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清貧とは生きること(稼ぐこと)に戦略を持たないことである

清貧とは たし算しか使わず、かけ算を使わない稼ぎ方のことである

自分に学びが積みあがらない、自分にスキルが追加されていかない、ただ与えられた仕事をこなすだけ。そんな働き方に甘んじる。
ひたすら時給のたし算で生きる生き方のことでもある。

自分を汚さない、自分はいい人で在りたいがゆえ、社会的に「正義」と定義づけられることのみを実行して生きていくから豊かになれないのである。

したたかであざとい女を人は嫌うが、
したたかさと、あざとさに、「賢さ」を追加した女が実は最強である。
なぜならそのしたたかさと、あざとさを巧妙に隠すからだ。人からどう見られているのか、それを敏感に察知できる感受性と俯瞰の視点を持っている女が最強だろう、と私は思う。(あえて「女」としたのは、生物学的に男より女の遺伝子の方が安定しているから)
普通のふりをして、実は計算高い人間は、はたから見て見抜けないことが多い。

したたかさとは、感情やエゴの奴隷にはならない心を鍛えたものがもつ強さである。

自分の感情を、一時的に棚上げし、長期的にみて、最後に得られる利益のために動く。
承認欲求、愛情欲求に翻弄されない人間が最後に利益を獲得するのだ。余裕をもって勝つことによって一度棚上げした感情、つまり承認欲求や、愛情欲求さえも満たされる結果がついてくる。


たとえ、消せないほどの深い承認欲求や愛情欲求を持っていたとしてもそんなものは誰彼構わず見せない方がよい。「愛されたい」「養われたい」を前面に出す女ほど、「まともないい男」は寄ってこないという皮肉な現実がある。

よく考えてみてごらん。「愛されたくてたまらない」「養われてぬくぬく生きていきたい」を全身から滲みだす女には、人を利用して、人を道具のように扱いたい自己愛男が寄ってくるのだよ。

「愛されたい」「養われたい」願望を持つのは別にいいのだが、それは巧妙に隠して、まずとりあえず自立してみる。それによってその余裕があるたたずまいに惹かれて本物の「いい男」がよってくるのだ。

少し話がそれたが、とにかく承認欲求や生存不安を持つ「いい人」ってのは貧乏だ。心も。それが言いたかった。


※ただし、人に何も求めない「いい人」は例外。そういう人は、誰かに搾取されない賢さと強さ、そして何より人望を持っているから貧乏にはならない。


清貧なんてクソくらえ


そう思う。

なぜならかつて、私は常識や正義という判断基準を指針に生きて、それでひどい目にあったからだ。
性善説をあまりにも信じすぎた。
人の心の最後には愛があると信じすぎた。

ゆえにモラハラに合い、自殺を考えるほどまで追い込まれた。


自分も含めてすべての人間というものは善ではない。悪でもない。

「生き物が地球上でうごめいている」それだけの存在。

だからこそ正義とか、常識とか正しさにとらわれすぎて清貧になるなんて、バカげたことだ。そもそも、「正義」「常識」の概念など自然界には存在していない。人間の脳内にしか存在することができない。質量をもたない単なる概念でしかない。


動物としてのあざとさ、人としての賢さをもって、自分を汚して、賢くチョロく、舗装された道路ではなく、あぜ道の近道を行く方が楽だし楽しい!ということにようやく気が付いた。

35歳にしてようやく器用な世渡りを覚えた。


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