見出し画像

君、貶めること勿れ

 オリンピック音楽担当某氏の過去におけるいじめとその告白記事が物議を醸している。いまこの時も燃え盛っていると言っていいだろう。 
 炎上に触れると、加担しているようで気が進まない。この件、ストック型メディアであるnoteでは何も触れずにスルーしようかとも思ったものの、若干カルチャーに片足を突っ込み続けた人間として書き留めておくことにした。

始まりと終わりの契機

 件のいじめ告白記事は、もうとっくの昔に読んで知っていた。本当に気分の悪い、悪趣味な記事だと思う。他方、その前からフリッパーズギターを愛聴していたし、ソロの音源も今でも持っている。
 作り手がしょうもなくても出来上がった芸術が素晴らしい、なんてことはよくある話だ。表向きは素晴らしく「見える」芸能人に実際会ったら、ほとほと嫌気がさすこともあるのだ。誰とは言わないけれど、実体験がポンと脳裏にポップアップする。
 ただし。作品の輝き自体には何の変わりもないけれど、ふとした拍子に読んだ文字列の衝撃を思い出さないかといえば、悲しいかなそんなことは全然ない。

 「悪いことをして直ちには咎められなかったとしても、いつか昔の自分が今の自分を殴りにくる」という言葉を昔読んだか聞いたのだけれど、心底そうだなあと思って見ていた。
 道を踏み外して更生した人が過大評価されて、ずっと真面目な人はつまらないと言われがち。(ハロー効果によるゲイン効果)誰にでもやり直すチャンスはあるが、暗い過去から目を背けてひたすら逃げ続けるわけにはいかない。
 それはやっぱりおかしいのだ。おかしいことに、いつか終わりはくる。

Twitterフリートより

 

カルチャーのこと

 90年代カルチャーはそういうものだから、という擁護の声もあるが、そんなことは全くない。「90年代カルチャー」という言い方自体が、主語として大きすぎる。
 カルチャーに対するサブカルチャーがあるように、サブカルチャーの中にもさらにカウンターカルチャーがあるのだ。鬼畜悪趣味系なんて(今より勢いがあれど)よりニッチなのに、あたかも90'sすべてを表すように言うのはおかしい。

 実際、ファンを公言していた人がインタビューを機に離れたという話もよく聞いた。元々インタビューでの態度がよろしくないとの印象が強い(もしくはそういうひねくれたイメージ売りの)人ではあったし、他ミュージシャンをディスるのが恒常化していたものの、あの衝撃的な内容はクリティカルダメージだった。音楽性との乖離も大きかった。
 この話は何度も掘り起こされてきたし、そのたびに彼の楽曲を愛していた人達にダメージを与え続けてはいたのだ。

 「みんなやってたんだからいいじゃん」の嘘を見破れないと、いつまで経っても蒸し返されてしまう。そうした論調が見えてすぐに本人からの謝罪コメントが出たのは、内容はともかくとして良かったような気がする。当時のカルチャー全体が無駄に汚されずに済む。
 逆に「当時はそれが当たり前」と思っている人は、そういう界隈にだけいたということではないだろうか。それはある種の自己紹介とも見える。

 逆張り、つまりカウンターカルチャーなどいつの時代にもある。
 さらにカウンターカルチャーのメインストリームにもなれない、100人いたら95人は眉を顰めるようなものも必ず存在する。
 それをあたかも時代の主流みたいに言ってしまう意図とは何だろう。そういうことをすると全体が小馬鹿にされかねないのにも関わらず。カルチャーを愛するものが、そんなに雑にカルチャーを語ってよいのだろうか。
 そしてそもそも、個人の尊厳を執拗に貶める行為はカルチャーとは呼べない代物だ。
 

やりすぎと相似形

 気をつけなければならないことがある。安全圏から大勢で袋叩きするような行いは、ともするといじめと相似の構図になってしまいがちだ。物申したいと思った時に、一回立ち止まるだけの冷静さ慎重さはあったほうがいいと思う。その上で思いを表明する権利は、誰にだってある。

 許す許さないは当事者とその小さな周囲が決めることで、年月が幾ら経とうがその自由は上っ面の綺麗事に侵されてよいものではない。
 心底悔いて反省した人には差し伸べられる手があってほしいものだが、つらくても許さないという選択肢は誰にも邪魔できないものだ。内心の自由はかならずある。それを忘れて美談に纏めようとする姿勢は、他者への尊重を欠いている。

 しかしこれは、第三者に騙られるものでも、勝手に代理されるものでもない。
 

読み違えられた未来

 キャスティングやブッキングをする時、予め複数の候補を想定するケースが多いのではないかと思う。
 昔ならばタレント名鑑片手に首っ引きなんていうところ、今だと公式ウェブサイトを参照したりするのだろうか。そしておそらく、その人がどういう人なのかを調べるはずだ。

  今回の件で一番問題なのは、適材適所という基本を、こともあろうにオリンピックの大舞台で蔑ろにしてしまったことにあるのではないか。
 わたしには、本件が「おもてなし」の精神からもオリンピック精神からも程遠いように見える。当初のプランを白紙にしたこととどうリンクしているのかはわからないが、日本という国とその文化を世界に見せる場で、始まる前からこのような炎上が起きてしまったことが、とても悲しい。
 
 

 ◇ ◇ ◇

 表舞台に立つ人間に過度に理想を押し付けるのは、それはそれで大問題ではある。
 パブリックイメージと実像との乖離。聖人化されたり共有物のように扱われるのがつらくなり、心のバランスを失ってしまう人もいる。悪役をするとそのイメージがつきまとってしまうのもそうした乖離のひとつだ。
 今回は、でもそこからはちょっとズレている。いじめは連綿と続く社会問題であり、書かれた内容はあまりに酷すぎる。話を盛っているかどうかは別として、武勇伝として公表されていることが問題。ひとりひとりがNOを心に抱くことは大切だ。

 願わくば、正義の鉄槌ならば誰かを犠牲にしてもいいといった過激な方向には進まないで欲しい。第三者の暴走、それはそれで大きな暴力になりうるのだから。
 

関連note 

怒るという感情について書いています。


 

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」