見出し画像

風に消えた帽子

仕事中、足下に置いた鞄の隙間から、携帯電話の着信画面が見えた。セールスだろうと思ったが、何となく気になって手に取ると、珍しく母からの着信であった。電話に出てからふと、昨晩の夢に祖父が出てきて、何も言わずに立っていたのを思い出す。

電話は、祖父の危篤を知らせるものであった。

私は田舎の生まれで、実家と祖父母の家が横並びという環境で育った。周りには田んぼと畑しかなく、特に小学校に入るまで、遊び相手は母と祖父母がほとんどだった。私が物心ついた時には、既に祖父母とも定年を過ぎて家に居たので、しょっちゅう祖父母の家に行ってお菓子をくすねたり、農作業中の祖父母の邪魔をしたりしていた。寡黙な祖父と、おしゃべりな祖母という対照的な二人だったが、初孫の私に甘いという点においては一致していて、いつ行っても必ず相手をしてくれた。祖母は黒電話のかけ方から漬物の漬け方、更には昭和歌謡までを私に教え、祖父はそれを軽く被った帽子の下から、ちらと見ながら農作業をし、おやつの時間になると私に黙ってお煎餅を差し出した。こんな具合で、私は平成を十年も過ぎて生まれたにしては、随分と昭和の色濃い育ち方をした。ある時、家で「一列ランパン破裂して~」と歌って見せたら母は大いに困惑していたが、今にして思えば、無理もないことである。

漬物を漬けられる煎餅好きな少女は、その後小学生になり、中学生になり、やがて大学を卒業した。成長するにつれ、祖父母との関わりは段々と希薄になってはいたが、隣に住んでいたから顔を合わせれば話をしたし、それなりに行き来もあった。就職して一人暮らしを始めた頃、祖父は事故を起こし、免許を返納した。そのうちに、実家に戻ると祖父に「こんにちは」と挨拶されるようになり、数年経つと、祖父は寝たきりになった。祖母も発言の辻褄が少しずつ合わなくなり、腰が曲がってひと回りもふた回りも小さくなった。亡くなる数ヶ月前、とうとう祖父は入院した。面会に行ったが、流行病の影響で画面越しであったし、そもそももう意識がなかった。祖母は「せっかく来てくれたのに、返事もしないなんて、お父さんはもうだめ。だめだわ。全然だめ」と繰り返し言っていた。

それで、母からの報である。私は急いで実家に戻ったが、臨終を迎えてもコロナの関係で病室には一人ずつしか入れないらしい。父などは、昨日もやったんだけどね、と言いながら、一人一人順番に祖父の元へ向かい、声をかける。奇妙な形での挨拶ではあったが、祖父の耳にはきちんと届いたらしい。私が戻ったその翌日に、祖父は息を引き取った。祖父が亡くなったこの日は、お盆の直前の暑い日だった。大汗をかきながら冷たくなった祖父と家に帰っていると、急に雨が降ってごく小さな虹が出た。それは、とても祖父らしい、慎ましくて律儀な虹だった。

家に戻り諸々の準備をしていると、葬儀屋が私を呼ぶ。何かと思ったら、式場の入り口でスライドショーを流すから祖父の写真を十五枚選べというのであった。強盗のように家中のアルバムを出せ、と祖母に言うと「はてどこへやったかねぇ」と頼りない。仕方がないので勝手に家を漁り、徹夜して写真を選んだ。

葬儀の日、式場に着くと、果たして入り口横の大きなモニターに、それは映し出されていた。まだ人気のない式場の入り口で、自然と足が止まる。次々と流れる祖父の写真を家族揃って黙って、観た。

父が小学校に入学したときの祖父。
父や叔父と酒を交わしている祖父。
私が生まれたときの祖父。
私と田植えをする祖父。

いつも無口で無表情だと思っていた祖父は、全部笑っていた。祖父がいたら、恥ずかしがるに決まっているが、全部とてもいい笑顔だった。私は自分で選んだくせに、初めて見たような気がして、気がついたらポタポタ泣いていた。寝不足のせいじゃなく、悲しみだけでもない。生の輝きを見たんだと思う。死は、究極の教育だ。

棺桶の蓋を閉める時、祖母は「本当にいいお父さんでした」と何度も言った。

それから何日か過ぎて、日常が戻ってきたある朝のこと、母からメッセージが届いた。庭に、祖父がいたそうである。いつもの帽子を被って、田んぼの方を見ていたらしい。奇しくもその日は、稲刈りの翌日であった。まだ四十九日も過ぎていない。真面目だった祖父は、家の田んぼが気になって様子を見にきたんだろう。

何も言わなかった夢枕も、私を待っていたことも、小さな虹も、田んぼを見にきたことも、全部が全部、祖父らしい。

目を閉じたら、いつもの帽子がふっと浮かんで、風に消えていった。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?