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人生価値を最大化するために、死を見つめる。

「死」を意識して生きている人はどれくらいいるだろうか。身近な人の死や病気で意識する人もいるかもしれない。もしくはそんな事は考えたくないと意識して蓋をしている人も多いと思う。死は怖いものである。何故なら、生きている限り絶対に知る事の出来ない未知の体験だからだ。

しかし、残念ながら「死」は必ず訪れる必須の真理だし、人間の最終達成目標は「死」であると言っても過言ではないと私は思っている。

このnoteでは私の死生観についてまとめていき、誰かの生きるヒントになれば幸いである。


死生観との出会い

死生観との出会いは小学校の頃に見た「メメントモリ」という言葉である。これは国語に載っていたフレーズだ。もうどんなタイトルの話だったかさえ忘れてしまったのに、幼い私の心に強烈に刻まれてしまった言葉だ。

『メメント・モリ』

ラテン語であり直訳すると<死を憶(おも)え>である。

諸説あるが私が気に入っているのは古代ローマにおいて凱旋の前に兵士が歌った、もしくはキリストの教えの一節である

”今日はお酒を飲んで踊って歌おうじゃないか、我々は明日死ぬのだから”

という解釈だ。「今この瞬間を楽しめ」「今を生きろ」にも繋がる。死を想いながら笑顔で歌って踊るとはどんな心境なのだろう。小学生の私には全く理解が出来なかった。今もまだ理解が出来るとは想えない。

同じ話だったか定かではないが、

猟の際、銃を向けられた鹿は瞬時に死を覚悟する。覚悟した鹿はその時点で人間よりも聡い存在である。という話も記憶に強烈に残っている。

大人になった今で尚、銃を向けられた瞬間に私は死を覚悟できるだろうかと考える。明日死ぬとわかっていながら歌って踊れるかと考えてみる。


だめだ、死を考えるだけで心の深いところがじわじわと疼き血液が逆流するような怖さが拭えない。禁忌の言葉であるかのように遺伝子が騒つくかのような恐ろしさが押し寄せる。


年齢をいくら重ねても死への恐怖は付きまとう。捨てられない物が増えるほど死への恐怖も比例する。まさに生への執着が死をますます際立たせる。

それなのにどうしても死に惹きつけられてしまう自分もいる。

世界広し、諸行無常といえどこの世界で一つだけ確実なものがある。それが「死」だ。寿命の差はあれど死なない人間はいない。裕福でも貧困でも男でも女でも偉くても無知でも立場など関係ない。

人は必ず死ぬ。

これだけは普遍であり人が目の当たりにできる確実な真理である。死ぬからこそ人は揺らぎ、不条理に怯え、そして時に癒される。死は優しいとさえ思える。


何故生きるのかを考える

では何故人は生きるのか。もしくは生きる定義とはなんだろう。私の中で生きるという定義は息をして時間を貪りながら生存することではない。結論をいうと私は「今の瞬間の密度を最大値にすること」が生きるであると考えている。そしてそれが「人生価値の最大化」になると。

ここで、私がループした問答を載せたい。

何故私は生きるのか

ーどうせ死んでしまうのに

何故私は頑張るのか

ーどうせ死んでしまうのに

***

どうせ死んでしまうのに

ーだから私は「今」生きるしかない(明日はどうなるかわからない)

どうせ死んでしまうのに

ーだから私は「今」を楽しむしかない(いつ死んでも後悔しないように)

人間は厳密にいうと「今」しか生きられないのである。過ぎ去った今もまだ見ぬ未来も「今」には存在しない。

人が本当に生きようとした時、そこに必ず「死」が見える。

生きたいから自分なりの死を考える

仕事の最終目標達成なんか後回しで良い。私の、人間の、最終目標達成値は「死」なのだから。そこを考えずして中間目標が生まれようか。


死を想う故に生あり

私にとって自分の死はとても身近だ。生きる指標と言っても良い。死がない生など造花のようなもので、偽物に過ぎない。イミテーションのように生きたくはないのだ。

限られた人生を濃密に過ごす方法は、「死を意識」する以外に方法はない。人生の締め切りは確実にやってくる。

なんとなく生きているという自分を見つけたのなら、明日死んでも後悔しない毎日を送れるように是非「死」と向き合って見てもらいたい。

自分の生きた痕跡は自分でしか残せないのだから。


他者の死

ここで、私が最も後悔した事を記載したい。自分なりに自分の死を見つめて生きてきた。上述のように「人生の最大化」を意識して生きてきた私の意識は自分に向いていたが。

ー他者もまた突然死んでしまう

という事が抜け落ちていた。私にそれを知らしめたのが、幼馴染の死だった。私は他者が突然死んでしまうという事を理解していなかった。また会えると信じて止まず、幼馴染からのLINEの返事を返してないまま突然彼女はこの世からいなくなってしまった。そしてようやく私は、もう一生、幼馴染に返事が届く事がない事を理解した。

自分の死だけではなく、他者も死んでしまうというのがこの世界のルールだ。あたりまえだ。あたりまえのルールなのに、上っ面だけの理解しか出来ていなかったのだ。私は返事をしていないという事をとても後悔した。

「一期一会」という言葉の大切さも「死」がなければ実感できなかった自分の無能さだ。


自分も親も誰か大切な人も、もしかしたら明日いなくなってしまうかもしれない。

そんな時に「常識」や「自分じゃない誰かが決めたルール」で自分の欲求を抑えるのはとても不毛だし、大切な誰かを蔑ろにして生きて後悔しない人はいないだろう。


後悔しないように

仕事が自分の人生のミッションであると感じるならば、仕事を頑張ればいい。好きな人と一緒に生きるのが幸せな人は生活を丁寧に暮らせばいい。人によって満足する人生はきっと違うけれど、自分の人生のゴールを考えて、今を大切に生きて欲しい。

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