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あいさつができるまで黒板の前に立たされていた子

私が小学校6年生の時の話。

6年2組には、あまり学校に来ることができない子がいた。小野くん。

小野君は、4年生のときに転校してきた細く小柄な男の子だった。

でも、小野君は学校に来たり、来なかったりを繰り返していた。普通の生徒と同じように会話をしたり表情を豊かに変化させたりすることもあったが、6年生のときはそういうことがほとんどなくなっていた。

小野君は、あいさつができるまで、黒板の右端に立たされていたのだ。

小野君は確か、喘息をもっていた。喘息の発作が夜中に起こると、朝登校することが難しく、それによって学校に来られないことが多かったのだ。

わたしの記憶には、友達が話しかけてもまったく返事ができない小野君の姿がある。緘黙というものだと思う。「話したくない」という感じではなく、何か事情があって話すことができないという雰囲気を感じた。小野君の、少し怯えた子犬のような表情を今でも鮮明に思い出すことができる。

しかし、当時わたしたちのクラスを受け持っていた担任の菅野先生は、小野君に対してとても厳しかった。

学級では、教室に入るときは「マリア様、先生皆さんおはようございます」というあいさつをしてから入るという決まりになっていたのだ。

高学年にもなると、そんなこっぱずかしい決まりを守る子は少なかったし、わたしもたぶん無言で教室に入っていたと思う。

菅野先生は熱血の体育会系教師。風貌からして厳つく、強面である。多くの生徒が恐れる存在だった。

ただ、決して悪い先生ではない。多くの生徒が「菅野先生はきらい」と話すのに対し、わたしはなぜか好感をもっていた。「女の先生よりも接しやすくていいや」とも思っていたのだ。

決して擁護するわけではないのだが、小野君に対してそのようなことをさせたのは、“先生なりのやり方”であり、意図があったのだろうとも思う。

小野君は、毎日立たされた。

学校一怖い存在である菅野先生には、誰も苦言を呈することなどない。立っている小野君に声をかけることはあっても、生徒がそれを「やめさせる」ことなどできない。

小野君は、お昼ごろまで立っていたと思う。体育館や理科室などに移動している間に、いつの間にか座ることを許されていたり、給食の時間になってようやく座ったりしているような毎日だった。

立っていることを不憫に思う気持ちや、小野君が転校生であること、学校に来ない時期があることなど「ちょっと違う」という認識が、みんなにあったと思う。しかし小野君に話しかけても、返答はない。

いつしか、クラスの中で小野君は黒板の「背景」になってしまった。もちろん、わたしもそのことに疑問をもたなくなっていた。

「ママに小野君のことを話したら、それはおかしいことだって。やめさせないといけないって」

横井さんという白肌のぽっちゃりした女の子が、ある日、仲の良い数人の友達に話題を持ち掛けた。

「でもね、それはみんなで先生に問題提起したほうがいいって言われたの」

わたしは途中からその話の輪に加わった。

横井さんが、お母さんに小野君がいつも立たされているという話を聞かせると、お母さんはとても強く問題視したということだ。今大人になって考えてみると、それはその通りである。そしてそれを、横井さんのお母さんがクレームとして学校に掛け合うのではなく、あなたたち友人の力で何とかしなさいと言われたそうだ。

「え、でも言えないよ……」

「わたし絶対無理!」

「誰が言うの?みんなで言う?」

「でもいつ言えばいいの?」

皆口々に思っていることを口にした。次第に男の子も数人話の輪に加わってきた。わたしはどの辺にいたのかわからないのだが、急に心臓をつんざくような発言が耳に飛び込んできた。


「学級委員が言うのが一番でしょう」


まさか。

わたしはそのとき、学級委員をしていた。

わたしは特に頭脳がキレるわけでもない。話がうまかったり、仕切りがうまかったりすることも、毛頭ない。少人数制の学校における3学期の学級委員なんて「足が速い子」とか「しいて言うならこの子」みたいな感じで決まることがあるものだ。

正直わたしは「横井さんが言えばいいのでは?」と思った。薄情だけれど、なぜ学級委員だからといってそういう「誰もが嫌がる役」をやらなければいけないのかと思った。

自分が何と答えたか、記憶にない。しかし、話はどんどん進んでいった。帰りの回の「みんなから一言」というようなコーナーのところで、学級委員が先生に提案するという話で固まっていった。

男子の学級委員をしている戸塚君もその場にいたが、彼は彼で、背が高く端正な顔立ちでスポーツができるという「印象的な人気」で学級委員になったタイプだ。

「俺、絶対無理だから……お願い!」

わたしは意思の表明がとても苦手なので、よくこういうパターンになる。子どものころは「断る」という手段を知らないせいでトラブルによく巻き込まれた。

どうやら、わたしはこの大役を担うことに決定したようだった。

休み時間終了のチャイムが鳴る。みんなが椅子を引く音や教科書をトントンとそろえる音が響く中、わたしの頭の中ではとてつもない不安と恐怖がぐるぐるとまわったことを覚えている。

帰りの会までの時間、わたしは生きた心地がしなかった。授業の内容も身に入るわけがなく、何をどう話したらよいかということだけを考えた。

わたしは、仕切ったり話したりすることが大の苦手なのに。学級委員の仕事なんて、黒板にみんなの意見を書いていけばいいだけだったのに。

そんな言い訳や文句と、自分のすべきことがぐちゃぐちゃに入り交ざった。そしてついに帰りの会の中盤を迎える。


「みんなから一言、誰かありますか?」


心臓のドキドキと手の汗が止まらない。しかし任務を怠るわけにはいかなかった。


「学級委員から、お話したいことがあります。

クラスの子のおうちの人から、小野君が教室で立たされているのはおかしいのではないかという話が出ています。

わたしも、それは、おかしいと、思い、ます」


そこまで言うのが精いっぱいだった。わたしは泣き崩れてしまった。


菅野先生が怖いから、ではななかった。

泣いたのは、自分の意見を言ったからだ。

恥ずかしい、かっこわるい、最悪だ。

泣きながらそう思った。

わたしは、自分の気持ちを話すと泣いてしまう。大事な話や本音を話すと、泣いてしまう。今でもそうだ。

あのときわたしは、先生が怖くて泣いたんじゃない。人前で話すのが怖くて泣いたんじゃない。

この話を先生に伝えるためには「自分の気持ち」や「自分の意見」を言わなければ伝わらないと思ったから。でもそれは、わたしにとってものすごく苦手なことであり、ずっと隠しておきたいことだった。

「クラスメイトの保護者が、小野君が立たされているのはおかしいと言ってます」だけでは問題提起にならない。

それがなぜいけないことなのか?

発言者のわたしはどう考えているのか?

それをちゃんと言わなくちゃ、先生は納得しないだろう。だから言おうと頑張った。でもちゃんとできなくて、まだ何も話していないのに泣いている自分が、とてつもなく恥ずかしかった。

なんで、できないならできないと言わなかったんだと、自分を責めた。


しかし、友達は助けてくれた。

「いや、俺もそう思います。なんていうか……小野君、あいさつしたくないとかじゃないと思うし……」

学級委員の戸塚くんが、私の代わりに続きを言ってくれた。すると発起人の横井さんや他の子も、立ち上がった。

「そうです。わたし変だなって思ってました」

「そもそも、教室にあいさつしないで入ってくる人のほうが多いじゃん」

「わたしだって、あいさつしないときあります!」

気づいたら、みんなが抗議していた。正義感のような感じはしなかった。

事前に横井さんからその話を聞いていなかった子たちまで、堰を切ったかのように発言しはじめた。「言ってもいいことだったんだ」と言わんばかりに。


菅野先生は、黙ってその様子をじっと睨んで聞いていた。生徒たちの話を遮ったり、反論したりすることはなかった。


わたしはただ泣いていることしかできなかったけど、ふと顔をあげたら半分くらいの生徒が泣いていた。

みんな、おかしいのはわかってたんだ。小野君には何か事情があるって、みんな知っていた。小野君大丈夫かなって、思っていた。でも、それと同時に小野君が立たされているのが、自分たちの中で当たり前になっていたことにも気づいた。おかしいことに、慣れてしまっていた。

いろんな気持ちが混ざってた。

その日以来、小野君が黒板の前に立たされることはなくなった。

その日から小野君と一緒に話したり、遊んだりするようになった……わけではない。小野君は以前と変わらず、学校に来たり、来なかったりだ。

話しかけても返答はなく、そのまま卒業した。

あのとき菅野先生は最後に「お前たちの気持ちはわかった」と言い、少し微笑んだようないないような感じで、帰りの会を閉じた。

菅野先生は何を思ったのか、わからない。保護者からの意見であることを述べたので、自分のやり方を続行するわけにもいかなかっただけかもしれない。

でももしかしたら、わたしたちが教師に意見をするということに、少し心が動いたのかもしれない。

あの教室での出来事は今でも忘れられなくて、よく思い出すのだ。

自分にとって大切なことは、いつも思い出の中にある。自分の息子がもうじき6年生になるのを間近に、またあの教室を思い出してしまった。










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