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それは割引しなくていい。

人間はどうしたって群れて暮らす生き物だから、時として他人の軸ではかられる。 

「でも、良かったよね初期で。切ればなくなるもの。」
「芸能人の○○は大変で可哀想だったけれど、良かったわね。」

がんになったわたしに、幾度もなくかけられた言葉だ。
確かにわたしは超初期の乳がん、ステージでいえば0。ステージゼロは、5年生存率100%だ。闘病記や闘病ドラマがあふれている中で、それは「良かった」に属するのだろう。

しこりをつくらないそのがんで、わたしは片胸を失った。今あるのは、主治医が生み出した第二の胸だ。全摘から再建の手術へ、その行程は入院手術だけで全5回になる。

わたしはいつもへらへらと笑っているから、多分、悩みもなく幸せに見えるだろう。主治医の腕はとても良かったし、早期発見で完治するのは有り難いとも思う。
でもがんになって良かった、とは思わない。もしがんになる道とならない道があり、その三叉路まで戻れるならば、わたしはがんにならない道を迷わず進む。

がんだけが特別な経験じゃない。
わたしは過去にPTSDも経験したし、がん以外に戦うべきものや体質上治らないものもある。
周りには難病を抱えた人や、心臓病を抱えた人もいる。若くして家族を失った人や、不慮の事故で身体の自由を制限されてしまった人もいる。
多分わたしが知らないだけで、ひっそり誰にも言わずに何かと戦っている人がいる。
みんな、いつしか何かを抱えて生きていくものなのだろう、と思う。

「○○さん」と比べて良かったね、ということに、実のところ大した意味なんてない。感じ方なんて、つまるところ人それぞれだからだ。
むしろそう周囲から言われてしまうことで、「つらい」や「かなしい」は陳腐で小さなものにされてしまう。そっと打ち明けたり、聞いてもらうことが難しくなってしまう。我慢を強いられると、その我慢は他者に伝播してしまう。

胸の内で感じていることを、割引しなくていいんだよ。

みんながそう思える、互いを思いあえる社会であればいいなと、心から願う。

#こんな社会だったらいいな

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」