歴史から抹消されたエトルリア語の数少ない考古学資料の残るオルヴィエートのネクロポリス
イタリア中部、ウンブリア州のオルヴィエートには、古代エトルリア時代のネクロポリスが残っています。
他の有名なチェルヴェーテリやタルクィニアのネクロポリスと違い、大きな土まんじゅうはなく、3×2mほどの、ほぼ同じ大きさの直方体のお墓が、きちんと並んでいます。近くで発見された凝灰岩のキリストの十字架像より「Necropoli di Crocifisso del tufo(凝灰岩のキリストの十字架像のネクロポリス)」と呼ばれています。
200以上あるお墓は、凝灰岩のブロックで造られています。墓室は、3段ほど低い場所にあり、たいていの場合、奥と横の壁の一方だけに台が設けられており、遺体や遺灰が埋葬品とともに置かれていました。
内部からみると、両サイドから積み上げたブロックで切妻屋根のように見えますが、外部には平に土が盛られており、その上には故人が男性か女性か区別できるように石碑が置かれている場合もありました。
このネクロポリスの一番の特徴は、入り口に刻まれたエトルリアの文字。
日本語に訳すと「私は、(名前)(氏族名)です。」と、たいていの場合、書かれているそうです。中には「~のお墓」という語句が入るものもあります。まるで、お墓が話せるかのような文章なのは、もしかしたら肉体が死んでも魂が生き続けていると考えるエトルリア人の死生観の表れかもしれません。
エトルリア文明は、謎に包まれていることが多く、エトルリアの言語も、全て解読されていません。他のインド‐ヨーロッパ言語と関連性がなく、現在残る考古学資料も、とても短い碑文であり、それもほとんどが固有名詞であるからです。
それでも、分かっていることがいくつかあります。
まずは、読み方。エトルリア語は、おそらく紀元前700年以前に、西方ギリシアの文字をアルファベットとして、採り入れました。26文字あったギリシアの文字のうちいくつかは、エトルリア語にはない発音であったため、使われていませんでした。反対に、エトルリア語の発音でギリシア語にない文字は付け加えられました。母音は4つしかなく(a, e, i, u)、一つ目の音節にほとんどの場合アクセントがありました。
そして、テキストは右から左に読まれ、また、長い文章の場合、牛耕式(各行交互に向きの変わる書き方)の時もありました。
文章の構造については、よくわかっていませんが、主語‐目的語‐動詞の順であった場合が多いようです。この並びだと日本語と同じですが、日本語のように膠着語であったようです。(他に、シュメール語や、トルコ語、朝鮮語などが膠着語である。)
ただ、あまりにも資料が少なく、意味を推測することができない言葉もまだあります。現在、13000ほどのエトルリアのテキストが残っていますが、固有名詞ではない言葉は200ほどしか残っていません。
それでも、ある程度の読み書きが、女性の間でも、一般的にできていたことがわかっています。
以前、私は、エトルリア語が解読できていないのは、紀元前というとても古い言語であるからと思っていました。しかし、実は、もっと古代のシュメール語は解読されています。そして、エトルリア語は、南はローマから、北はエトルリア人が植民都市を建設したポー川の峡谷まで中央、西イタリア全体の広範囲で使われていたのです。そして、非常に高い文明を持っており、その技術や宗教は、古代ローマに受け継がれています。それなのに、なぜほとんど考古学資料が残っていないのか。
それは、歴史の中にたくさんの例があるように、エトルリア語は征服した者(ここでは古代ローマ)により、故意に掻き消されたと、今では思っています。エトルリアの都市国家は、紀元前4世紀~紀元前3世紀に次々にローマに征服され、彼らの文化は、どんどんローマ風に変えられていきました。エトルリア人の思想は、征服者古代ローマ人にとっては不都合であったのでしょう。
日常会話から、少しずつ消えていったエトルリア語ですが、宗教儀式やお祈りの際には、古代ローマが帝政期に入るころ(紀元前1世紀)までは使われていたようです。
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