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教会の扉の回りの装飾に隠された悪のシンボル?裸の僧侶が行く着く先は?

ローマ市内を流れることで有名なテヴェレ川。古代その左岸はインド=ヨーロッパ語族に属するウンブリア人の領域で、右岸は独自の言語を使っていたエトルリア人の領域でした。中部イタリア、現在のウンブリア州、テヴェレ川が南から西に流れを変える地点の左岸の丘の上にある小さな町Todi(トーディ)も紀元前8世紀~7世紀にウンブリア人により建設され、町の名も「国境の町」という意味でした。

古代の中部イタリア、黄枠がウンブリア人、オレンジ枠がエトルリア人の領域。
国境であったテヴェレ川。その左岸にTodi(地図上ではラテン語のTuder)がある。
Pubblico dominio, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2328988

紀元前5世紀から4世紀にエトルリアの影響を受け大きく発展したトーディ。もしくは、その頃エトルリアにすでに併合されていたのかもしれません。他のエトルリア起源の町のように町の一番高い場所は、古代より神々に捧げられた聖域だったのでしょう。現在、その場所には、サン・フォルトゥナート教会が建っています。

サン・フォルトゥナート教会

すでに、エトルリアもしくはローマの神殿が建てられていたであろう場所につくられたサン・フォルトゥナート教会。教会前の両サイドにあるの2匹のライオンや聖水盤は、初期キリスト教(6世紀ぐらいまで)のものであり、1088年に聖フォルトゥナートに捧げられたという記録以前にこの地に寺院があったことを証明しています。

初期キリスト教時代のライオン
(あるサイトには、このライオンや次の聖水盤は私の好きなエトルリア時代のものと
書かれていたため、はりきって見に行きましたが、Wikipediaの表記のように
初期キリスト教時代のものというのが正しいように思われました。)
聖水盤。副柱頭(アーチ花壇と柱頭の間に置かれた補助柱頭)であったものが使われている。
教会内部

まるで建設途中かのような教会のファサード。1292年当時の流行に従い、ロマネスク様式からゴシック様式に変更されたサン・フォルトゥナート教会
しかし約150年後、1436年になって完成したのはファサードの下半分のみ。オルヴィエートをはじめ周辺の自治都市との争いは絶えず、軍費に資金をとられ、結局、上半分はロマネスク様式のまま残されました。

このファサードの下半分、特に中央の扉の回りには、善を象徴するブドウや悪を象徴するイチジクなど植物模様をはじめ美しい装飾がなされています。彫られたものは、植物だけではありません。彫刻の中には、裸の人物像、受胎告知、磔刑などの聖書のシーン、そして、ヘビ、ドラゴン、さらには、裸の僧侶らしき人物まであります。何よりもおもしろいのは、その裸の僧侶のグルグルと巻かれた柱をたどって扉の反対側にいくと、そこにはスカートをたくしあげた修道女らしき人物が彫られているのです!

柱をよじ登ろうとしているかのような裸の僧侶?
僧侶が扉を超えて柱をくだってきたところに彫られている修道女

セックスに厳しいキリスト教の教会ファサードにこのような彫刻があっていいものなのだろうか?しかも、彫られているのが僧侶と修道女ならば、生涯を神に捧げた立場であるはずです。

色々と調べてみた結果、極めて否定的で罪深いものとして捉えられていた性を、まさに悪魔を払うものとして聖地に描いたという説がありました。キリスト教以前のエトルリアやローマ時代には、神殿に悪をよせつけないため、メドゥーサなど奇怪な表情の装飾アンテフィクサが梁の先端にとれつけられていました。お寺の仁王さまのような役割です。しかしながら、古代の装飾アンテフィクサとこの教会の裸の僧侶とは、あまりに違いすぎて受け入れがたい説です。

また、この時代はまだ性に対して自由であった古代の考え方が抜けきれておらず、多神教徒の豊穣崇拝をキリスト教的に表したものだという説も読みましたが、これもどうも納得いきません。

真実はわかりませんが、私には彫刻を行った職人の悪いイタズラだったのではないかと思えてしまいます。

さて、私がサン・フォルトゥナート教会を訪れたのはこの裸の僧侶の彫刻を見るためではありません。この教会の地下聖堂にあるダンテ以前のイタリア文学史上最も重要であるとされる人物のお墓を訪れるためでした。

祭壇前からみる地下聖堂

その人物については次回書かせていただきます。

次回記事:サン・フォルトゥナート教会の地下聖堂には、ヤコポーネ・ダ・トーディのお墓があります。



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