自分を何者か問うことはやめて、幸福を求めず歓喜を求めろ(岡本太郎の著書)
今の私は、何者でもない。
何者かにならなければならない社会において、今の私は"何者でもない"位置づけになる。
フィリピンで働こうと考えていたが、今の状況で見通しが立たなくなった最中、何者かになることは今の所なくなった。再び”自分”というものを問われているように思う。
数年前の自分だったら、今の何者でもない状況は不安で仕方なくて、急いで何者かになろうとしただろう。今の自分は、不安が全くないわけではないが、それは「自分か何者か。」に対しての不安ではなく、よくある将来の漠然とした不安であると思う。
今は、「自分が何者か。」には囚われず、時間をかけて自分と向き合う方が大切だと思える。
何もしない時間を過ごしたり、たまには本や映画などに触れたりして、自分の感情の琴線にふれた瞬間を探す。今まで言語化ばかりだったから、感覚的な自分を知ろうとしている状態なのだろうと思う。
この状態はきっと「何者にもなれる。」とも言えるし、”社会との繋がりが希薄で孤独な状態”とも言える。
要するに、どう捉えるかはすべて自分次第ということだ。
自分の好きなことはわかる。しかしきっとそこに職業をつけないと何者かにはなれないような感覚にも陥る。だから、職業に当てはまらない現状は何者でもない。
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自分探しは考え続けることであり、死ぬまで続く。
何者なのか、を考えすぎて苦しくなって、自分が自分でいてはいけないような感覚になるとき、私はひたすら一人になったり、海外などの自分と接点がないとわかりきっている場所に身を置いた。俗に言う"自分探し"と呼ぶのだろうか。
しかし、何も旅をしたり本を読むことが自分探しなのではない。自分探しとは考え続けることであり、終わりなんてなく、考え続けるという意味ではきっと死ぬまで続く。
最近手に取った本で岡本太郎の良い言葉が多く書いてあったので、noteにも残そうと思う。
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「自分は何者か。」という問い
何者でもないことも、孤独も本当は辛くて、耐え難くて、しかしそんな自分はみっともないと思っていたし、その事柄を人と共有することに抵抗があった。
しかし、これは全て自分がかわいいがための行動だった。しょうもないプライドによって、自分が傷つくことを恐れていた。それ故に自分自身を曝け出せない性分だったと思う。本当に、しょうもないプライド。
本当はどうでもいいプライドなんて捨てなければ、自分のことなんてわからない。自分の中の相対的価値のプライドではなく、絶対的価値のプライドを見つめなければいけなかった。
それを教えてくれたのは、岡本太郎の言葉だった。
岡本太郎の言葉は、本当にその通りだと思う。私は、自分を大事にしすぎている。たしかに自己愛は大事だ。しかし、自分を甘やかしすぎたり、他者に甘えすぎることは”愛”ではない。歪んだ愛だ。ほんとうの意味で、自己愛にはつながらない。愛情をはき違えている。
自分を甘やかしすぎる歪んだ愛情は、お金持ちの子供を甘やかしすぎて自分の人生を自分で決められない子供にしてしまう親のようだ。
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”自信”なんて幻想と同じ
私は、「自分を知り、”本当の自分”を知ることが、意志を強くする方法であり、自分に揺るぎない自信を与えてくれるもの」と思い込んでいた。
私は、自分自身の中に揺るぎない自信が欲しかった。だから、自分の信念のような意志というものを強くしたかった。そうしないと、また自分が自分でいられなくなるんじゃないかと思うと恐怖しかなかったから。
しかし、”自信”も、そんなもの全て幻想であり相対的価値でしかなかった。つまり、人と比較することで生まれる価値だ。
そんな幻想を作り出し、自分を甘やかしていただけ。自信のある/なしで、やるか/やらないかを決めようとしてること自体がそもそも、自分と向き合うことから逃げている。
幻想でないのは、絶対的価値だった。他の人間に取って代わることの出来ない、その人間の絶対的な価値だから、自分自身と向き合ったら湧き出てくるものだから、絶対的価値は、幻想でなく事実だ。
だから、私はこのことにより明確に気づき、対処していく必要があると思った。
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ニブイ人間だけが「しあわせ」
私は、この言葉は物凄く共感した。岡本太郎と同じ感覚を持っていた。
先進国での”幸福”とは、自分たちだけのエゴな人間の幸せだった。幸福とは、無知で自分に辛いことや心配なことが無い、ぬくぬくと安全な状態のことを言う。
一歩世界に踏み出してみれば、飢餓や貧困、児童労働が溢れていて辛いことを感じている人が多い中で、先進国という安全地帯の中で”幸せ”を感じている人間が私にも卑しく見えたし、決して自分もそうなりたくないと心底思いつづけていた。
一番印象に残った言葉だった。”幸福”より”歓喜”を求める人生の方がいいじゃないかと納得した。自分の中にスッと入ってきた定義だった。
エゴな人間の感覚として感じる”幸福”が大嫌いだったことを岡本太郎の本を読んで、改めて思い出した。岡本太郎は、本当に子供の頃のまま大きくなった人なのだと思った。
納得いかないことは納得いかない。好きなものは好き。だとこれからも言える人間でいたい。
読んでくれてありがとう!ではまた!
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