人の話を真剣に理解するって大切なことだよね
人生の中で反省することは多いが、中でも僕が反省していることの一つに
「人の話を真剣に理解しようとしなかった」
ことがある。
言い訳がましくなってしまうのだけれど、僕は「人の話を理解しようとしなかった」わけではない。相手の主張や考えを理解しないで適当なことを言ったり、ゆがんだ解釈をして揚げ足を取ったりしたことはない、と信じたい(もちろん能力的な限界によりそうなってしまった場合はあるだろうけれど)。
むしろ僕は「人の話を理解しよう」と努めてきた。
つまり僕は「人の話を理解しよう」とはしたけれど、「人の話を真剣に理解しよう」とはしなかった、ということだ。
では、この二つは何が違うのか?
表面的には「真剣に」という言葉が入っているかいないかの違いがあり、それが本質的な違いでもある、と僕は考えている。
僕が人の話を理解しようとしたとき、それはあくまでも
「自分の考えを述べるために」
していた。
相手の話を理解することなく何らかの意見を述べることは、はっきり言って何の意味もないことだと思う。実際に理解できるかどうかは別にしても、少なくとも理解しようと努めるべきだろう。
という考えのもと、僕は人の話を理解しようと努めた。繰り返すが、その目的は自分の考えを述べることにあった。
今思うと、この姿勢はいろいろな意味で非常によくなかったと思う。僕はもっと「真剣に」人の話を理解しようとするべきだったのだ。
自分の考えを述べよう、述べなければならないなどという雑念は消し去って、心の底から理解しようと努める。相手の発言の奥にある、もしかしたら話者ですら気が付いていない真実に到達し得るほど真剣に。純粋な心で語られる言葉に耳を傾ける。僕はそうするべきだった。
それはなぜか? 理由は三つある。
第一に、本当の意味で価値のある意見を述べることは、そうすることによってのみ可能になるからだ。
確かにそれなりの理解でも、それなりのことは言えるだろう。だが、所詮それなりの意見だ。そんなことは誰にでも言えるし、話者本人だってすぐに気が付く程度のことだ。あるいは、すでに気が付いているかもしれない。
第二に、そもそも意見を求められていない場合が多いからだ。もちろん意見を求められている場合もあるが、経験的にはそうでない場合の方が多かった、ように思う(振り返ってみると。つまり僕は無駄に自分の考えを述べていた、というわけだ)。
そのような場合、話者が求めているのは当然ながら意見ではない。純粋で真摯な理解だ。
以上の二つは、話者にとっての利益に関することだ。だが、理由の三つ目は性質が違う。それは聴き手、すなわち僕の利益に関すること。
第三の理由、それは、真剣に話を理解する、あるいはしようとすることで、僕の世界は確実に広がる、というものである。
ここで言う世界とは、思考可能な領域という意味だ。思考可能な領域はその人の知識量で決まるので、当然と言えば当然である(これを聞いて、ある哲学者を思い浮かべた人もいるだろう。僕は彼から影響を受けている。もっとも、そんなに厳密な話をしたいわけではないのだ。知識が多い人の方が、思考できることが多い(可能性が高い)よね? そういうふわっとした話がしたいのである。あるいは、勉強や学びに思考を飛ばした人もいるかもしれない。人の話を理解することは学びの一種であると、僕も思う)。
さて、この第三の理由であるが、そもそもなぜこれが理由になっているのか疑問に思う人もいるかもしれない。第一第二の理由に比べて、メリットが見えにくいからだ。要は、「で、世界が広がってどうなるの?」ということである。
思考可能な領域の拡大のメリットとしてぱっと思いつくものは、例えば問題発見力・解決力の向上やそれ自体が純粋な喜びに直結することなどがある。もちろんこれらもメリットの一つであることは間違いないと思うが、僕が推したい点はこれらではない。
思考可能な領域の拡大は、他者、そして自己理解の深化につながり、それは最終的に他者と自己に対する思いやり、やさしさ、愛という形にたどり着く。僕はそう直感している。
青臭いことを、と思われる人もいるだろう。やや宗教的な香りに嫌気が差す人もいるかもしれない。それは仕方がない。だが僕は、世界に存在するすべての問いの決着は、この舞台でつけられると信じている。いや、信じていたいのだ。
以上三つの理由から、僕は人の話は真剣に理解しようと努めるべきである、と結論づける(細かいことが気になった人は補足4、5、6をお読みください)。
もっとも、「べき」とは言っているが、これを他の人に押し付けたいとは思わない。もちろん多くの人が他者の話を真剣に理解しようと努めるようになれば世界はもう少し平和になるとは思うけれど、基本的にこの「べき」は僕自身に対しての「べき」である。
誰もがそうであるように、僕は時の流れの中で少しずつだが成長した。小さなきっかけが何度も重なって、僕はこの考え、人の話は真剣に理解しようと努めるべきである、に至った。言ってしまえば理由は後付けなのだが、直感が論理に先行するのはよくあることである。
その「きっかけ」に遭遇し、他者の考えを理解することについて自らを省みるとき、必ず思い出すエピソードがある。
大学生の頃だった。
友人が言った。
「僕は、最も基礎的な学問は、もしかしたら政治学ではないかと思うんだよね」
会話は続く。きっとその内容について友人がさらに語り、僕は何かを述べたのだと思う。
そう。
きっと、なのだ。
残念ながら内容は覚えていない。僕が彼の話を真剣に理解しようとしなかったからだ。当時の僕は数学こそが至高で根源的な学問であると信じていた。仮にそうでなかったとしても、次に来るのは哲学か物理学だと考えていた。
はっきり言って「何を言っているんだこいつは?」と思っていたのである。
最も基礎的な学問は政治学である。
何と興味深い命題だろう。僕はその意図がまったくわからない。想像もできない。
それは、その考えについて僕が真摯に向き合うことができれば、僕の世界は確実に広がったことを意味しているように思われる。僕は非常に惜しいことをした。
残念だが、時を戻すことはできない。僕は未来に進むしかない。
だから僕は、自らに命じるのだ。同じ過ちを繰り返さないためにも。
【以下、長い長い補足あるいは言い訳】
1.本文中にも述べたのだけれど、僕は上の考えを他の人に押し付けるつもりはまったくない。無論、「僕のnoteはこんな風に読んで」と言っているわけでも決してない。むしろ基本的には僕の記事は気楽に読んで欲しいと思っている。休み時間の他愛ない雑談を聞くような感覚で読んで欲しい。もちろん真剣に読んでくださる方も大歓迎だ。
2.確かに僕は「人の話は真剣に理解しようと努めるべきである」という判断を、現時点では僕自身に課しているけれど、この判断に従うかは場合による。日常会話で毎回これを実践していたら、相手も僕も疲れてしまうだろう。同様に皆様のnoteを読ませていただく際も、ある時は全身全霊で理解しようとするし、ある時は友人との会話を楽しむように読ませていただこうと思う。この二つの姿勢を使い分けることをお許しいただきたい。また、どんなに真剣に理解しようとしても、そこに能力的な限界、環境的な限界があることはどうしようもないことだ。
3.本文で「相手の主張や考えを理解しないで適当なことを言ったり、ゆがんだ解釈をして揚げ足を取ったりしたことはない、と信じたい」と書いたが、思い返せば返すほど自信がなくなってきてしまった。
4.真剣に理解しようとする態度は非常に重要だが、残念ながらそれだけでは人の話を理解することはできない。知識や技術は当然必要になってくる。
5.本文の三つの理由から、人の話は真剣に理解しようと努めるべきである、という結論を導くためには、大前提として、人の話を真剣に理解しようとしなければ三つの理由で語られているような(ある種の)利益は得られない、ということを認めなくてはならない。つまり「別に適当に話を聞いても、価値のある意見は言えるし、相手も満足させられるし、自分の世界も広げることができるよ」という可能性を否定する必要があるということだ。
理由2については問題ないと思う。しかし理由1と理由3については、真剣に理解しようとする方が、そうでない場合よりも、価値のある意見が言える可能性、自分の世界を広げられる可能性が高い、としか言えないような気もする(認知資源に限界があるため)。
したがって、厳密に考えると、理由についても「真剣に理解しようとする方が、価値のある意見を言える可能性が高くなるから」というようにした方がよいのだろうが、僕の経験的には価値のある意見は全身全霊で理解しようとしたときのみ生み出されてきたので、このままで行こうと思う。理由3も同様だ(実のところ勢いで書いてしまったのだが、僕はnoteでは勢いを大切にしたい。それについては補足7もご覧ください)。
6.補足5についてさらに考えてみたい。「真剣に理解しようとする方が、価値のある意見を言える可能性が高くなるから」と述べたが、本当にそうだろうか? 確かに認知資源の限界を考えると、例えばテレビを見ながら話を聞くよりも、テレビを見ないで話を聞いた方が、価値のある意見を言えることは明らかだ。だが、本文中の例(というか僕の経験)のように「自分の考えを述べるために」相手の話を理解しようとする場合は、そうとも言い切れないようにも思う。アウトプットを前提にインプットをする方が、理解や記憶が促進されるというのは、よく言われる話だし、また僕たちの実感にも合っている(自己生成効果などもこの一種だろう)。
だが、ここで問題なのは「アウトプット」の質であるように思われる。相手の意見を自分の言葉で整理することと、自分の意見を述べることは、異なっているのではないか。僕自身は、真剣に理解しようとしたときの方がよい意見を言えるように思う。
7.noteでは感情的な文章を書きたいと思っている。詳しくは以下の記事で。
だが残念ながら、この記事は感情的な文章にはなっていないように思われる。妙に論理的な文章だ。と言っても、突っ込み所はいくらでもあるし、そもそも僕が理想とする論理的文章からは程遠い。
これは上の記事には書いていないのだが、僕はこのnoteを始める前から、ある人のnoteにはまっている。感情的な文章を書くと決めたのは、彼女(もしかしたら彼かもしれない。現実と虚構が入り混じった文章を書く人なのだ。だが、それは些細なことである)の影響は否定できないように思う。
感情的な文章を書くのは難しい。幻想の中で踊るような、そんな文章が書きたい。まだまだ修行が必要だ。
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