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炊き込みご飯で「今を生きる」を考えた [日記と短歌]23,11,29


見渡せば私の今のことごとく明日に奪い去られる、返せ/夏野ネコ


胚芽押麦を250gに白米135g、この分量で麦7割の麦ごはん3合ぶんになります。そこへ戻した芽ひじきと切り干し大根、適当なキノコ類、人参、油揚げ、あとは生姜ひとかけ、味付けは「ほんだし」とお醤油。炊き上がったら別に茹でておいた大豆を混ぜこんで完成するこれが、私のいつもの炊き込みご飯です。

いったいに私にとって炊き込みご飯というものは効率的な栄養摂取の手段であって、そこに情緒みたいなものは実はあまりありません(むろん美味しく頂きますが!)。炭水化物と食物繊維とたんぱく質、各種ビタミンミネラルをバランスよく含みパックされた食べ物は、機能としては要するにカロリーメイトです。炊き上がって130グラムずつラップし冷凍庫に並べるに及んでは、ほとんどそれにしか見えない。工場だ、カロリーメイトとかinゼリーとか作る工場だここは、ってなる。

と、そのような炊き込みご飯との付き合いでしたが、先日友達とピクニックをしに行った際、屋外で炊かれた炊き込みご飯を供されて認識がかわりました。
ガスバーナーの上でコポコポと揺れるアルミ鍋から吹く湯気が秋の空にとけ、甘いお米の香りが立ち上がる。
その炊けるのを待つ時間。
楽しいんですよね、この時間が。のんびりと紅葉でも眺めながら炊き上がるまでの時間を味わう、なかなか素敵な経験でした。

同じ炊き込みご飯でもずいぶん違うこれらを端的に言ってしまうと、「作業」か「儀式」か、の違いかもしれない。
そしてそれはどこかで「未来」と「今」との関係に繋がっている、と、揺れるアルミの鍋蓋を見ながら私は思います。
家で炊き込みご飯ストックを作る時間が完全に作業なのは、それが未来の自分のために今という時間を消費している、いわば投資行動だからです、たぶん。なので家で炊き込みご飯を作っている時間(現在)は、より良い未来のために先行して使われていて、だから「今」を見ていない。そこに、言い難いめんどくささとかなしみがあるように思える。

来週分の炊き込みご飯をストックするとき、人は今を生きていない。
一本でも早い電車に乗るために駅の階段を駆け上がるとき、人は今を生きていない。
その電車が遅延して時間を返せと愚痴るとき、人は今を生きていない。
読んだページの量を誇るために読書を進めるとき、人は今を生きていない。

なにも刹那的に今を消費しろ、というわけではありません。未来に得られるリターンは必要で、そのための行動も、準備に費やす時間も当然必要なのだけど、だからと言って無条件に「今」を手放すことはない。「今」を、未来のための作業部屋にすることはない、と、湯気を出すアルミ鍋を見ながら思うのでした。
今この瞬間は今しかなくて、未来のために使っていたとしても、それはそれで紛れもなく「今」なので。
だからこれから、来週食べるための炊き込みご飯を作る「今」を、もう少し見つめてみようと思った、そんなピクニックごはんなのでした。

はい、そんなわけで吹き上がりがおさまり、火をとめ、タオルにくるんでさらに待つことしばし。
昆布とシーチキンをまぜこんだシンプルなそれは、熱々ですこぶる美味しいものでした。

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