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自分の「好き」を人と共有しない理由

わたしはどうも、好きなものを誰かと共有することがあまり得意ではないようだ。

家族や友達と、好きな音楽や映画の話をすることもあるし「わたしもそれ好きだよ」「これいいよね」って言い合うことは、もちろんある。むしろそんな話ばかりしていたい。

しかし、ふと、自分の中で本当に強い「愛着」を感じるものについて思いを馳せてみる。

すると、それらはみんな、誰かからの影響を受けていないものや、誰かと共有したことのないものばかりだった。

好きなものを誰かと共有すると「相手」の印象が強く残ってしまう

わたしは、好きなものを誰かと共有すると「共有した相手の印象」のほうが強く残ってしまうようだ。作品の影に、知人の顔がちらつくというか。

たとえば、小学生のときに大好きだったアーティストがいる。当時いちばんの仲良しだった友達も同じアーティストが好きで、ふたりで彼を追いかけていた。

昨晩見た音楽番組の感想を言い合い、雑誌を読み漁り、新曲が出れば一緒にCD屋に走った。今で言う「推し活」のようなものだった。

確かにわたしは彼が好きだった。今でもときどき彼の曲を聴くことがある。でも、なんだかどうしても「一緒に追いかけていた友達」の印象が強くなってしまって、自分の世界に入り込めない感じがする。

映画もそうだ。同じ映画を見て、一緒に感動して「素晴らしい映画だよね」って言い合ったりした作品は「感動を共にした相手」の印象が強くなってしまうのだ。

だから、作品への思い入れとか熱量のようなものがちょっとだけ中和されてしまったり、集中できないって感じがする。

自分ひとりで浸った作品たち

一方、自分ひとりでこっそり楽しんでいたものへの愛着は強烈である。

誰に勧められたわけでもなく、自分で見つけたもの。これが好きだって、誰にも言っていないもの。長い間、ひとりで密かに、繰り返し楽しんでいる音楽や映画。

そういうものに対しての愛おしさは、誰かと共有したものとは別格であるように思う。

わたしはこれを「自分の感覚の確認作業」のようなものだと思っている。

自分が何を好きか?自分が何を選ぶか?というのは、周りの人や環境に大きく左右されるものだ。

最もわかりやすいのが流行である。街でよく聴く曲、話題の映画、トレンドファッション。それらを純粋「素敵だな」と思う気持ちはあっても、「周りとの調和」や「人の評価」も、選んだ理由に含まれているはずだ。

あるいは「これを好んでいる自分は、魅力的に映るはず」という意識もある。若いころ、わたしは「この音楽を好んでいる自分は洒落て見えるはず」「こんな本を読んでいる自分はかっこよく映るはず」という意識が少なからずあった。若かりし頃は、そんな「他者の目に映る自分」を気にしていたん
だ。

でも「自分で見つけて、勝手にのめり込んで、自分ひとりで浸っていたもの」はそうじゃない。これ好きだと“言う”ことに対する付加価値がない

なんか好きだから。
かっこいいから。
心地いいから。
自分の感覚がすべて。

自分とその作品だけの一対一の世界

おそらくわたしは、自分と作品との間に一対一の世界をつくりたいのだと思う。

これはある種の独占欲なのかもしれない。人の影響を受けやすいからこそ、人を介さないようにしているのかもしれない。

でも、映画や音楽といった作品を「人」としてとらえている部分はあると思う。

わたしとあなただけの世界、みたいな感じ。

好きな人のことを隠して、誰にも言わないで、机の中にこっそり入れた写真をときどき眺めて英気を養うような感じ。

好きなものや人の話で盛り上がるのももちろん楽しいんだけど、それ以上にわたしは、自分の中の秘密の好きに支えられているし、助けられていると思う。

「好き」は、誰にも認めてもらう必要なんかなくて、誰もわかってくれなくてもよくて、自分だけが知っていればよい。

一見「自分だけの世界」のように見えて、実は「自分と作品と2人」の温かい世界がそこに存在しているような感覚がするのである。

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