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存在する愛情の殆どがエゴ

私は、世の中には"無償の愛"が存在するものかと思ってました。

映画を観ても、何を観ても大抵存在するかのように、無償の愛がいかに素晴らしいかを物語っているから。


だけど、私は無償の愛が存在すると信じられていたこと自体に、自分自身が苦しんでいたんじゃないかと最近思ったのでこんな記事を書いてみた!


親→子は"無償の愛"という幻想は傲慢

というのも、私は自分の家族がずっと好きになれなくて、本気で悩んでいた。

怒ったら手をあげる親と、それをカバーしてくれる大人が親族含め見事に周りに誰もいなかったから。


けど周囲からは、

「お父さんもあなたのことを想って言っている」だとか「怒られてるうちが華だ」とか、「そんなこと言っても親は私達をここまで育ててくれたんだからありがたく思いなさい」

とか本当に色々と親族に言われてきた。

そう思いたいけど、できないから辛いのに。


...だから、これまで私はこれを全部を素直には受け入れられなかった。

だって、自分が辛かったのは事実だったから、

「親から愛情を受けたと感じなかった」という事実が自分の中にはあるんだから、一緒に生活していない自分の気持ちを100%わからない人に何を言われても響かなかった。


もちろん一理あるし、そう100%思えたらしんどさも軽くなって幸せなんだろうなと当時は本当に思った。

今の自分は半分は思えていて、半分は反論を持っている。


だから、ここではっきりと言いたいのは

「親から子供への愛は無条件で注がれているなんて話は滅多にない。」

ということ。


なぜなら、この記事のタイトル通り

「存在する愛情の殆どがエゴ」

だからだ。

正確に言えば、

「無償の愛として気持ちでは持っていても、コミュニケーションとして表現できていない場合は、結果的に無償の愛として受け止められない」

ということが言いたい。


これは、これから子供を持つ未来の親になる人にも言いたい。

「自分が無条件に子供に愛を注いでる」と勘違いしている人は本当に多い。


親から子への愛が全部が無条件で無償の愛だと言うなら、家庭内暴力も子供の非行も、家庭内殺人も、モラハラも...etc

これらは、この世の中で起きてない。


ここでは、無償の愛を「見返りを求めない愛情」だとする。

私は無償の愛の存在を本当に願っていたし、自分で仮説検証していたけど、結果的に存在しないという結論に至った。

無償の愛を願っていたのは、親からのきつい言動もベースには無条件の愛情があると思いたかったからなんだと思う。

カタチがなんであれ、ベースに愛情があれば救われると今思えば幻想のように思っていた。


「存在する愛情の殆どがエゴ」だと思うのには理由がある。

「愛情もコミュニケーションの一環にすぎないから。」だ。

ここで必要なのは、"コミュニケーションが何を指すのか"

コミュニケーション ・・・人(他人も自分も)を知るための方法です。 人の心理(考え・感情)を表現し、理解し合うこと。

コミュニケーションを上のような定義とするならば、愛だって「人の心理を理解し合うこと」ありきで愛情とコミュニケーションはセット。だから愛はコミュニケーションの一環だと思う。

犬だったり猫だって、可愛がられたら反応を示してくれる。

恋愛も友情も、家族愛も、保つために共通していることは同じで"いかに互いに理解し合えるか"だと思うのです。


愛情だって、コミュニケーションの一環なのだから、キャッチボールのように育むのが良いんじゃ?

親と子供ならば、親がキャッチボールになるように先導して子供とコミュニケーションを取るべきなんじゃ?



コミュニケーションは、人類の生き残った術

人間、コミュニケーションを取る上で見返りを求めずに済んでしまうのならば、ホモ・サピエンスはコミュニケーションという術では生き残ってきていないと思ったからだ。

人間(ホモ・サピエンス)は、コミュニケーションによって、集団を作り出したことでネアンデルタール人より生存能力の強い種として生き残ってきた。

個人で行動することの多かったネアンデルタール人に対して、ホモ・サピエンスは、集団で行動し、考え方を統一することで、集団で行動することが可能だったから。

コミュニケーションをすることで、噂話が生まれ、“誰が信用できるか・誰が信用できないか”を見抜くことができて、より強い集団を作ることができたから。

だから、コミュニケーションは本能的にも、求めているものであると考えられる。

"コミュニケーション"というのは、相手の何らかのリアクションありきで成り立つものだから、見返りを求めるのは当たり前なのでは?

だから、言葉のキャッチボールというように、相手のリアクション無くしては成り立たない。

だから、コミュニケーションにおいての反応を求めるのが必然だとしたら見返りは求めるものなのではとも思う。


正直、無償の愛は所詮概念なんだから

「存在する」と思えば存在するし

「存在しない」と思えば存在しない。

私はそのくらいのものだと思ってる。



そもそも、

"無償の愛"というコトバが生まれたのも人間のエゴでは? 

...

私は、こんな風に考えてみた。

"無償の愛"という名の「拠り所」や「希望・理想」のような概念に近く存在するか否かは別のものがあれば、そのコトバに甘んじて惰性してしまうモノなのではないか。

だって現実(自身)を変えるより、理想を夢見る方が楽だから。脳内では、自分自身を変える努力をするよりも、理想や夢を見ている方がストレスがかからないのではないか?

自身を変えることは物凄くエネルギーのかかることだと思う。だって今までそれで生きてこれたから、生存本能的にも変えたがらないものなはずだから。


だから、

"無償の愛 "という不確かなモノの存在を信じ、無意識に脳内では比較してしまってるのではないだろうか。

よその家の夫婦の仲が良いと、うちにはない"無償の愛"のようなモノがあるのではと。

そして、比較したらうちにはそんなものが存在していないとは悲観してしまうのではないかと。


しかし、愛情は互いが常に理解し合おうとすることだと思う。つまりコミュニケーション。

HOWである"コミュニケーション"があってこそ愛情は成り立つ。

なのに、日々のコミュニケーションが十分でないのに"理想的な愛のカタチ"を見て嘆くのは、矛盾してないだろうか。行動が間違ってないだろうか。


だから、自分がこれから出来るのは、「存在する愛情の殆どがエゴ」なのだから、どうやったら好きな人と変わらずに一緒にいられるかを考えながら日々成長していくことに尽きると思った。

はじめからカタチがあるものではないと思う。

型にハメようとするから、おかしくなる。

"無償の愛という型"があって、それを埋めていって完成するパズルのようなものでもない。

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みんなで支え合って繋がって、同じくらいの愛情をお互いが注いで向かい合って形づくっていくものなんだと思う。

愛のかたちの正解は知らずに、皆で作っていくもの。

パズルで例えるなら、パズルのピースのカタチも、完成するカタチも自分達で自ら考えて創造していくのが良いのだと思う!

これが素晴らしいカタチだなぁと私は思いました。

無償だろうが、有償だろうがなんだろうが、カタチがなんだろうが、2人が思いやっていて支え合い続けられて、互いに幸せならば良い!

それぞれにあったカタチを、自分達で考えて作っていくことこそが何にもとらわれずに済む幸せなんじゃないでしょうか。

こういう概念的な話したい人いたら是非話したい。。

そんなことを考えていた最近でした✍️


#アダルトチルドレン #家族 #親子関係 #家族のあり方 #歪んだ愛情

#エゴな愛情 #無償の愛


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