人の痛みに"上下"をつけるのは愚かだ、ただ「辛い」と感じた事象があるだけだから
「私より、不幸な人なんて世界を見れば大勢いる。私は恵まれている方だ.....」
そうやって、心の糧をつくってきた。
"ほんとうに辛いことを嘆かないための理由"をつくった。
“私がこれまで通り、変わらずに済む理由”でもあった。
“出してはいけないと思う部分を出さないままにする理由”でもあっただろう。
理にかなっていることを言えていると思っていたから、自分が納得したように見えた。
このときの自分はまさに、メイン写真のようだった。
"倒れているのにキレイな花"つまり、
"茎が折れて倒れているけど、笑顔なままな姿"に見えた。
───果たして、この言い分は、たしかに「辛い」と感じていることを我慢するべき理由になるだろうか?
マウントを張れる人が生き残れる世界だった
上下がある世界では、マウントを張ることが生存に直接つながっていたのだろう。
歴史的に見れば、人類(ホモサピエンス)は対ヒトや対他の生物問わず、争い、奪い合っている歴史のほうが長いはずだ。
この時代は、弱いより強い方が生き残ることができた。
「マウントを張れる=強い、生き残れる」といったように。
生存本能的に、マウントを張ることで安心できたのだろう。
そうやって、自分を他者と比べたときに「どちらか上で、どちらか下か」を定めた。
そして"上"だった方は安心し、片一方の"下"だった生物は、命の危機に迫られた時代だったのだろう。
いつも、自分より辛いであろう人がいた
不幸自慢という言葉もあるように、"痛み"にも上下がつけられてしまう。
「途上国の貧困の子どもたちに比べたら、なんて恵まれている国なんだろう。この環境で嘆いている私は、愚かなんだ。口を噤まないと。」
本当につらかったときも、そうやって自分の心を抑えるしかなかった。
──「自分よりもっと辛い人はいる。」
家を失うほどの貧困でもない
精神が病んで自殺をするほどではない
誰かを殺すほど、非行に走ったわけではない
自殺するほど、いじめられたわけではない
殺されるほど、虐待されてはいない
明日食べるものがないほどの貧困ではない
「自分より、辛い人がいるから、私の痛みなんか、大したことないはずだ、我慢しないといけない。」
心の声から目を逸らすための思い込みだった。
そうすると、自分を軽んじて、"自分にとっての自分"は、ほんとうに、大したことのない存在になった。
何かにつけて、上下をつけていた。
そして、「○○をしたら、本当に心が病んでいる人」といったように自分の中で勝手に定義づけをしていた。
自分の中で決めた条件をクリアしないと○○な人には、ならないのだ。
自分より辛い人に見えたし、世間はそう言っていたから。
だから「自分の辛さなんて、"ない"ことと等しいのだから嘆いてはいけない。」と思った。
しかし、それらが全て社会と自分の脳が作り出した「虚偽」だと気づいた。
自分が好んで、
"自分より辛い人がいる世界"を作っていた
「この世が上下をつけようとする限り、私が私を認めることは難しい。」と、そう感じている。
しかし、上下のある世界自体を、自分が作り出しているとしたら、どう考えるだろうか?
自分より辛い人が多い世界に見えるようにしていれば、自分の辛さを嘆くことはしないし、心の痛みも耐えるべきだと頭に叩き込める。
「自分より辛い人なんていない。ただ"辛かった"と自分が感じた、ただそれだけ。」
これが真実だった。
ただ、この事象が起きただけだった。
この真実を見つめられないということは、
「辛かった」と思うことを体験した自分を受け入れられないだけだ。
「勝ち負け」
「良し悪し」
「善と悪」
「優と劣」......
何かにつけて、答えを出してきたものは、きっと"答えを出すこと"自体には意味がなくなっていく。
二極化させるのではなく、受容していくことを目指せる世界であってほしい。
読んでくれてありがとう、ではまた!
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