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その自己表現は、あなたの内から創り出していますか

私の自己表現の手段として、"書くこと"は特別だった。

"手段"としてならば、
・ダンスを踊ること
・ ウクレレを弾いて歌うこと
といったものも、あることにはあった。

この中の、どの自己表現を差し置いても"書くこと"は、私にとって特別だった。

この「特別かそうでないか」は、"自分の内から創り出しているか否か"ではないかと思う。

私の話で言うと、
ウクレレを弾く際には、自分で作曲しようとしてもできない。
ダンスも、自分で振り付けしようと思ってもできない。

しかし"書くこと"であれば、自分の内から湧き出てくる感覚を言葉にすることはできた。

そして、書いて自己表現することで、より一層自分を深められる手段としても成り立っていた。
だから、"書くこと"が特別なのだと思う。

こうして書いている今も、私はウクレレやダンスとは違う感情を、書くことに抱いているのだろう。

:

自分であって、自分でない

よく、「それは本当にやりたいことなの?」といった問いを聞いた。

これに対して私は、「わからない。」といった状態であった。

しかし、今はなんとなくだが、わかる。
「わからない。」と答える時点では、まだ自分の内から湧き出てきたモノではないのだ。

それは、私にとってのウクレレやダンスといった自己表現のように、未だ誰かの曲や振り付けを表現しているに過ぎない状態なのではないだろうか。

自分の内から出てきたものを表現していないから、しっくりこないのは当然だ。
だから、自分の内から湧き出るものを感じ取ればいい。

その内から湧き出る何かにたどり着くまで、試行錯誤するのも当然で、"ふつう"なことだ。
それなのに私達は、「本当にやりたいことなの?」自問自答をし、試行錯誤している自分自身に不安を募らせる。

なぜなら、今までは内から湧き出るモノは生きていくのに必要でなかったし、内から湧き出るモノに耳を傾ける必要がなかったからだ。

だけど、きっとこれからは違う。
誰かの振り付けで、一生懸命練習して、本番に臨み、誰よりも上手く踊ったとしても、それは自分であって自分ではない。
違和感や虚無感に襲われるのは、時間の問題だ。

私達が自己表現をするのは、本能的なものだ。

だから、私たちは今日も自分が見た世界について話したり、SNSの投稿をしたり、服をコーディネートしたり、部屋を飾ったり....と何らかのカタチで自己表現をしていくのだろう。

その自己表現が、
「自分があって、自分であるもの。」でありたい。

読んでくれて、ありがとうございます。ではまた!

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