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エトルリア12都市連盟の首都であったヴォルシニイは、現オルヴィエートだという虚構

古代ローマ以前に中部イタリアに栄えたエトルリア文明。エトルリア人(エトルスキ)は、統一国家を築くことはなく、12都市連盟と呼ばれるゆるやかな連合を形成していました。この連盟は、結成当時は、軍事や政治を目的としたわけではなく、12都市の代表者たちが、毎年、ファヌム・ウォルトゥムネ(ウォルトゥムナ神に捧げられた聖域)に集まり、祭祀を共同で行い、民族的一体性を強めるためのものでした。(後に、古代ローマに対立するために、政治的議論もするようになります。)

12の都市国家が黒の二重丸で示されたエトルリア領域
NormanEinstein - Based on a map from The National Geographic Magazine Vol.173 No.6 June 1988., CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=241378による

歴史家によりこの12の都市が全く同じではないことがありますが、それは古代ローマにより滅ぼされたり衰退してしまった都市が入れ替わった場合などがあるからです。

ティトゥス・リウィウス(紀元前59年生まれの古代ローマの歴史家)は、12の都市を以下のようにあげています。

Caere カエレ(現在のCerveteri チェルヴェーテリ)
Tarquinia タルクィニア
Vulci ヴルチ
Roselle ロゼッレ
Vetulonia ヴェトゥロニア
Veio ウェイイ (後にPopulonia ポプロニア)
Volsinii ヴォルシニイ
Chiusi キウージ
Perugia ペルージャ
Cortona コルトーナ
Arezzo アレッツォ
Volterra ヴォルテッラ

中でも、毎年、12都市連盟の集会が行われるファヌム・ウォルトゥムネが位置したとされるVolsinii(ラテン語) ヴォルシニイ(エトルリア語でVelzna ヴェルツナ)は、タルクィニアに大きさや権力ではかなわなかったかもしれませんが、たくさんの歴史家がエトルリアの首都と考え、宗教の中心地としてとても重要な都市でした。

現在は、ウンブリア州に位置する丘上都市オルヴィエート。

「このヴォルシニイは現在のOrvieto(オルヴィエート)だ」という考えを、ほとんどの公式の近代歴史家が支持しています。そして、私もついこの間までそう信じていました。オルヴィエートの名前の由来は、Urbs Vetus(ラテン語で古い町の意)で、それは、紀元前264年に古代ローマに征服された後、町は略奪、破壊し尽くされ、住民は現在のBolsena(ボルセーナ)に移住させられ、ボルセーナVolsinii Novi 新しいヴォルシニイと呼ばれるようになったので、オルヴィエートは古い町と呼ばれたというのが通説で、どこで読んだかはもう覚えてませんが、日本語の文献でも何度も読んだ記憶があります。上記のWikipediaからお借りした地図でもヴォルシニイ(エトルリア語のVelznaと記載)は、現在のオルヴィエートの場所に記されており、湖に面しているボルセーナの場所には示されていません。

しかし、Roberto Massari氏の"Volsinii etrusca nella fonti greche e latine"(ラテン語とギリシア語の資料におけるエトルリアのヴォルシニイ)によると、エトルリアの都市ヴォルシニイが、古代ローマより破壊され、住人が移住させられたとは、ラテン語やギリシア語の資料には、どこにも書かれていないそうです。つまり、ヴォルシニイは、古代ローマに征服される前も、征服された後も、今のボルセーナであったと。

現在は、ラツィオ州に属する町ボルセーナ。ボルセーナ湖のほとりに位置する。
写真は、モナルデスキ城。

もう少し詳しくみてみましょう。

ティトゥス・リウィウスの「ローマ建国史」は、ローマ建国から始まってアウグストゥスによる帝政誕生までの歴史を叙述した歴史書で、ローマの歴史を知るうえでとても重要ですが、残念なことに、紀元前294年から紀元前217年にあたる第11巻から第20巻までは、現在残っておらず、紀元前264年、ヴォルシニイが古代ローマに征服された様子をティトゥス・リウィウスがどのように描いたかを読むことはできません。

ただ、ヴォルシニイについての記述が「ローマ建国史」に全くないわけではありません。初めて登場するのは、紀元前392年ヴォルシニイが、古代ローマの領地を襲撃した時のことでした。しかし、その際、ヴォルシニイがどこに位置するか、またヴォルシニイが現オルヴィエートから現ボルセーナに移動したことについては書かれていません。紀元前392年時点でのヴォルシニイの場所とティトゥス・リウィウスの時代(紀元前17年没)のヴォルシニイの場所(ヴォルシニイが、ローマに征服され、住民が移住したと言われているのが紀元前264年)が23kmも変わっていたのであれば、地名についてしっかりと説明を加えたティトゥス・リウィウスならば書き残したはずです。(例えば、現在のキウージについて、エトルリア時代ではCamarsと呼ばれていたが、ローマに征服されてからClusiumと地名が変わったなど説明している。)つまり、ローマ時代のヴォルシニイは、エトルリア時代のヴォルシニイと場所も名前も同じであったので、書く必要はなかったということです。

そして、現在の私たちは、「ローマ建国史」の失われた部分を読むことはできませんが、「ローマ建国史」が残っていた時代に書かれた要約本や、「ローマ建国史」をもとにして書かれたと思われるラテン語、ギリシア語の歴史書は多数残ります。しかし、そこにも、一切、ローマ征服後、ヴォルシニイの住民が新しい町に移住したとは書かれていないのです。

ヴォルシニイが、現オルヴィエートに位置していたと主張する人々は、ファレリーの例をよくだします。ファレリーとは、ローマの北50㎞ほどに位置し、エトルリアとよく似た文化を持っていたイタリア古代民族ファリシの首都でした。ファレリーは、ローマに征服され、住民は高台から平地に移住を強いられました。その遺跡が今でも残っており、移住については歴史的事実のようです。しかし、ファレリーの場合、新しい町と古い町の距離は5㎞でしかありません。オルヴィエートからボルセーナは23㎞も離れているだけではなく、カルデラ湖であるボルセーナ湖の外輪山を越えなければいけません。そして、ファレリーの町(現Cività Castellana チヴィタ・カステッラーナ)も、ローマ人に破壊されたとよく言われるのですが、ティトゥス・リウィウスの要約本には、「ファレリーは町を包囲されてから6日目に降参し、町を明け渡し、略奪された」とは書かれていますが、破壊については言及されていません。

同時代ポエニ戦争を戦っていた古代ローマは、古代ローマの影響下にあったにもかかわらず、カルタゴ側についたカプアでさえ、略奪をしても、町の城壁は残し、破壊はしていません。破壊することにより、復讐される危険性を残すよりも、政治的、経済的利点を得ることを重要視した古代ローマが、エトルリア人やファリシ人の町であったという理由だけで征服したヴォルシニイやファレリーを、破壊することは考えにくいことでもあります。

唯一、ギリシア語の資料で、ヴォルシニイの町の破壊について言及しているのは、12世紀コンスタンティノープルで活躍したゾナラスの歴史書です。ただ、この歴史書は、ヴォルシニイが征服されてから500年後にギリシア語で書かれた資料をもとに、それからさらに1000年後に書かれたものであり、破壊されたと書かれているものの、その後、町が移されたとは書かれていません。

では、なぜ、現在、ヴォルシニイは古代ローマに征服された時に、破壊され、住人は新しいヴォルシニイ(現ボルセーナ)に移住を強いられたと言われているのでしょうか。

事の始まりは、ドイツ人のエトルリア研究家Karl Otfried Müllerが1828年に出した論文「Die Etrusker(エトルリア人)」によるようです。そこには、1)「エトルリアの著名な都市は高台につくられたが、ローマに征服されたのちは、平地に移転を強いられた」と書かれており、その例として、先にあげたファレリーやポプロニア、ロゼッレなどとともに、ヴォルシニイをあげています。その際、ゾナラスの文章を引用し、2)ヴォルシニイの町は、城壁で囲まれていました。ローマ人は、勝利の後、町を破壊し、新しいヴォルシニイをつくりました。」と注釈を加えています。さらに、その本の最後の方で、地名についての考察をしている際、3)「簡単にアクセスできない高台に築かれたオルヴィエートのUrbs Vetus (古い町)という呼び名は実際何なのであろうか。ローマ人が破壊したヴォルシニイなのではないかと思ってしまう。」という、あいまいな表現の注釈を加えます。

実は、この3)のMüllerが断定したわけではない、疑問を残した文章がその後、一人歩きします。彼の死後37年後に出された第2版では、編者が入れた注釈として3)を「私は、古代のヴォルシニイオルヴィエートだと思う。」と表現を変えてしまいます。そこからは、この情報がどんどんと広がっていきました。

そして、イタリアのエトルリア学の第一人者と言われていたMassimo Pallottino氏(1909-1995)も、「エトルリア人」という本において、「ヴォルシニイボルセーナだ」という1939年の初版にもっていた意見を、何の説明もなく、1984年に出版された第8版にてゾナレスを引用し「ヴォルシニイは、古代ローマに征服されたのち、住人はオルヴィエートからボルセーナに移住させられた」と編集し直すのです。オルヴィエート説を強く支持していた彼の弟子であり後継者であったMauro Cristofani氏の影響を受けたからか、オルヴィエートに観光客を集めようとした権力者に屈したからか理由はわかりません。そして、ボルセーナでは紀元前3世紀以前の遺跡が見つかってなかったのに対し、オルヴィエートではエトルリアのネクロポリスや神殿跡などが発見されていたことが、ヴォルシニイは、オルヴィエートであるという説の後押しをしました。

しかしながら、オルヴィエート説を支持する考古学者にとっては、大変不利となる遺跡が1949年よりボルセーナで発見され始めます。それは、長さが一周6㎞近く、幅が1~2mある凝灰岩で造られた城壁でした。

1957年にボルセーナで発見された城壁の一部
城壁の一部、採掘場を示す古代エトルリアの文字のシンボルが刻まれている

ブロックの継ぎ目にモルタルなどの接合剤を使わないエトルリアの技術である空積み工法がとられており(セメントを使った練積みは古代ローマで紀元前2世紀に導入された)紀元前5世紀から4世紀のものと推定されています。そして、エトルリアの都市ヴォルシニイに、城壁があったことは、ティトゥス・リウィウスを始め、たくさんの古代の歴史家が記しています。

ここまで、古文書を綿密に調べ上げ、ボルセーナに城壁の遺跡まで発見されたので、ヴォルシニイボルセーナであったことは、確かなように思えるのですが、オルヴィエート説を支持する学者は、城壁はボルセーナに町が移動されてから造られた(その頃、古代ローマはポエニ戦争を戦っており、城壁を建造するような余裕はなかったにもかかわらず)とか、オルヴィエートでも城壁跡がみつかったと主張し、考えは変えていません。

オルヴィエートのカーヴァ通りの地下でみつかった城壁跡。
オルヴィエートの町は、聳え立つ凝灰岩の丘の上につくられており、天然の要塞に守られている。
この城壁は、唯一、アクセス可能な地点につくられたと思われる。

それでは、オルヴィエートは、エトルリア時代何と呼ばれていたのでしょうか。

Roberto Massari氏は、オルヴィエートこそが、12都市連盟の集会が行われていたファヌム・ウォルトゥムネであったのではないかと考えています。ファヌム・ウォルトゥムネが、ボルセーナあたりに存在したことは数々の文献が証明していますが、正確な位置がわからないのは、ファヌム・ウォルトゥムネが、現在のオルヴィエートであったことが明白であったからではないかと。

私は、このRoberto Massari氏の本を読み進めていきながら、公式な考古学者には同意されていないものの、ヴォルシニイオルヴィエートではなく、ボルセーナであったことにかなり納得がいきました。しかしながら、オルヴィエートのそびえ立つ岩壁を見を上げながら、オルヴィエートヴォルシニイでなかったとしても、神聖な場所であったには違いないと思っていましたが、Roberto Massari氏のオルヴィエートこそがファヌム・ウォルトゥムネであったに違いないという大胆な推論には正直驚きました。今後、さらに遺跡が発掘され、確かな証拠が発見されることを期待します。

参考資料:Vosinii etrusca, Roberto Massari, Massari editore 2020

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