから逃げる方法や手段、手掛かりになるような情報を集めて広めることが、必要なのではないかと考えている。
すぐそこまで、巨大な津波が迫ってきているとする。そのとき、たったひとりの人間が津波をせきとめることなんて、絶対に不可能だ。それと同じことなのではないかと思う。接近してくる巨大台風を、ひとりで止めようとする人なんていないだろう。止められない自然の脅威には、大きさや特徴、どんな被害の可能性があるのか、どうやって逃げる方法があるのかを知り、検討することが必要だろう。そしてそれを子供たち伝えてやること、親から子へ包み隠さず話すことが、なかなか重要なのではないかと思うのだ。
「私たちの先代の人たちはこういう人で、こんな暮らしをしてきた。そして、お父さんやお母さんにも、こんな悩みや葛藤がある。そして、今あなたに対してこんな感情を抱いている。その影響はあなたが将来大人になったとき、親になったときに表れてくるかもしれないんだ。」
親と子という枠組みを取っ払って、対等に接する必要があるといわれるのは「友達親子」みたいな関係になることではない。子供にとって必要なことを「親だから」「子供だから」という枠組みで考えて、隠したり、強がったりすることなく対話に繋げていくことなのではないか。
機能不全家庭で育った人は、ずっとずっと、迫りくる泥水から逃げてきたはずだ。ずっと走ってきたのだから、もう限界なんだ。あとは、これからの時代を生きる人に「ここまでくるかもしれないから、そのつもりで行動しろ!」と、伝えてやるだけでじゅうぶんなのかもしれない。
今目の前にいる子供は、自分の子供ではなく「いずれ大人になって、社会で活躍していく人間」なのだ。そのために今やってあげられることは、親として立派な姿を見せることでも、親として真っ当な行いをすることでもないんだ。
悲しみや苦しみを語り継ぐのは「繋がり」を実感するためだ
戦争体験や、過去の悲惨な事件について語り継ぐ理由は「繋がり」を実感するためだと考えている。
戦争中はあんなに大変だったのに、今の若者は幸せだ。昔はこんなに苦しい時代だったのに、今は贅沢だ。そういうことを伝えるためではない。また、犠牲になった命を忘れないためだけでもない。
悲惨な時代を生きてきた人が、今の時代に生きる人に影響を与えているということ。一見、とうの昔に過ぎ去り、もう無関係のように思えることも、現代へ確実に繋がっているということを、警鐘するためでもあるのではないか。
「昔々あるところに」という昔話ではなく、ずっとずっと昔から今も続いている物語。それを、突然終わりにするのではなく、少しずつ書き換えて、修正していく。できるところまでやったら、次の世代にバトンを渡す……私たちの役割としては、もうこれで十分だろう。だから私は、世代間連鎖を止めようと躍起になるのはもう、やめることにしたんだ。
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