見出し画像

食を巡るやさしさ、またはあるオジサンの語りについて

 富裕層から困窮者、老若男女、国籍もそれぞれ。様々な人に出会う仕事をしていると、唐突に深く考えさせられることがある。
 その人は細く浅黒い肌をして、にっこりと笑う声の大きなオジサン(年齢的にはおそらく明らかにおじいさんだが、ご本人がオジサンと自称していたのでオジサンとする)だった。守秘義務があるから、色々はボカして書く。

 「なああんた、そんななりして肉は食うのかい。」
 「ええ、いただきますよ。」
 脈絡もなく突然の質問だったので、多分わたしはきょとんとした顔で答えただろうと思う。
 「そうかい。」
 オジサンは斜め下に視線を落とすと、いつにない口調で続けた。
 「そんなら良かった。」
 そして身の上話をはじめた。これまで何年にもわたりこのオジサンとは顔を合わせる機会があったが、そんなことはこの日がはじめてだった。
 「おりゃあな、昔ゃ屠場にいたのよ。こっちに越してくる前な。」
 
 オジサン曰わく、最初の仕事を理由あって辞めたあと、やっとのことで紹介されたのが食肉工場だった。
 一般的に栄養状態が今より良くなかった時代、食に携わるという気持ちで必死に働いたということ。昔はハンマーでやったものだが、時代が変わり気絶させるようになったということ。仕事には誇りがあったということ。
 そして、家がなかなか借りられなかったということ。

 「えっ、家がですか?お部屋ってことですよね。」
 びっくりするわたしにオジサンは言った。
 「生き物をぶっ殺すってんでさあ、差別されちゃうんだわ。何軒も何軒も探してよう、ダメだって門前払いよ。」
 それは憤りと悲しさの入り混じった、なんとも形容しがたい表情だった。

 わたしの義務教育時代の恩師のひとりは栄養学がご専門だったので、医学薬学の進歩や伝統的和食に加え、動物性タンパク質をバランスよく食べることが如何に日本人の体格を良くし寿命をのばしてきたかについてはかなりしっかり教えていただいたと思う。そこから興味関心を深めてきたし、今も栄養士と面談をする機会をもっている。
 野菜を充分にとること、肉や魚も食べること。海藻類やきのこ、豆類や穀類もバランスよく。人体は精密な化学工場のようなものであって、過剰摂取や欠乏など偏った食事では負荷がかかり、場合によっては著しく健康を害するということも学んできた。

 バランスよい食に貢献してきた人が、何故差別されなければならないのか。誰かに長生きしてほしいという先人たちの思いもまた、祈りでありやさしさではないのか。
 「仲間は被差別の人が多かったけどよう」という言葉を耳にして、ああ、それは歴史や道徳の教科書に封印されたことではなかったのだな、と思った。
 こういう言い方がよいのかどうかはわからない。わたしの目の前に、生きた歴史があった。負の歴史による被害者。はじめてそれに触れた瞬間だった。
 
 食とやさしさを結び付ける昨今の言説を目にするたび、それは両刃の剣ではないのかと訝しんでいる。
 家畜に向けた刃をおさめるために引いたとして、後ろ手で従事者を斬ってはいないか。感染症禍で職を追われる人たち、ことエンタメ業界や飲食業界が「不要不急」の言葉で追いやられた苦境に、この社会は悩みつつも焦り同情し、何とかならないかと声を上げたのではなかったか。業界が異なれば、やれ不要と切り捨てていいのだろうか。
 差別の再生産になってはいないだろうか。かわいそうなのは、動物だけだろうか。すべての人が菜食になれば、という言葉を見るにつけ、では畜産や酪農に携わる労働者はいったいどこにいけばいいのだろうと考え込んでしまう。
 
 この狭く急峻な地形の国土において、カロリーベースでどうしたらそれだけの食用植物を賄えるだろうか。農業は日々害虫害獣と向き合うことでもある。命をまったく奪わないというのはなかなか無理がある。ならば土から離れて、オートメーションの野菜工場か。それも悪くない、だが果たして自然な成り行きなのか?地域経済的にも国防的にも、一部の経済強者が食を統べる世の中でいいのか。
 経済動物であった元家畜たちは、軽やかに野に放されるわけもない。世話をする仕事がなくなれば、彼らもまた速やかに消えゆくのだろう──消費すらされずに。衛生管理も、獣医師による診察も、勿論日々の餌や水もタダではないのだから。
 
 皮革産業はどうだろう。皮革は食肉の副産物だ。しっかりとした製品は長く使えるし、植物鞣しの技術もある。サスティナブルな素材だと思う。現にいまわたしの手元にあるレザーアイテムは、古いもので40年も前の製品を譲り受けたものだ。当然ながらその間これに関しては、生産や廃棄による環境負荷もかかっていない。
 だが原材料が副産物である限り、主たる産物がなくなれば高額化もしくは衰退する。早ければ3年もすれば変質してしまう人工素材の代替レザー製品(その多くは原油由来のプラスチック)を買っては捨てての繰り返しがエコとは、ちょっと思えない。
 綿にしても、大規模栽培には農薬が要る。蜜蜂への影響はどうだろう。これまで有機農業に使われてきた畜産副産物がなくなったとき、農業はどのように変わるだろうか?
 
 環境や健康を考えて、バランスの取り方を再考するのはとてもよいことだと思う。可食部100グラムあたりの栄養成分量と許容一日摂取量、欠乏時や過剰摂取時に起こり得ることなどをしっかりわかっているならば、成人については自己判断なのだから。(成長期に関してはまた別の知識が必要になるのは言うまでもない。)
 目にした、一見素敵に見えるその思想は、ゼロサム思考に陥ってはいないだろうか。独り善がりではないのか、誰かを追いやってはいないのか。立ち止まってぐるりと見回し、じっくり考えてみてもいいはずだ。


この記事が参加している募集

多様性を考える

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」