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水辺サイクリングのすすめ

普段はディズニーランドへの乗り換え駅として使用される新木場駅も、このコロナ禍ではさすがに人の流れが落ち着いている。

今朝、夏が始まるというのに衣替えをさぼったままのクローゼットから、一番動きやすそうな服を引っ張りだしてきた。まだ大学生だった頃に吉祥寺の古着屋で手に入れた丈の長い黒のカットソーと、いつ買ったかすら覚えていない無印良品のベージュのチノパンツ。飾り気が無さすぎるかとも思ったけれど、高校時代の旧友とのサイクリングだし、まあ良いだろう。

今日は、最近巷でよく見かけるドコモのシェアサイクルを利用して、新木場駅から東京湾に向かって南下し、若洲海浜公園を目指すプランを決行する。人気を避けつつリモートワークの鬱憤を発散しようと、友人と編み出した休日企画だ。いざ漕ぎ出すと、電動自転車ですいすいと風を切っていく感覚が爽快だった。行き交う人がまばらだったから、2人して上機嫌にサザンオールスターズなんか口ずさんでしまった。ドコモの真っ赤なシェアサイクルに乗った女2人が、鼻歌を歌いながら滑走している姿は、今思えばさぞ異様だったろう。

若洲海浜公園に到着し、サイクリングロードの案内に沿ってぐるりと園内を進むと、東京湾にかかる東京ゲートブリッジのふもとにたどり着いた。岸に沿って、釣りを楽しむおじさん達で賑わっていた。大学時代に訪れたイスタンブールで、観光名所ガラタ橋に沿って釣り竿を垂らしていたトルコのおじさん達と重なる。やはりおじさんが釣りをしている姿には、世界中どこに行っても”浪漫”を感じさせるものがあるなぁ。少しずつ西の底に隠れゆく夕日に照らされながら、その日の成果に一喜一憂するわけでもなく、半分惰性とも言える佇まいで釣竿を弄んでいる姿。正しい休日の過ごし方を知っている人たちの、なにげない一コマ。
うん、グッとくる。

橋の真下をくぐって奥に進むと、広い芝生があったので、自転車を止めてひと休みすることにした。初夏ならではの艶っぽい黄緑の芝生に、ごろんと大の字に寝転がった。隣に座っていた友人は、私があまりに躊躇なく寝転んだことがおかしかったらしく、笑いながら私の姿をスマホで撮っていた。でもあまりに気持ちよさそうにしてるので、結局羨ましくなったらしい。「芝生に直に寝転がるなんていつぶりだろ〜」とつぶやきながら寝転んだ。

実は家を出る直前、ビームスのリネン素材の洒落たワイドパンツにしようかと迷った。だけど、やめておいてよかったな。無印のチノパンツがとってもフィットする日なんだ、今日は。地面に預けた後頭部をふと横に傾けると、手前の草ごしに薄ピンク色の花が咲いているのが見えた。緑一面の芝生の中に、こんなに可愛い花が咲くものなんだな、と思った。やっぱり春だからかな、だとしたら今来ておいて正解だったな、とも思った。上半身を起こすと、風に揺れる東京湾の水面と、長くそびえる東京ゲートブリッジ、その奥にはこまごまと小さく連なる摩天楼が見渡せた。

若洲海浜公園で思う存分に海沿いを走ったあとは、10kmほど先に見える東京スカイツリーを目指して荒川沿いを走ろうということになった。この選択は大正解だった。荒川沿いの河川敷には、海沿いの釣り人たちと同じように、休日の過ごし方を知っている人たちが沢山いた。ひとりランニングをしている青年、将棋盤を囲んでいるお爺ちゃんたち、テニスコートでダブルス試合を楽しむ集団、サイクリングをしている家族連れ。。。みんな”素”という感じだった。私は東京の東側はあまり詳しくないのだが、これが下町っぽさと言うものなのだろうか。

どこの国を旅していても、海や川のほとりで思い思いの時間を過ごしている人々を見ていると、これが人間の自然だ。あるべき姿だ。という気持ちになる。人が衣食住を営む中での自然の流れとして、水辺で暮らしの一コマを過ごすことが組み込まれているべきだと私は思う。

普段、埋立地にびっしりそびえ立つビル群のようにあまりに人工的なものを見ると、その不自然さに恐怖を抱いてしまう私だが、今日はそれをあまり感じずに済んだ。それは、都内にしては比較的広い空と、水辺と、その近くで普段着で思い思いの時間を過ごす人々にふれたからかもしれない。不自然極まりないビル群の中でも、人という生き物の自然なリズムは失われていないんだと思えた。

そう、どこにいたって、きっとなんにも心配いらないんだよな。
比較的広い空と、ささやかな水の音と、人々の思い思いの時間さえ流れていれば。




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